1.ショコラ、救われる。◇
体内が硬質な音を立てて凍りついていく、神経が侵されて感覚も閉ざされていく。それでも私はこの美しい龍を、私の好きな人を悲しませたくはなかった。
蒼く透き通った結晶の身体を一層強く抱き締めると、無数の赤い石英が肌を破って無数に突き出した。そんな自分自身の身体を他人事のように眺めている。もう、痛覚は残されていないから。
漸く落ち着いてきたのか、暴れるのをやめた彼が本能で私に触れられることを拒む。きっとまだ意識はないはずなのに、どこまでも優しい人。
私はこのまま氷漬けになっても構わない。ただ、この人を苦しみから救ってあげたい。
幸せにしてあげたい。
ここは鳥籠だと、初めて耳にしたのはどれくらい前の話だっただろう。
人一人寝起きするには充分な広さのあるこの部屋は、部屋と呼んでもいいものか、錆びた黒い鉄格子に囲まれている。区切られた視界はとても狭い。自分の背より高い位置から見える空だって四角に切り取られていて小さい。
もう何年も、この塔の上の鳥籠と呼ばれる檻の中で一人、何の為かも分からずに生かされている。
捕らえられた当時、何が起こったのかはぼんやりとしか覚えていない。分かるのは、エルフ族と呼ばれる種族は私だけしか生き残っていないということだけ。
エルフ族、金色の髪に青や緑の瞳を持ち、白い肌と尖った耳を持つのが一般的な人型の種族。だというのに、私の髪はゆるく波打つ薄い紫で瞳は焦げ茶色だ。
掠りもしないこの色合いは何の突然変異なのか、自分以外には見たことがない。同じエルフ族からも疎まれた私の見た目は他の種族からも特異に映ると思う。
ここでは布で頭を覆い隠し、白い仮面を着けた者達に管理されている。今は出払っているのか一人もいないけれど、何か見られるとまずいことでもあるのか、どの者の顔も見たことはない。顔が見えないせいで、生き物とは思えなくて気持ち悪かった。と言っても、変な色をしている私も似たようなものだろうか。
数年人に会わず、話さず、外に出ず、私はもう自分が何を失っているのかも分からない。身体の機能という機能を使っていないから。この状態はいつまで続くのか、死ぬまでに終わりは来るのか。
そう思っていた矢先の出来事だった。
突然、耳を劈くような轟音と揺れを感じたかと思えば、周りの壁が崩れ落ち、私を捕まえていた檻も壊れていた。
もしかして、外に出られるんじゃ? 僅かに湧いた希望が活力になり、立ち上がって一歩を踏み出そうとした時だった。案の定足の筋肉が衰退していて歩けず、早々に転んで派手に膝を擦りむいてしまった。
傷を確認しようとして、膝に留まらず、身体中の至るところを怪我していることに気がついた。一つ二つと、見つける程に痛みが増して、最終的には一斉に疼き出すものだから、あまりの激痛に涙と嗚咽が零れた。その場で丸く蹲って、痛みの波が去るのを祈って耐える。
「そこに誰かいるのか」
男性の声がした。いつも食事を運んでくる人の声ではない。暫く声そのものを聞いていなかったせいで、あまり覚えていないけれど。こんなに、ひどく美しい声ではなかった、と思う。
こんな場所に人が来るわけがない。ならこの声は何なのか。痛みと恐怖で私は更に縮こまる。近くの瓦礫が押し除けられたと思えば、眩い光が差し込んできた。そこに影が出来るものだから、私は恐る恐る見上げる。
数年ぶりに、視界に大きく飛び込んできたのは、恐ろしく澄んだ空の蒼さと、透き通るような水色の髪。
久しぶりに人を見たけれど、人はこんなに綺麗な形を成していただろうか。生きているのが不思議なくらい、というか、これは生きているのだろうか。そこに立って私を見下ろしている男性は、人で合っているのか。
男性が檻だったものを一瞥し、「まさか、この中にいたのか」と問いかけてきた瞬間に、動いて喋った! と驚いてしまった。大袈裟だと思われる反応かもしれないけれど、そのくらい、男性が人であるのが不思議だった。
困った。誰かと会話なんて久しくしていない。どう返せばいいの? 私は何度か口を開いては閉じを繰り返し、遂には言葉が見つからず頷いただけに終わった。
まともに返事もしない私に構わず、男性が瓦礫の上から降りてきた。あまりの美しさに直視出来なくなった私は、男性から目を逸らして、身体を引き摺って後退した。
決して男性が怖いわけではない。何だか、近付いてはいけない気がしただけで。
「悪かった。俺のせいだ」
人の声には過ぎた美声が耳朶を打つ。無機質な低音に間近で鼓膜を揺さぶられて、何を言われたのか一瞬理解出来なかった。
男性の白い手が私に向かって伸ばされたと同時、陽の光のように暖かくて優しい蒼い光が身体を包み込んだ。痛みが引いて、みるみる内に傷が消える。なんて綺麗で速い治癒魔法だろう。
「お前もここから早く逃げろ」
私が出られるようにしてくれたのか、わざわざ瓦礫を崩してから足早に去っていく男性に、声を掛けようとして喉から息しか出てこないことに気が付いた。
せめて、御礼だけでも伝えたかった。この鳥籠から出してもらえた。怪我も治してもらえた。もう影すら見えないけれど、私はその人が去っていった方向を気が済むまで見つめていた。
私はこの事を――全てを朧気にしか覚えていられないかもしれない。けれど、蒼穹を映したような透き通る水色の髪は、確かに私の記憶に濃く、強く焼き付いていた。