◆3
食事を終えたあたしは、部屋の前まで彼のお兄さんと一緒だった。
「陽太」
部屋のドアの取っ手に手をかけたところで、ずっと無言だった彼のお兄さんが、呼ぶ。
反射的に振り返ると、彼のお兄さんがやはり無表情で言った。
「お前はいつまで、そこに居るつもりなんだ」
──右手が、痛かった。同時に胃も痛みだし、吐き気に襲われる。食事を全部食べたことを今さらながらに後悔した。
あたしは何も答えず、応えられず、部屋の中へと逃げ込んだ。
真昼だというのに彼の部屋は、カーテンを閉め切っていて薄暗い。ドアを閉める音が部屋に響き、その後静寂に包まれる。
冷たいドアにもたれながら口元を押さえた。吐きたくてもここに吐いたらまずいという本能でなんとか堪える。
だけど全部吐き出したくて堪らなかった。
左手が、疼く。
右手の手首が痛くて痛くて堪らなかった。
「…つ、月子ちゃん…?」
薄暗い部屋の片隅から声がした。それは馴染んだあたしの声であり、彼の声。それがすぐに分かったから、驚きはしなかった。なんとなく居るとは予想していたけれど、実際に居てくれたことに、少し安堵した。
気配を伺いながら、ベッドとクローゼットの隙間からこそりと小さな人影が這い出る。一応隠れていたらしい。
自分の部屋なのに、なんだかその様子が可笑しかった。少し笑ったら、吐き気も少しおさまった。
「……終わった、わよ…」
「…っ、ごめんね、吐きそうなんでしょう? いいよ、吐いて」
「いやよ、もったいない…」
「えぇ、そういう理由なの!?」
あたしの顔をした彼は、情けないくらいに動揺して、表情がくるくると動く。あたしの体はあたし自身よりも、彼が中に居る時の方が素直に思えた。
「ごめん、少しだけ、横になっていい…?」
「い、いいよ、楽にしてて! 吐いてもいいからね、外に水道あるから、ぼく片付けるし大丈夫だよ」
なんだ、そうなのか。この部屋と外は何度か出入りしてたけど、ぜんぜん気がつかなかった。でもこの時期に外で頭なんか洗ったら寒いだろうな。
そんなことを思いながら、のろのろと彼のベッドに横たわる。彼はちょこんとベッドの脇に正座しながらあたしの顔を覗き込んだ。心配そうにその瞳が揺れている。
あたしはきっと、そんな顔しない。そんな風に他人のこと、心配したりなんかしないのよ。
「ご、ごめんね、巻き込んじゃって…」
「…まったくだわ…」
ごろりと仰向けになって息を吐くと、体はだいぶ楽になった。
あたしの言葉に彼はまた涙ぐむ。そんなに涙、あたしの体には無いはずなんだけどなぁ。心と体って、不思議だ。
「…ねぇ」
「は、はい」
「日向、て…誰?」
なんとなく、予想はついていた。だけどちゃんと確認したかった。
彼はその名前が出てくることを予想していたのか、意外にも落ち着いた声音で答えた。
「……ぼく、の…兄さん…」
ちらりと目だけで彼を見る。泣いていると思っていた彼は、意外にも泣いてはいなかった。
「ぼくが殺した、この家の長男だよ」
彼と一番上のお兄さんは、確か10も歳が離れている。そして10年前に、事故で亡くなった。そう聞いている。ちょうど今の、彼の歳で。
「日向兄さんが亡くなった後、償おうと…日向兄さんの代わりになろうってガンバったけど、…ダメだった。父さんも母さんも晃良兄さんも、はじめは期待してくれてたけど、ぼくは期待に応えられなかった。次男の晃良兄さんは、最初医者になる気なんてなかったんだ…病院の後継には日向兄さんが居たし、晃良兄さんは自分の好きな進路に行くはずだった。だけど、ぼくが学校にも行けなくなって…それから晃良兄さんは、進路を医大に変えざるをえなくなった…父さんは大事な期待の跡取りを失ったし、母さんはきっと日向兄さんが一番大事で大切だった。晃良兄さんの将来を、自由を奪ったのは、ぼくだ…ぜんぶぜんぶ、ぼくの所為なんだ」
あたしから視線を逸らした彼の表情は、もう見えない。視界には天井だけが浮かんでいる。
「ぼくは家族でひとりだけ、こんな見た目で…母さんの血縁の先祖返りらしいけど、それでも幼少の頃は、かわいがってもらってたんだ。父さんにも母さんにもあまり似てない…晃良兄さんは父さん似だけど…だけど唯一日向兄さんにだけは、少し顔立ちが似てるって、言われてた。ぼくはそれが、嬉しかった」
彼の言葉を聴いていると、どうしてだろう胸が痛くなる。
「ぼくも一番、日向兄さんにかわいがってもらった。ぼくも日向兄さんが、大好きだった」
胸の内の内から湧き出てくるのは、“あたし”じゃなくて、きっと“彼”のものだ。
「中学の頃までは、本当に部屋からほとんど出なかった。食事も部屋の前に運んでもらって、ひとりで食べてた。だけどこのままじゃダメだって、思って…食事だけは家族ととるって晃良兄さんと約束した。高校生になって、本当に久しぶりに、家族で食卓を囲んだ。そしたら母さんはぼくを見て、「日向」、て……笑ったんだ。母さんの笑った顔を見たのは、本当に久しぶりだったんだ」
彼は泣いてはいなかった。泣いていたのは、“あたしの方”だった。
「相変わらず学校には行けなかったけど…だけどせめてこれだけは、守らなきゃと思った。…母さんの前では、日向兄さんになろうって。結局なりきれていないこともわかってる。何も変われていないことも、わかってる。だけど母さんがぼくをそう呼ぶなら、それだけでもう、良かったんだ」
それは弱さだろうか。それとも強さだろうか。
あたしにはわからなかった。彼の体が流した涙の意味も。
ごろりと寝返りをうちながら、彼に見つからないように涙を拭う。あたし自身が泣いていたわけじゃなかったけれど、なんとなく見られたくなかった。
それから息を吐いて、起き上がる。
「まぁあたしには関係ないから、別にいいけど」
言ったあたしに、彼はくすりと笑った。作り損ねたへたくそな笑みだった。
「そうだね、月子ちゃんには、関係のないことだね」
あたし自身が上手く笑えないのに、彼は笑うから不思議だった。あたしならきっと、笑えない。そんな風にできない。素直に泣くことも、痛みを抱えて笑うことも。
「…帰るわ」
「…え…」
「だいぶ落ち着いたし、まだ元にも戻らないみたいだけど、帰るわ」
ベッドから降りるあたしにつられるように、正座していた彼も慌てて立ち上がる。
「1日に2度も髪染めるの面倒くさいし、フード被るから、メガネだけでいい?」
「あ、う、うん! いいよ、今日はもう、いいよ…!」
いつもなら外に出る時は絶対染めてって言うくせに、あたしへの罪悪感からか、彼はすんなりと了承してくれた。
パーカーのフードを目深に被り、さっさとカバンと携帯だけ持ってスニーカーを履く。はやく家に帰りたい気持ちと、はやくこの部屋から出たい気持ちに駆られた。
「で、あなたは?」
すぐ後ろに居る彼に向き直って、訊く。
ここは彼の部屋で、帰る家だ。
それでもあたし達は今お互いの体が入れ替わっていて、帰る場所も違うってことぐらい、もう十分分かっていた。
だけどなぜかそう、訊いていた。あたしにもよくわからなかった。
彼はずっとこの部屋にひとりで居た。内からも外からもひきこもって。自分の身を守るだけの弱虫だ。だけど。
「あなたは、どうする?」
だけどそれでも生きる為に必要な選択だったように思う。
彼みたいに弱いひとは、外の世界じゃきっと上手く生きていけないだろう。ここでしか生きて、いけないだろう。
彼はあたしの問いにきょとんとしていた。一瞬何を訊かれているのかわからなかったようだ。それからひどく小さく、答えを返した。
「ぼく、も…ぼくも、行く…」
「そう、じゃあ」
彼はきっと、上手な生き方を選べないだろう。どこにもそれが、用意されていないのだから。だけどそれでも。
「いっしょに帰ろう」
彼の居場所はここではない気がした。それがどこかも、分からずに。




