わが町百原一丁目
月葉市百原一丁目は月葉レール(TR)の月葉駅から南へ、1km、バスなら五分。駅近と言うわけではないので、東京に通勤するにはそう便利ではないが、たまに出かけるならば、遊歩道づたいに駅まで二十分かけて歩くのも悪くない。
学術都市の中心地に極めて近く、学校、病院、買い物、文化施設など全て手近にあり、しごく便利な環境である。周りを公園と研究機関のキャンパスに囲まれてポツンと隔絶されているため中心地に近くても静かな住宅地になっている。
すぐ近くの大通りにはバス停もあって、東京への直通バスも便利に運行されている。 四車線の大通りではあるが街路樹帯と歩道、自転車道がゆったりと整備されているので喧騒感はない。ただ住宅ばかりが並ぶ無味乾燥な場所ではなく、一歩外に出れば公園のまわりには花屋さんやおしゃれなレストランや喫茶店もあるし、小さな会社のオフィスもある。それなりの街の香りもあるのだ。月葉という土地柄、住んでいるのは会社員の他に国や民間の研究者や大学教員、医者が多い。ここは学術都市の中でも最初に住宅地として研究者が住みついた所だ。
学術都市が出来た当初は、新治郡月葉村であり店舗なども全く無い状態だった。東京から五〇㎞ではあるが、交通手段がなく、あたりは雑木林や畑ばかりの陸の孤島であった。研究所の立ち上げにかかわる人たちは公務員宿舎に住む他なかった。職住一体で建設されたことが最大の特徴となった。
学術都市には百原の他に天久保や梅園に戸建住宅用の区域が用意されており、区画整理は行われていたが、畑や空き地になっていた。学術都市がどのように発展するか、どこが繁華街になって行くかも未定だったので、これらの住宅用地も商店が立ち並ぶ可能性も残して「第二種住居専用地域」と指定されていた。学術都市計画の中では全くの住宅地である「第一種住居専用地域」というものは、主に地権者の意向で、準備されなかった。
学術都市が発足して十年位してから、公務員宿舎を出てこれらの住宅地に住みつく人たちがボツボツと出てきた。その人たちが最初に住みついたのが公務員住宅に隣接した百原一丁目だった。
住宅メーカーの建売や、一斉販売などは無く、徐々に中低層の町並みが形成されていった。地権者の中にはここに小さな店舗やアパートを作る人もいた。相続や転出で、土地が放出される時が、住宅の建設される時だった。ちいさな区画は戸建住宅となったが、大きな区画は買い手がなく、大抵は将来の発展を見込んだ不動産業者の所有になって行った。
学術都市全体は、計画的に作られたが、百原一丁目はどこかの宅地造成会社が売り出した団地ではなく、徐々に住民が築いていった自然発生的な集落である。そしてそれが百原一丁目の魅力でもあり弱点でもあった。
住宅だけでない自然な町並みは心地よいものであったが、不動産屋の所有地が多くなったことが今の災いのもとを作った。都市計画というものは区画整理に終らず、街の成熟までフォローすべきなのだが、残念なことに、月葉研究学術都市にはそれがなかった。




