2.ショコラ、世界に受け入れられる。
「ショコラ、大丈夫だよ」
ティエラの声がしたかと思えば、残っていた胃の痛みが消えた。蒼い光の軌跡を辿れると、蒼い正装のティエラが私を見上げている。
優しいティエラ、大人っぽく整えられた白銀の髪が崩れないように、頭に伸ばしかけた手を落として、頬に触れて撫でる。心地良さそうに睫毛を伏せるから、そのまま撫で続けていると「くすぐったいよ」と笑われた。
「にーちゃんとユビテルが頑張るだけだし、ショコラは堂々としてたらいいんだよ」
励ますように両手を握られて、その低めの温度に何よりも癒されている自分がいる。私よりも小さな手だけど、いつだって私を先導する大きな手だ。
握り返して甘えていると、後ろから足音が聞こえてきた。規則正しく鳴る靴音、それだけで洗練された動作なのが分かる。
何もかも綺麗なのがエスだから。
ティエラの視線の先を追って振り向けば、そこにはこの世には規格外の美しい生き物が存在していた。
鮮やかで透き通るような水色の髪に、神の手で成されたとしか考えられない過ぎた美貌。それらを引き立てる蒼を身に纏って、豪奢な外套を翻しながら歩く様は王の帰還以外に例えようがない。
ユビテルが再現させたという亡国の蒼い正装は、初めて袖を通したとは思えない程にエスに馴染んでいた。
「綺麗だ」
私の隣に並び立ったエスがまるで挨拶とばかりに囁くものだから、一度受け流して再度取り込んで意味を考えていて、一拍遅れて羞恥に包まれた。
綺麗だって言った……! 確か、その、服を着ている時に言われるのは初めてだったと思う。当然、エスには到底及ばない。エスの方が綺麗だと返せば、あまり嬉しくなさそうな無表情をしていた。
数週間、賑やかな炎龍族の集落でお世話になっていたからか、エスの真顔も前以上に見分け易くなってきていた。
全く緊張していなくて、上手くいくことを確信している。美麗過ぎるが故に冷たく見える面差しも、今日は凪の如く穏やかで優しい。これが本来の強さを取り戻したエスの姿なのだと思うと、一人で不安になっていたのが馬鹿みたいに思える。
「そこのムカつく程似合いの夫婦、お呼びだぜ」
待機しているフルミネがぶっきらぼうに呼び掛けてくる。
夫婦、……夫婦? とんでもない単語に「まだだから!」と言い返すも、フルミネは「くっそうぜー」と呟きながら手で追い払うみたいに外へ促してくる。
フルミネのお陰で緊張は何処かへ行ってしまったけれど、遂に、民衆の前に出る時が来たんだ。
今、この瞬間に運命が決まる。
そう思うと無意識に立ち止まってしまう私に、エスは優美な仕草で手を差し出してくれる。
「お前は俺の隣にいるだけでいい」
私の愛する人は、本当に綺麗でカッコいい。
エスの右隣にはティエラ、左隣には私。三人揃えば何も怖いものなんてないかもしれない。
少し笑って、その手を取って、私達は光の元へと歩んでいった。
私達の姿を見て、人々は次々に言葉を失っていった。皆が皆、エスを見たまま固まっている。
まるで初めてエスを見た時の私みたいだ。あまりにも美しすぎるものを見て、何も言えなくなってしまう。視界に映しているものが生きている事実を疑っている状態だろう。
人々の感覚が手に取るように分かって、ひどく懐かしい気持ちになった。
ユビテルがエスとティエラの二人を紹介して、二人が名乗るのを聞き届けてから、あの本に準えて人々に説明していく。
約九年前、『盾』を作り、亡国の人々を守り抜いた嘗ての小さな王子が、今日まで自身の弟を連れて生き延びていた。そして、これから亡国を立て直す為、再び頂点に立つことを決意したのだと。
その吉報に、民衆は手を上げて喜び、夢に見た故郷へと帰る日が近付いてきたのだと涙していた。エスに向かって拝む者まで現れた。
歓声を聞きながら、ユビテルは一際目映い金糸に負けない美しい笑みをしていた。兄の心からの笑顔を見て、モルニィヤが幸せそうに笑っている。きっと、控えているフルミネも笑っているのだろう。
誰に取っても良い結果になる、全てが上手くいく空気が此処にある。
喜びに沸いている人々を眺めていると、ふと母の腕に抱かれている小さな子どもと目が合った。まだ何も分からない年齢なんだろう、不思議そうに私を見上げていたその子が、『異物』であるはずの私を見て笑った。
「今……」
天使の微笑みに驚いて固まっていると、小さな掌で私に向かって手を振ってくる。
見間違いじゃないのかと、瞬きを繰り返して再三確認しても、その子は私に手を振り続けている。
世界に、受け入れられていると思った。
ほんの些細な兆しかもしれないけれど、あの子の笑顔は嘘偽りのないものだ。衝撃を受けたばかりの心臓が痛い。本当に、本当なの? 信じられない気持ちだけれど、このまま何もしないわけにはいかない。
私は勇気を出して、その子に笑いかけて手を振り返した。
その行動が原因か人々がざわめき始めた。まだ紹介もされていない、王族でもない者が出過ぎた真似をしてしまったかもしれない。
多くの視線が自分に集まるのはやっぱり怖い。またたくさんの人達から拒絶されたら、私はエスの傍にいられなくなってしまう。そう思うと恐ろしくて逃げ出したくなる。
そんな時に、エスが私の腰を引き寄せてきた。
「ショコラ」
反動で腕に手を着くと、耳元で甘く名前を呼ばれる。大丈夫だから、と言われなくても伝わってくる、柔らかい声に心が落ち着いていく。
撫で上げてきた手に肩を抱かれて、見上げたエスのかんばせには慈愛の色が滲んでいる。私が落ち着いたのを確認して、エスは再び民衆に視線を向ける。
「生涯を誓った、俺の番いだ」
優しい声色で私のことを紹介してくれて、言葉選びの恥ずかしさに顔が熱くなる。でも、嬉しい。
私がいるせいなのか、状況の把握が追い付かないだけなのか、静まり返っている人々。私の存在は受け入れられるだろうか。まだほんの数秒しか経っていないはずの時間が痛く感じる。
直ぐ側から、乱雑に両手を打ち鳴らす音が一人分。
「雄二頭しか生存してねぇ中、既に番い持ちの王。将来安泰だろ。な?」
堅苦しい空気に疲れてしまったのか、いつも通りに口調を崩して民衆に問い掛けるのはプロミネだ。
静謐な空間を壊すに値する威力を持つ、王らしくない王の砕けた雰囲気に、真っ先に反応したのは下に集まっていた炎龍族の人々だった。
民衆に紛れていた橙色の髪のお兄さん達が、ちょっと柄が悪いけれど周りを囃し立てようと声を上げてくれている。
硬直を解かれた人々に向かって、普段こういった雰囲気には参加しないベルクが「仲人を任されている」と初耳なことを言い出すから皆で驚いた。
おめでたいことだと上と下でお祭り騒ぎを始めようとするプロミネ達に、さすがにふざけすぎだと一喝したり、平然と混ざろうとするペトラとティエラの首根っこを掴んで引き戻したり。真面目にやらない皆を怒るベルクを、ユビテルが宥めたり。
最初、人々はそんな私達の様子をポカンとした様子で眺めていたけれど、次第に四龍族の仲が良好なことに気付き初めて、笑顔と拍手が広がっていった。
エスは騒いでいるプロミネ達を見て呆れていたけれど、本当は少しだけ笑っていたのを私は見ていた。
人々の気が逸れているのを良いことにエスと見つめ合えば、氷をも溶かすよう温かい微笑みを向けてくれる。
「この先、何があっても俺がお前を守る」
幾度に渡って誓われる二人の未来。満面の笑みで頷き返せば、旋毛に唇が落ちてくる。
どうしようもない幸せを噛み締めていると、下から歓声が上がって現実に引き戻された。
いつの間にか皆は私達の様子を見てニヤニヤと笑っているし、人々の視線も私達に集中している。
羞恥で何とかなりそうだったけれど、私を見る視線に悪いものが一つもないことに気が付いて、更に嬉しくなって泣きそうになった。
改めて、龍族の皆を筆頭に拍手が送られる。それが一斉に喝采になった時、全てが受け入れられた嬉しさで、エスと二人、顔を見合わせて微笑み合っていた。
即日、国内でばら蒔かれた『氷龍族の王の帰還』の速報の見出しの隣に、『既に番いの姫も』と大きく書かれていた。エスが私の頭にキスをする姿絵まで付けられている。
あの時は気分が上がっていて喜びしかなかったけれど、後々になって考えてみると羞恥で爆発してしまいそうだ。
公衆の面前で恥ずかしいことをした本人は、何故かその記事を読んで至極満足そうにしていた。