異説赤マント
1 隣人
家賃が安いだけが取り柄の築五十年近い鉄筋コンクリート造アパートに三か月だけ住んでいた時の事だ。
そのアパートは今は老朽化で取り壊されて跡形も無く、またどうにも土地の状態も良くなかったようで、再度開発が入ったものの、徒歩二十分圏内にコンビニも無い不便さも祟って、今なお更地のままだ。
家賃が安いと言う事はそれなりの売りであり、鉄筋コンクリート造と言うのは部屋が広く取れると言うメリットがある。2LDK。トイレ・バス付。トイレは一応洋式で、風呂はちょっと小さいが十分入れる。全部で六部屋あったが、全て長期契約で埋まっていた。
ただ一室。私が借りた二階の中部屋、202号室を除けば。
私が借りた202号室はマンスリーマンション並みの手軽さで入れたのだ。敷金礼金も無し。
この部屋だけはよく住人が入れ替わるのだと、一階101号室で一人暮らしをする老婆は教えてくれた。
すぐにその理由を知る事ができた。
原因は、203号室の住人だったのだ。
どうにも奇妙、いや、不気味なのである。
随分長くここに居るらしいが、実は私は三か月で一回も顔を見た事がなかった。
アパート住まいとは言え、買い物に行く事もゴミを出す事もある筈だ。
なのに、私はここに来て、そしてここを出るまで、203号室の彼と顔を合わせた事は無かった。
後から思い返せば、物干し台に洗濯物を吊るしていた事も無いのではなかったか。
誰かが居る、と言う事だけは確実だった。
彼、と断言したのは登記された名前が男性だったからに過ぎない。
実際の所、男女のどちらかであったのかも不明だ。
私がこの格安物件に入ったのは短期間住める場所が必要だったからで、マンスリーマンションよりも遥かに安かったのが決め手だった。三か月後に出たのも予定通りの事だった。
もっとも、予想以上にこの格安物件は存外良い物で、問題が無ければそのまま住んでいたかもしれない。
確かに家賃の安さは魅力的だったのだ。
その部屋に入って一か月程度経った頃だろうか。
その頃になると、203号室の住人は気になっていたが、出会う事も無いので忘れかけていた。
だから。
帰って来た時に郵便受けにそれが入っていた時は酷く驚いた。
封筒である。切手は貼られておらず、直接私の部屋の郵便受けに投函した物だった。
それは隣の、203号室からの手紙だったのだ。
『暫く音が響くかもしれないので、迷惑をかけるかもしれない。迷惑料ではないが僅かばかり包ませてもらう』
紙幣が二枚ほど同封してあり、嫌な汗をかいた。
当時の私は、得体の知れない人物からの金銭に、単にラッキーと懐に仕舞えるほど豪胆では無かったのだ。罪悪感とも違う。その時の私には、それは何かの契約のように見えたのだ。
同時に、その手紙と紙幣は「隣には確かに人が居る」と言う事実を私に再認識させるに十分だった。
さて、どうするかと悩んだ私は、同じように向こうの郵便受けに手紙を入れる事にした。
直接ドアを叩いても会える保証は無い。しかしどうやら郵便受けを見る限りでは中身は回収しているようだった。
私は気にしない事と金銭は不要である事を紙に書いて、受け取った紙幣を同封して投函した。
受け取ったと思うが、隣から返事は来なかった。
手紙に記された通り、時折隣から何か大工仕事をしているかのような音が聴こえる事もあったが、生活が妨げられるほどではない。
そして、何も気にする事無くまた一か月が過ぎた。
2 奇妙な依頼
その日も郵便受けに隣人からの手紙が入っていた。
中には次のように記されていた。
『暫く留守にするので、留守中に私に来た荷物や郵便物を預かって欲しい。荷物はどこかのロッカーに纏めて預けて貰いたい。ロッカー使用料込で現金を同封する。余った分はそのまま受け取って欲しい。二週間ほどで戻ると思うので、その時はまた連絡する』
『追記 私宛の荷物は決して開封しない事。また、他の人間には私の事を伝えないでほしい』
同封されていたのは一万円札だった。二十四時間のロッカーでも一か月は使える。半額でもお釣りがくるだろう。残りは口止め料なのか、と察した私は迷ったものの、留守では仕方ない。
無視する、と言う事も頭を横切ったが、短い滞在とは言え住人とトラブルを起こす事は避けたかった。
そうして私の日課に、隣人の郵便受けの確認が入った。
問題は私の予定の方で、ここを出る予定は一か月を切っている。二週間ではギリギリだ。隣人のスケジュールがずれれば大変である。
その時はどうしようもないので伝言を残すしかないと割り切った。
最初に届いたのは三日後。何か細長い箱状の物が入った封筒だった。
大きさは縦二十センチ弱。横幅三センチ弱。中身を見たわけではないが、手触りからして箱はどうも木製らしく、万年筆のような高級な筆記用具を納めるような感じだった。
その頃はコインロッカーの管理も厳しくはなかった。コインロッカーを使う問題行動が増え始めてチェックはどんどん厳しくなったが、その頃は数百円で一週間程度使える物もあった。
そう言えば、コインロッカーベイビーのような話が出てきたのもあの頃では無かっただろうか。
コインロッカーが混沌状態だった事は確かだろう。
次に荷物が届いたのは箱から更に三日後。今度は普通の大学ノートのような物が入った大型封筒だった。私はそれも同じく追加料金を払ってロッカーに預けた。
同じ時期に、私は奇妙な体験をした。
それが、この話におぞましさを覚える直接の要因になったと思う。
それはこの封筒をそのままロッカーに入れた帰りだった。
私は生まれて初めて警察官に職務質問を受けた。
当時の私はサラリーマンのような格好こそしていなかったが、別に反社会的組織や集団に属していたわけでもなく、もちろん麻薬や覚醒剤とも無縁だった。
しかしそれ以上にこの警察官がどうにも奇妙だった。
私にかける質問はどうにも的を得ず、そのくせ荷物には執拗に調べていた。
まるで野良犬がゴミバケツに鼻面を入れるように私のカバンを徹底的に調べるのだ。
結局、何も出てこなかったわけだが。
私は試しにこの警察官の所属と姓名を尋ねてみたが、恫喝交じりに追い払われた。
余りにもおかしいので、私は最寄りの警察署に苦情を出しに行った。
ところが、どうにも私が言う姿の警察官は居ないと言う結論に達した。
不祥事を望まない警察が隠した、と言うわけではない。
今年度の警察官の顔写真を並べて確認までしたのだ。
私服警官なら越境する事もある。ただし、その場合でもきちんと地元の警察署に断りを入れるのが警察内部のルールである。まして制服警官は基本的に地元である。
つまり、私に接触したのは偽警官だったのだ。
警察の振りをするのは完全に犯罪である。
例えば、警備会社などが警察と同じ制服、或いは極めて酷似した制服を使う事。
パトライトに酷似したオプションを車に取り付ける事。
これらは間違いなく犯罪なのだ。
これには警察も問題視せざるを得ず、偽警官注意のアナウンスが数日に渡って近隣を騒がせる事になる。
しかし、私には別の考えがあった。
なぜ警官に扮してまで私に絡んできたのか?
私自身に覚えが無い以上、その原因は隣人にあると考えても差し支えは無いだろう。
隣人が何をしているのか。
更に三日後。届いたのは小包だった。
大きさは350ミリの缶ビール六本セット程度。
問題はこれがクール宅急便で送られてきた事だ。
さすがにこれを貸しロッカーに入れるのは問題なのではと判断に悩んだ。
しかし、ほぼ同時に隣人からの手紙にが届き、預けて構わないと記してあった。
隣人はきっかり二週間で戻って来たようだった。
私はそれまでと同じように連絡を受け、貸しロッカーのカギを彼に渡した。
その数日後。
私は部屋を引き払った。
隣人も、その直後に姿を消したらしい。
部屋を去る直前。
私は彼から一冊の小さな手帳を受け取っていた。
それは隣人がこの世に唯一遺すと決めた物だった。
一つだけ、挙げておこう。
この数日後。一部で戦後最悪と呼ばれた連続猟奇殺人事件が発生する。
あまりにもおぞましいその事件は犯人逮捕失敗と被害者の死体状況の余りにも悲惨な事から、遺族にすら遺体を確認させなかったと言われている。そのせいで情報は大きく出回らず、やがてその事件は怪談話のような物に変容した。
私も実際に確認したわけではない、噂に過ぎない事だが。
被害者を襲った犯人は背中が血で真っ赤に染まっていたらしい。
連続殺人鬼赤マントと言う都市伝説はかなり有名で、連続殺人の部分は明治期に起きた『青ゲット(毛布の事)殺人事件』に起因すると言われている。
しかし、この事件ももしかしたら都市伝説の醸成に一役買ったのかもしれないと、私は考えている。
それはそれで幸福な事なのかもしれない。
少なくとも、隣人が遺したこの手記に記されている事が真実だとすれば。
連続殺人と言うおぞましい事件すら、霞んでしまうかもしれない。
3 遺された手記
始めに断りを入れておきたい。
貴方を利用した事はたまたま偶然であったと言う事だ。
私にとって人生をかけた大きな勝負が、たまたま貴方が来た時期に重なったと言う、ただそれだけの事だった。
新しい住人である貴方を試したのは貴方の人間性を確認したかったからだ。
私が行おうとしている事はとても罪深い。その事に首を突っ込みそうな人物では困るからだ。
貴方はよくやってくれた。どれほど感謝の言葉を並べても尽くせないほどだ。
全ての準備が整い、私はようやく救われる。
私がこのような物を貴方に贈ろうと考えたのは、貴方には私の事を知る資格があると言う私の勝手な思い込みに過ぎない。
なので、これから私が書き残す罪深い事実を知る事を拒否するのなら、どうかここで閉じてこの手帳ごと燃やして欲しい。
貴方は呪われた血筋、と言う物が存在すると言う事を信じるだろうか?
確かに、この世界には近親婚で血筋を濃くして精神を破綻させた人々も存在する。
しかし、私に流れるこの血は、近親婚で紡がれた物ではない。
遥か遠い過去に人と交わったおぞましい存在の血が流れているのだ。
しかし、この血はどれほど系譜を重ねようと薄まる事は無い。
何かのきっかけで、目覚めてしまう。
身体が変質し、海の底に眠るこの世を喰らい尽くすであろう禍々しき神に傅く運命を歓喜し受け入れる。
そんな呪いが存在するのだ。
私が目覚めたきっかけは、ある女性と関係を持った事だった。
今でも思い出す。
彼女は私のような呪われた血筋を目覚めさせる役目を持った巫女だった。
それ以来、私の身体は徐々に変質し、とても外を出歩けるような物ではなくなってしまった。
私は幸いなのか意識まで支配されなかったが、それも時間の問題だとわかっていた。
私は何とかこの呪いを抜く方法を探してみる事にした。
だが、同じような事を考える人々に出会うも、邪神の呪いは決して外せないと言う答えが浮き出るだけだった。
だが。その研究は無駄ではなかった。
私はその中で、ある希望を見出した。
自分の身体を更に変質させる方法があると言う知識を手に入れたのだ。
人には戻れない。だが、自分を保てる可能性をそこに見出した私は、人生をかけてその儀式に挑む事にした。
必要な物を全て揃える手筈を整えたが、手元に置く事は一苦労だった。
私はこれらを手に入れる為に、多くの存在を敵に回したのだ。
中には私の手に入れた物を奪い取ろうと考える輩も居た筈だ。
もしかしたら貴方は物取りか、それに似た不愉快な事に遭遇したかもしれない。それは全て私に起因する事であると思う。少なくとも、本を狙った連中は鼻が利く。私と貴方が直接顔を合わせていたなら、連中は貴方に強硬な手段で物を奪い取ろうとしたかもしれない。
私が貴方を通して揃えた物は『鍵』『本』『供物』だった。
貴方が私の想像したとおりの人物なら、これらの物を見てはいないと思う。
『鍵』とは銀製の小さな鍵だ。ただし、これはただの鍵で儀式を行わなければ意味を為さない。儀式を経てこの鍵は別の世界への移動を助ける物となる。
『本』は肉体を変質させる儀式を行う方法を記した物だ。海外で出版されたとても貴重な本で、私が手に入れたのは和訳の写しだった。これを狙う者は多い。
そして『供物』は肉だ。新鮮である必要は無いが、手に入れる事が面倒で『本』を手に入れてから目当ての場所から入手した。
私は呪いの血を捨て、人間をやめる。この世界も去る。おぞましい怪物となって生き永らえる。
それが幸福な選択であるとは断言できない。
しかしそれでも、私は後悔しない。
ただ一つ。迷惑をかけた貴方に真実を知って欲しいと言う最後の理性がこの手記を残す事を決めた。
私はすでに身の回りの物はあらかた処分している。残るのはこの手記だけだろう。
読んだのなら忘れて欲しい。
この手記を捨てて欲しい。
それだけが私の望みである。
深きものが食屍鬼になろうとしたらどうなるんだろう?