◇2
有名な著者の大人達は言う。
“いじめは見逃しちゃいけない。見過ごしちゃいけない。大人は子供を守る義務がある”
教壇に立つ大人達は言う。
“みんなで仲良く、助け合いましょう。学校は人生の学び舎なんだから。いじめなんてそんなもの、このクラスには存在しない”
テレビの向こうの大人達は言う。
“いじめられる側にも非はある”
──ぼくは。
彼らの言う“子供”にはきっと該当しなくて、彼らの言う“みんな”には属さなくて、だけどぼくが悪いんだってことは、言われなくても解ってた。
だからきっと誰も助けてくれない。
はやく大人になりたくて、だけど大人にはなりたくなくて…あの小さな暗い部屋で時間だけは確実に、過ぎ去っていった。
◆ ◇ ◆
目の前で月子ちゃんに盛大な溜め息をつかれたぼくは、それでも何も言えず視線を彷徨わせる。
だって確かにその通りだけど、それの何がいけないのか解らない。ぼくがぼく自身をクズだと認識すること。それは事実であって、ぼくは今までそうして生きてきたのだから。
だけど月子ちゃんにとってそれが、溜め息に値することなのだということだけは、解った。
「…まぁ、あたしに生き方を指図される覚えはないだろうし、そこまで言う権利もないから、別にいいんだけど」
「……う、ん…」
「仕方ないか、あんまり得意じゃないけど…メール、送らせてもらいたいんだけど」
「う、うん、それなら、どうぞ…」
「お借りします」
言って月子ちゃんは律儀にぺこりと頭を下げ、ぼくが貸した携帯電話に改めて向き直る。
何故だろうドキドキと心臓が少し痛い。…あ、ちがう、これは。ズキズキ、痛いんだ。
「…ちょっと、これ…」
「ぅあ、はいっ」
低い声に思わずびくりと体が跳ねる。そろりと視線を向けると、眉間に皺を寄せるぼく、もとい月子ちゃんが、渡した携帯電話をじとりと睨んでいた。
「……どうやって、使うのよこれ」
「ど、どうやってって…あ、スマートフォン、使ったことない…?」
「……名前ぐらいしか聞いたことないわ」
「そ、そっか、じゃあちょっと扱いずらいかもしれないね…ぼくが、送ろうか…?」
「…そうね…その方がはやそう。携帯電話自体ほとんど扱わないのに、こんなもの余計にわからないわ」
むすりと言った月子ちゃんに、思わずぼくは首を傾げる。今時珍しいなと思いながら、差し出された携帯電話を受け取った。
ぼくはもはやこれが無いと、いろんな意味で不安でしょうがない。一種の依存症だと自覚している。 この携帯からイヤなメールや情報が入ってくるって解っていても…きっと絶対に、手放せないんだ。
「慣れると、便利だよ…」
「特に必要性を感じないし、あたしは要らないけど」
「……え! もしかして月子ちゃん、携帯、持ってないの…?!」
「家族用に共用のはあるけどね。 持つのは当番制で」
月子ちゃんは本当になんでもないことのように言うから、きっと心から不要だと思っているのだろう。だけどそれはちょっと、いやかなり、衝撃的だった。
それから数十分かけて、月子ちゃんに言われた通りの文章を、指定のメールアドレスに送信した。
宛先はものすごいシンプルなもので、おそらくこれが共用の携帯電話なのだろう。単純過ぎるアドレスだと迷惑メール等が来ないかとちょっと心配してみたけど、口には出さなかった。
宛先とは別にもうひとつのメールアドレスにも送ってほしいと言われたので、言われた通りにした。こちらは意外と凝ったアドレスだった。
「あの、これ、は…?」
興味本位でおずおずと口にしてみたら、月子ちゃんは少し間を空けてから「弟」と、一言だけ答えた。
メールの内容は家で待つ弟達に宛てたもので、事情があって今日は家に帰るのが遅くなるから先に寝ていなさい、ということ。夕飯はきちんと食べたのか、とか、明日のお弁当のこととか、一番下の妹さんのことだとか。そんな内容を短く簡潔にまとめて送った。
送るまでに月子ちゃんはだいぶ内容を厳選していたようで、他にもいくつかの事を口にしては「やっぱり今のはいい」と言われて入力した文章を消すといった作業を数度繰り返し、メールが無事送信されたのを確認して、ひとまずは安堵の息を吐いていた。
ぼくはぼくで、久しぶりのメール送信に、若干緊張していたらしく、無事送信ボタンを押した時、ぼくも月子ちゃんと一緒に思わず息が漏れた。
こんなに長い内容のメールを送るという行為自体がひどく久しぶりで、なのに月子ちゃんの視力の悪さに最初画面のキー入力に手間取って、月子ちゃんの指はぼくより短く、いつもの感覚との違いに戸惑って。ずっとドキドキしっぱなしだった。
このまま体がもとに戻らなかったらどうしよう。それが一番の問題点であることはわかっていた。
だけど不謹慎にもぼくは、どこか少しだけ、この奇跡めいた体験に心が躍っていた。
なぜだろう、ひきこもり過ぎて夢みがちな現実逃避癖でもついていたのか…この不思議な入れ替わりは、とうに絶望していた未来に少しだけ希望を持てる転機なのではと。どこかそうな風に思う、お気楽な思考の自分が居た。
もちろん現実は、そんなに甘くはないのだけれど。
ぼくはずっとその現実から逃げていたのだから、ある意味仕方が無いと言えば無かったのかもしれない。それはやっぱりイイワケに、過ぎないのだろうけれど。
「あなた、家は近いの?」
「え、あ、ううん…ここからは電車で30分くらいで…最寄りの駅からは近い、かな…」
「そう…あたしは自転車で通ってるけど、じゃあ、終電までは待ってみる? それとも、朝まで粘る?」
「あ、朝までここに居るってこと…?!」
「まぁひとつの選択肢としてはだけど…どっちにしろこのままじゃお互い、家に帰れないでしょう」
「…ッ、朝、は…ムリ…昼間、ここに居るのは、絶対にムリ…!」
確かにこのままじゃ家になんて帰れない。それぞれ帰る家が違うのだから。月子ちゃんとして過ごすなんて、死んでもムリだ。賭けてもいい。
だけど、ここで一夜を明かして、生徒達が登校してくるまでここに…学校に居るなんて…あいつらに会うなんて、絶対にイヤだった。
「さっきも言ったけど、このままもとに戻らなかったとしても、教室には行ってよね」
「う、え、この状況で…?!」
「あなたと違ってこっちには今まで積み重ねてきた実績があるの。もしあなたが教室に行かないのなら、こっちは全裸で校内一周するから」
「……!!!」
月子ちゃんのあまりの傍若無人な発言に、ぼくは思わず言葉を失う。
心臓がまた痛い。ドキドキじゃなくてズキズキと。
「と、とりあえずは…ッ 終電まで、待ってみる…」
やっとこ小さく吐き出した言葉に、月子ちゃんは「わかった」と答え頷いた。
こわい。つよい。こわい。今まで接する機会が無かったから知らなかった。女の子って、こわい。見た目はぼくなのに、ものすごくこわい。
一種の運命共同体だと思っていた女の子は、決してぼくの味方ではなく。
これがぼくと月子ちゃんの、奇妙な共同生活の始まりだった。