◆1
朝、目が覚めた時。ぜんぶ夢だったのかな、と思う時がある。ぜんぶ夢だったら良いのに、と思う時がある。それは些細な現実逃避に過ぎないのだけれど、それでもそれは昔からあって、未だ時々繰り返してる。
自分でも解っている。いや、でも、解らない。
どこから夢であって欲しいのだろう。いつから夢であって欲しいのだろう。
それはもうずっと、ずっと前のことのような気が、していた。
◇ ◆ ◇
――ピピピピピピピピ
重い意識の中に容赦なく介入してくるのは、目覚ましの音。随分と馴染んだその音は、いつもの朝が始まる合図。
染み付いた習慣があたしの瞼をこじ開ける。主人になんの断りもなく、だ。
「…そっか、今日、補講だ…」
ぽつりとつぶやきながら、もはや条件反射で目覚まし時計に手を伸ばしアラームを止める。
なんだかやけに違和感がある気がしたけれど、本来なら今日は休みなんだ。そう認識するとすこぶる体が重たい気がする。やる気が出ない。
霞む視界に映るのは見慣れた天井。カーテンの隙間から覗く窓の外は未だ薄暗い。それでものそりと上半身を起こし、寝ぼけ眼に映ったソレに、思考が停止した。
「────き…ッ!」
理解し難い状況に思わず叫びそうになり、復旧した理性がそれをなんとか制する。ほぼ同時に動いた両手のおかげで早朝から迷惑な悲鳴を上げることは免れた。勢いがあり過ぎて自分の顔が痛いけれど。
こちらの荒い動悸と呼吸とは裏腹に、呑気な寝息が聞こえている。すぐそこで。
「──月子…?」
「…ッ!」
すぐ脇にある障子の向こうから聞こえてきた声に、慌ててふとんをソレにかぶせた。そのふとんの下からアヒルのようなうめき声が小さく聞こえ、更に毛布で押さえ込む。
それから形だけの平静を装い、呼ばれた声に応えた。
「な、なに…?!」
「…お前こそ、朝っぱらから何暴れてんだよ」
「ご、ごめん、ちょっと夢見が悪くて…っ」
「…そ。お前今日ガッコだっけ、俺もバイトあるから八時前には起こして」
「わ、わかった…!」
言って、寝静まった気配を確認してから、そろりと押し付けていた毛布をどかす。その更に下のふとんの隙間から彼が顔と共に大きく息を吐き出した。
「ぷは! な、なに…うぐ!」
全く状況を理解していない彼が漏らした声に、あたしは再び肝を冷やし、勢いよく彼の口を両手で塞いだ。目覚めたばかりの彼がいきなりの状況に目を白黒させているけれど、こっちもそれどころじゃない。
「こえ、ださないで…!」
彼の眼前でなるべく小声でそう言うと、彼はその双眸にあたしの姿を映し、それから記憶を探っているのであろう時間を数秒要した後、こくりと頭を傾けた。それを確認して、押さえつけていた両手を彼の口からそろりとはがす。
未だ混乱する頭と胸に酸素をめいいっぱい送りながら、自分も状況を理解する為再度記憶を掻き回す。
目の前に居るひとのこと、それから今の“自分”のこと。互いの目に映るのは、紛れもなく自分自身。そう、つまり。
「……戻ってる…」
記憶を少し遡ろうと思う。そうだ、昨日は本当に、散々だったんだ。
あたしと彼は学校の階段から落ちたことによって(推測でしかないけれど)突如体が入れ替わってしまい、途方に暮れていた。原因も戻る方法もわからないし、時間は夜の九時を回り、流石に心身共に疲弊していた。
それでもそのまま家に帰るわけには行かないからということで、彼の終電の時間まではそのまま学校で待ってみることにした。ひとまずは時間の経過に身を任せてみたのだ。
その間、少しお互いの話をした。そのまま体が元に戻らなかった事態に備えて、必要最低限の素性は互いに知っておくべきだったから。
屋上へと続く階段の踊り場の端と端に座りながら、さほど多くは無い会話をして時間を潰した。
住んでる場所や、家族のこと。それから学校でのこと。
「今気づいたんだけど、あなた同じクラスなのね」
「え…! あ、そうだったの…!?」
「…あなた、あたしの学生証も見たんでしょう」
「あ、えっと、気が動転してたし…気づかなかった…」
確かにうちのクラスには入学してからずっと不登校の生徒がいる。出席日数が足りなくても進級できたのは、こっそりと受けた試験の結果とその他によるものだと噂を聞いたことがある。
彼…鈴木陽太は、なんの因果かあたしのクラスメイトだった。
「月子ちゃんは…1回も学校休んだこと、無いんだね…」
「休む理由もとくに無いもの」
「エライ、なぁ…ぼくは…学校に来る理由が、見当たらないんだ…」
あたしの体を更に小さく曲げながら、彼はか細く呟いた。ぎゅう、と小さく。壁に呑み込まれてしまいそうなくらい。
だったらなんでこの学校に入学したのだろう。そう思ったけど口にはしない。
この学校は割と有名な私立校で、あたしは特待生として入学したけれど、学校の殆どは富裕層の家の子達ばかりだ。お金があれば入れるし、進級も卒業もできる。暇とお金を持て余している、そんな生徒ばかりだと思う。少なくともあたしから見ればだけど。
「じゃあ今日はなんでここに居たの」
「それ、は…」
彼は言い難そうに口ごもり、更に体を縮める。なんとなく察しはついていたので言及はせずそれ以上の言葉も発しなかった。彼がここに居る理由なんて、実際のところそこまで興味はないのだから。
「…つ、月子ちゃんは…、どうして、屋上に…?」
たっぷりと間を置いておきながら質問には答えず矛先をあたしに変えてきた彼は、おそるおそるそう口にした。
質問しているくせにこっちを全く見なくて、失礼なひとだなと思った。それでもやっぱりどうでも良い気がして、質問の答えだけを簡潔に口にする。
「暇つぶしの相手をさせられていただけよ」
彼の不登校の原因とあたしをいじめている奴らは、おそらく同じなんだろうと思った。
後半はどうでも良い話をしながら時間が過ぎるのを待ったけれど、日付が変わっても体が元に戻る気配は全くなく。流石にそれ以上は、待っていられなかった。
「……仕方ない…帰ろう」
このまま時間に任せても何にも解決しない。わかったのはそれだけだった。
あたしの結論に隣りに居た彼は驚いたように顔を上げ、あたしに視線を向けた。怯える小動物のようだなと思った。
「か、帰るって…っ どこに…?!」
「どこにって、家に決まってるでしょう」
「この状態で?!」
本当、必要時以外のところでは大声が出せるひとだなと思いながら、立ち上がり背を伸ばす。コキコキと小さく骨が鳴った。
「しょうがないでしょう。このまま待っても解決するとは思えないし、明日も学校だし」「で、でも…!」
「あなただってはやく帰らないと終電なくなるわよ」
「い、いざとなったらタクシーで帰るから、ぼくはいいんだけど…」
顔はあたしでもその金持ちの坊ちゃん発言にイラリとした。お互いの持ち物は交換済みだったけど、あたしのお財布のままだったら確実に彼は家に帰れなかっただろう。
「一晩寝てそれでも元に戻ってなかったらその時に考える。しつこいようだけど、戻らなくても学校には必ず来てよね。まぁその時は念の為迎えに行くけど」
「待って昼間にぼくのまま外出歩かないでお願い…!」
「じゃあよろしくね」
「順応性高すぎだよ月子ちゃん…!」
またもや半べそをかきだした彼に若干呆れつつ、それでもそれ以上構う気はなかった。カバンを持ってくるりと背を向ける。
「まぁ、目が覚めたら夢でした的なオチで終わることを祈るしかないわね。それじゃあ」
「ま、待って……!」
階段を一段下りたところで彼が叫んだ。暗い校舎に木霊するのはあたしの声。
「ぼくも行く…!!」
「……意味がわからないんだけど…」
「だ、だって、このままここに居るなんてムリだし…」
「自分の家に帰りなさいよ」
「ひ、一晩くらい帰らなくたって大丈夫だよ…! 朝までに部屋に戻れればいいし、それに…!!」
「………それに…?」
聞き返したあたしに彼は一瞬開きかけた口を噤み、それから相変わらず言いにくそうにおずおずと口を開いた。
「元に戻ったとき、体がどっちだか、わからないし……その、例えばそれぞれの家で目覚めちゃって、携帯がなくても、困るし…」
…呆れた。確かに体が戻ったとして、中身と体どっちに依存するのかはナゾではあるけれど。一番に心配するのが携帯なんて…彼は携帯が無いと死ぬのだろうか。
「だからなるべくは一緒に居た方がいいと思うし、それに女の子の体の扱いなんてわかんないよ…!!」
彼の訴えに心の底からどっと疲れが沸き起こり、もはや反感する気力もなかった。一理あると言えば一理あるし、どうでもいいといえばどうでもいい。とにかくあたしははやく家に帰りたい。それだけだった。
「……わかった、いいわ…確かに目覚めた時ここでも路上でも他人の家でもイヤだし」
「ほ、本当…!? 良かった…!」
「その代わりあたしの朝は早いから。あたしの家ではあたしの言うこと絶対にきいてよ」
「わ、わかった…!」
──そんなわけで。ひとまずは一緒にあたしの家に行くことになったのだ。
帰り道、彼の体が自転車に乗れないという事実に打ちひしがれ、結局歩いて帰ることになったり、彼の弱音やネガティブ発言に神経をすり減らしながらもなんとか家まで辿り着き。そうして漸く辿り着いたあたしの部屋で、ふたり一晩を明かしたのだ。
そして、今に至る。
どうしておなじふとんに寝ていたのかは全く記憶にないけれど、途中で元に戻ったのなら、寝ぼけながらでも自分のふとんに入ったのかもしれない。もうそこは深く考えないでおこう。疲れるだけだ。
とにもかくにも、元に戻ったのだ。間違いなく自分の体に。
やはり夢だったのかと思いたかったけれど、彼がこうして目の前に居る以上、すべてがまるっと夢だったというわけにはいかないらしい。
「…とりあえず、良かった…」
「そ、そうだね…」
ぼそぼそと小声でしゃべりながら、改めてお互いを見やる。昨日帰った時にはもうそれどころじゃなくて気が付かなかったけれど、制服のまま寝ていたらしい。制服が皺だらけだ。アイロンをかけてる時間はあるかな。
なんにせよ先に彼を帰さなくては。
「念の為玄関まで誰も居ないか確認してくるから、ここでおとなしくしてて。まぁまだ誰も起きてはいないと思うけど…」
あたしの言葉に彼は素直にこくりと頷き、それを確認してからそっと部屋を出る。
時刻は朝の4時半。あたしと夜勤明けの母親以外の家族は未だ眠っているはずだ。それでもこんな時間に見知らぬ男が家に居たら不審だし、何より説明が面倒だ。こっそり帰ってもらうに限る。お互いに。
弟達の部屋をそっと覗いてみんな眠っていることを確認し、それから台所を覗く。ごはんの炊き上がる匂いがしていて、反射的にお腹が小さく鳴った。出来た弟に感謝しつつ台所で少し作業し、それから部屋にそっと戻った。
部屋の扉を静かに開けて中に入ると、彼はベッドにもたれかかりながら体は起こしているものの、うつらうつらと夢の中を彷徨っていた。
昨日眠りについたのも遅かった上に、こんな朝はやくに起こされたら仕方ないだろう。あたしも慣れてるとはいえいつもは寝る時間がはやいので、流石に少し眠たい。
とはいえここでそのまま寝られても困るのはお互い様。彼の隣りにそっと腰を落とし、その肩に手を置いて軽く揺さぶった。
「…ちょっと」
「うぇ、あ、月子ちゃ、むが」
「声出さないでってば。隣りで弟が寝てるの」
「ご、ごめん」
慌てて抑えた手の下で彼が申し訳無さそうに小さく謝り、それに息を吐きながら「こっち」と部屋の外に促す。彼は大きな体を小さくしながら靴だけ持って、あたしの後に続いた。
それからさほど距離もない玄関まで無事辿り着き、一応外も確認しながらなんとかふたり外に出る。 外はまだ薄暗く肌寒く、やっと日の光が差し込み始めたばかりだった。
町も家も人もまだ活動を始めるには早い時間。彼はここに来て漸くやっと緊張が解れたようで、背伸びをしながら空を仰いだ。
「うわぁ、ぼく、朝日なんて久しぶり…」
「そうなの? ひきこもりって朝日と共に眠るイメージだから、朝日はお友達なのかと思ってたわ」
「はは、月子ちゃんて容赦ないよね…ぼくはわりと健全なひきこもりで、夜眠って昼間は起きてるよ」
なによ健全なひきこもりって。よく分からないところでポジティブな思考なんだから。
それにしてもこうして会話を交わしても違和感を拭えない。昨日だって散々会話していたけれど、初対面にしか思えない。まぁ見た目が違うんだから当たり前か。
「………確かに、目立つわね」
思わず零れたあたしの言葉に、彼は何のことだがすぐに察しがついたらしく、ばつが悪そうに顔を歪めて俯く。
昨日、眠る前に彼の髪についていたカラースプレーは洗い落とした。枕やふとんが汚れてもイヤだったし、何より頭が気持ち悪かったし。その時は明かりもつけずに手早く髪だけ洗い流してすぐに寝てしまったから、気がつかなかった。だけど今こうして改めて彼の風貌を見て、彼がわざわざカレースプレーで黒く染めていた理由を理解した。
確かにこれは、目立つ。良い意味でも悪い意味でも。
「…あんまり、見ないで…好きじゃないんだ、自分でも」
言った彼は哀しそう顔を背け、制服のブレザーの下に来ていたパーカーのフードを被る。
差し込む朝の日に反射するのは、プラチナブロンドの髪。彼の血筋の表れで、そしてすべての元凶だと昨日吐き出していたのを思い出した。
元凶っていう言葉はあまり好きじゃない。それでも馴染みのある単語だなとは思う。きっと誰しもそういうものを抱え持っているのだろう。特に“こっち”側の人間は。
「ま、他人事で見れば綺麗だとは思うけどね。 はい、これ」
「…え…」
言いながら差し出したものを、彼はきょとんとした顔で見つめる。
あたしの手の中にある握りたてのおにぎりと、あたしの顔を交互に見つめながら、少し間抜けな顔で。
「昨日の夜から何も食べてないし…この後どうなるかはわからないけど、ひとまずはお疲れ様ってことで」
「え、ぼ、ぼくに…!? い、いいの…!?」
「そんな、おにぎりのひとつやふたつで大げさな…」
「だ、だってぼく、迷惑しかかけてないのに…」
一瞬だけ高揚した彼の顔が、またすぐに暗くなる。差し出したおにぎりを受け取ろうとした彼の左手が寸でのところで空を切った。それを見ながら思わずため息が漏れる。
本当、面倒な人だな。苦手な部類だ。普通に生活してたら絶対に関わりたくないタイプの人。…でも。
「あなた自身にかけられた迷惑は、ひとつだって無いわよ。あなたのその卑屈な発言にうんざりはするけど」
「…ッ、ご、ごめん…」
あたしの言葉に益々俯く彼の手を、取る。彼は一瞬びくりと大きく体を揺らし、すぐにその手を引っ込めようとしたけれど、許さなかった。彼の手はとても大きく、冷たかった。
「…でも、あんなわけのわからない状況で、夜を越えたのがひとりじゃなかったのは、心強かったわ」
彼の冷たい手の平におにぎりをふたつ置く。ただの具なしの塩むすび。あたしの手で握ったおにぎりは、ふたつでちょうど彼の手の中にぴったり収まった。
「…あったかいね…」
「握りたてだから」
「ふふ、そっちじゃないけど…でも、うん…ありがとう」
やっと少し笑った彼に、あたしも少しだけ笑う。
相変わらず彼は俯いたまま。だけどあたしの渡したおにぎりを大事そうに抱え、朝日の中少しだけ熱を取り戻したようだった。
「駅までの道、わかる?」
「あ、うん、大丈夫だと思う…最悪わからなくても、携帯のアプリあるし」
「本当あなた携帯がなくなったら死んじゃいそうね」
皮肉のつもりで言った言葉に、彼は可笑しそうに笑った。年相応の、無邪気な笑みだった。
「そんな簡単には、死なないよ」
──昨日階段から転げ落ちたせいで、体のあちこちが痛かった。彼の体もやっぱり同じく、痛かった。だけど一番痛かったのは、右手のリストバンドの下。その痛みが何なのかを、確認するまでもなく理解できた。でもそれは彼だけが知る痛みだ。
そうしてあたし達は朝日の中別れを告げ、ようやく互いの日常へと帰っていった。
◇ ◆ ◇
うちは貧乏大家族だ。しかも母子家庭。そしてあたしは6人姉弟の長女。
父親は2年前に病気で他界した。それ以来、看護師の母親は夜勤中心の勤務になり、家に帰れない日の方が多い。そうすると必然的に家事はあたしがすることになる。でもそれがイヤだとか苦痛だとか思ったことは一度もない。勿論あたしひとりで全部をやっているわけではないし、ムリしているつもりは無いけど、これはあたしの義務だと思ってる。今までも、これからも。
6人分のお弁当に朝・夕のごはんの準備に洗濯に掃除。家事はすべて朝の内にやっておく。なるべくはやく帰って来るようにはしてるけど、時々、はやく帰れない日があるから。朝の内に準備しておけば、兄弟の内の誰かしらがきちんと引き継いでくれるのだ。
「月子ちゃん、おはよぉ…」
「おはよう、弦。ごはん炊いておいてくれてありがとう」
あたしの次に朝はやく起きてくるのが、次男の弦。主に家事を手伝ってくれる優しくて面倒見の良い弟だ。
「月子ちゃん今日学校だって言ってたから…」
「うん、すごく助かった」
家族兼用のエプロンをしながら隣りに立つ弦が、「良かった」と笑う。それから作りかけのお味噌汁を引き継いでくれた。
「朔夜もバイトだって言ってたから、瑠名達のことよろしくね」
「そっか…そうだ、月子ちゃん聞いた? 朔夜くん、またバイト増やしたんだって」
「…そう、なの…聞いてない」
朔夜は長男であたしのひとつ下の弟。定時制の高校に通っていて、昼間はほとんどバイトに時間を費やしている。そしてそのほとんどを、家計に入れてくれている。
実際、父親が居なくても7人家族でなんとかやっていけているのは、朔夜のおかげだと言っても過言ではない。お母さんも一生懸命働いてくれているけれど、兄弟はあたしを含めまだみんな未成年。学費に食費に生活費。かかるお金は増えていくばかり。
お父さんが生きていた時からかなり切り詰めた生活だったのに、お父さんの死後、看護師のお母さんの収入だけではとても生活なんてしていけず、あたしが高校進学をやめて就職する気でいた時…自分が働くからと言ったのが、朔夜だった。
そして定時制の高校に進んだ朔夜は、朝から晩までバイトばかりに明け暮れるようになった。それからあたし達はなんとなく会話が少なくなっていって。時間もすれ違うばかりになった。そういえば今日の朝、久々に声を聞いた気がする。
「朔夜くん、月子ちゃんが言ってもバイト減らさないし、お母さんから言ってもらうしかないかなぁ」
「…そうね…次あのふたりがいつ顔合わせられるのかが問題だけど」
「そうなんだよね。ふたり共もうちょっと家族の時間を大事にして欲しいよね」
ふたり台所に立つと、弦はこの手の話が多い。面と向かっては言えないから。ここでしか、言えないから。
その会話の向こうにたくさんの心配と感謝と罪悪感が押し込まれているから。
だから、言えないのだ。…あたしも。
朔夜、弦の下には、双子の弟がいる。小学3年生の、満と望。育ち盛りの食べ盛り、我が家のムードメーカーだ。そして、次女で末っ子の瑠名。弟達はみんなかわいいし大切だけど、やはり瑠名は特別のように思えてしまう。
まだ5才で今年の春から幼稚園に通っているけれど、少し内向的で口数が少なくて人見知りで…未だ園でも馴染めていないのが目下の心配事だ。
父親の記憶も薄く、母親もほとんど家に居ない。兄弟達は多い分寂しい思いは免れているものの、小さな体では抱えきれない思いがあるはずだ。父母という存在が一番必要な時期にそれらを欠いているのだから。それを言葉に、できないほどの。
だからあたしがその代わりになるって誓った。お父さんの分も、お母さんの分も。
「弦、あたしもう出るから8時前に朔夜のこと起こしてあげてくれる?」
「うん、わかった。月子ちゃん、携帯持っていきなよ。今日みんな家に居るし」
「…そうね、そうする」
それから家族共用の携帯を受け取り、まだ眠っている瑠名の様子だけ覗く。普段なら満も望も瑠名も起こしている時間だけど、休みの日は寝ていて良い我が家のルールだ。
そっとその小さな額を撫ぜ、もう一度弦に声をかけて家を出た。
補講は半日で終わる予定だったけれど、なんとなくそのことは、言えなかった。