◆1
――痛い…頭がズキズキする。心臓にあわせて血が暴れているみたい。なんだっけ…何が起こったんだっけ…?
思い出そうとしても頭が上手く働かない。ただ痛みがゆっくりと全身に広がってゆくだけ。
『――月子は、お姉ちゃんなんだから…』
懐かしい…お父さんの、声だ。なんでまたこんな時にこんなこと、思い出したりしているんだろう。
『――弟達のこと、頼んだぞ』
うん、わかってる。あたし、お姉ちゃんだもん。お父さん、ねぇ、でもあたし――…
「…! だい、じょうぶ、ですか…?!」
大丈夫じゃ、ないよ――
「……ッ…、いった…」
「…っ、よかった、死んじゃったかと、おもった…!」
痛む頭を押さえながらのそりと体を起こす。重い。痛い。寒い。あたし、どうしたんだっけ…?
手の平に冷たい感触を感じながら、うっすら目を開ける。暗いのに、明るい。
ぼんやりと薄暗い視界に映るものを確認すると、すぐ脇には冷たい感触の窓。明るいと思っていたのは、大きな窓から差し込む月明かり。目の前には下りと上りの階段があり、ここが踊り場なのだと理解した。
階段…そうか、学校だ。
不気味に浮かび上がる校舎内の輪郭に、ここがどこなのかようやく思い出す。自分がどうしてここにいるのかも。
呼び出されてたんだっけ…
目の前には屋上へと続く階段があって、その先には彼らの遊び場がある。ついさっきまで自分も、そこに居たのだ。
「…あ、の…」
僅かに離れた場所で女の子の声がした。そうだ、さっきからやかましい声で呼んでいる声。
「…大丈夫…ですか…? 体とか、頭、とか…」
なんだろう、その物言い。確かに頭は痛いけれど、随分含んだ言い方をする。
きょろきょろと辺りを見回しても、その人影はなく、階段の影にでも隠れているようだ。
若干それが気に障ったものだから、ついこちらも棘を付けて返してしまう。例え厚意で気遣いの言葉を向けられても、それに応える余裕が無いのだ。
「痛みはそれほどでもないのでお気遣いなく。どちらかと言えばあなたの声の方が頭に障る…わ…」
言葉を発しながら、違和感。
あれ? 今の、あたしの声だった?
ごほん、とひとつ咳払い。それとほぼ同時に、暗闇に潜んでいた気配がゆっくりと階段を下りてきた。僅かに身構えながら、その影を注視する。
カツンカツンとローファーの靴音を響かせながら、月明かりの下へとゆっくりと姿を現す。ちょうどスポットライトの真下に、用意された舞台に降り立つように。
「あ、の…ぼく…」
そこに居たのは――
「……」
「どうして、こんなことになってるのか…」
先ほどまで耳障りだと思っていたその声は何よりも馴染みのある声で。いやでもちょっとやっぱり違和感はあるんだけれど。そんな声だったっけ、みたいな。
「…あた、し…?!」
姿形はあたしそのもの。あたしが、目の前に居る。
「え、な、なに…!? あ、あたし…!?」
「あ、あ、あぁの! き、気持ちは、大変よく分かりますが…ッ お、落ち着いてください…!」
いや、あんたが落ち着け。いやいや、あたし…?
「え、じゃあ、“あたし”は…」
目の前に両手を掲げてみて、見慣れた自分の手ではないことは分かった。それからぺたぺたと顔や体をまさぐる。
そうだ、さっきの違和感。この声も、手も、目も。
「もしかして…」
いつも両耳のあたりでおさげにしている髪がない。手触りも全く違う。メガネをかけてる。だけど伊達っぽいな、度が入ってない。服も、女子用の制服のスカートじゃない。男子生徒のズボン、だ。腕の 長さや足の長さも違う。自分のものとは全く異なる、ソレら。
気づけば体中が違和感の塊だ。
そうか、何よりやけに体が軽いなと思ったら、胸もないんだ。その代わりに…
「うわぁ! どどど、どこ触ってるの…!!」
「あ、ごめん、つい気になって…」
あたしの行動に慌てて両手をばたばたさせる“あたし”に平謝りし、乱した服を整える。そして目の前の“あたし”をじっと見据えた。
そこには…月明かりだけの薄暗いその瞳には、全く知らない男の子が映っていた。
「えーと…つまり…」
「はい、えっと…」
あたしの顔で申し訳無さそうに、言い難そうに顔を俯きながら。それから用意しておいたらしい、手帳のようなものをそろりと差し出してきた。
「鈴木、陽太と申します…」
条件反射のように差し出されたものを受け取ると、それはうちの学校の学生証だった。月明かりだけの心もとない明かりの下で、受け取った学生証を凝視する。
フルネームに学年とクラス、そして本人の顔写真。入学前の事前説明会で撮ったのだ、確か。
二年B組 出席番号十五番 鈴木陽太。
「これが…“あなた”…?」
「はい…というか、その体でもありますけど…」
学生証に載っているのは、見知らぬ男の子。暗がりでよく見えないけど、わりと整った顔立ちをしている気がする。多分。
これが、この人。鈴木陽太。
今の“あたし”は、この学生証の人物になっていて…今目の前に居る“あたし”は、あたしじゃないわけで。
あなたがあたしで、あたしがあなたで…………
「…つまり今の事態を簡潔に説明すると…」
「…はい…」
あたしとこの人の体が、中身が
「入れ替わったっていうこと…?!」
「…どうやら…そのようで…」
叫んだ声は暗い校舎に良く響き、痺れるくらいに頭にも響いた。
そんな、バカな。そんな、非現実的なことが、あるわけない。起こるわけない。あっていいわけない…!
「なんで! どうしてこうなったの…!?」
「ぼ、ぼくにも分からないんです…! ぼくも一瞬気を失っていて…気が付いたらこうなっていたんです…!」
「気を失うって…あなたも…?」
「お、覚えてないんですか…? ぼくは、屋上に向かって、この階段を上がっていて…そしたら上から、あなたが降ってきたんです…いきなり…」
降ってきた? あたしが…?
ズキズキする頭を思わず抱えながら、気を失う直前のことを思い出そうと記憶を探る。
屋上に居たのは確かだ。でもその後はどうしたっけ?
起き上がるのもひどく億劫だった。ぼんやりと星空を眺めていた気がする。最後の方はひどく曖昧な記憶だけど…でも、そうだ。ひとりじゃなかったはず。
「他、に…誰か、見た…?」
「え…いえ、あ、の…気が付いてすぐに屋上に行ってみたんですけど、特に誰もいませんでした…」
「……そう…」
痛む頭を押さえながら、ため息混じりになんとか吐き出す。なんとなくだけど思い出してきた。
偶然屋上を後にするあたしと偶然屋上に向かう彼が、見事ぶつかり(どうやらあたしの過失という可能性が大きいみたいだけど)階段から転げ落ちて、こんな事態になってしまった、らしい。
原因は置いておいたとして、コトの経緯を把握しながら唇を噛み締める。
幸か不幸か皮肉にも、あたしの望みが叶ってしまったのだ。
捨て去りたかった自分の体を、今は別のひとが使っている。中身は何にも知らない、正反対の男の子。
笑うべきところなのだろうか…? マンガ的展開で言えば、これであいつらにほんの少しでも仕返しができるかも、と。
この体もとい、鈴木陽太という人物の素性は知れないけれど、この体なら、できなかったことができるかもしれない。これはチャンスというやつなのだろうか。
これを“奇跡”という便利な言葉で括るなら、そうなのかもしれない。だってこんなのどう考えたって、非現実な――…
「…うわ?!」
「?!」
ふと目に付いた自分の(と言ってもあたしのではないのだけれど)手の平が真っ黒く汚れていて、ぎょっと両手を内に向ける。開いた両手は両方とも、墨でも擦り付けられたように黒く汚れていた。
その拍子に学生証が床に落ち、軽い音が小さく響いた。
「な、なに…?! 真っ黒…!」
「あ…えっと、それは、その…」
あたしの声に驚きながらも、この汚れに心当たりでもあるらしい彼は、ばつの悪そうな顔をし落ちた学生証を拾い視線を彷徨わせる。
なんだ、と凝視するあたしの視線に耐え切れなくなったように、小さな声が返ってきた。
「髪、カラースプレーで染めてるんです…黒く…」
「は…?」
「さ、さっき、髪の毛も触ってたでしょう…? 多分、その時のかと…」
カラースプレー? しかも黒の…? なんだって一体そんなものをして学校に来てるんだろう。そうだ、思えばこの伊達メガネも。“あたし”に比べたら全然視力は良いみたいなのに。これじゃあまるで…
「そ、そんなことよりもまずは、明日から、どうしよう…! このまま戻らなかったら…!!」
「あ、そう、そうね…今日金曜だけど…こんな時に限って、明日補講があるし…」
「が、学校、来る気なの…?!」
「当たり前でしょ、先に言っておくけど何があっても学校には毎日来てよね。あたし皆勤賞ねらってるんだから」
「む…ムリだよ…!」
今度は“彼”が、大きく叫ぶ。あたしの声でなんだけど。
「だってぼく、昼間はほとんど家から出たことないんだもん…!!」
「……はぁ?!」
ちょっと、待って。つまりはえっと。
流石に思考がついていけずたじろくあたしに気づいてか、気まずそうに視線を外したまま彼が補足の説明をくれた。
「ぼく…昼間はずっと、ひきこもってて…学校には殆ど、来たことないんだ…」
「……不登校、てこと…?」
「あ、そう言って頂けると少し聞こえが良いですね…ただ単にひきこもりなだけなんですけど…」
自虐的にぽつりと言い、力なく笑う様子が生々しい。彼本人がそう言うのなら、まぁそうなのだろう。
確かに彼の言動は少し挙動不審というか、やけに怯えた姿勢で話すひとだなとは感じていたけれど。
どうやらあたし達は、“いじめられっこ”同士、らしい。
「あの、山田、月子さん…、ですよね」
「…そう、だけど…どうして名前知ってるの」
「あの、すいません、学生証を見せてもらいました…」
「あれ、あたしの学生証って…」
と、条件反射で制服内のポケットを探ろうとしたけど、そういえばこの体はあたしのじゃないわけで。彼があたしの学生証を見たってことは…
「ちょっと、あなた何ひとの体勝手に調べてるのよ」
「う、ご、ごめんなさいだって…! ぼくもテンパってて…! 状況を確認しようと必死だったんです…!」
ちょっと睨んだだけなのに、彼がおおげさに怯えるものだから調子が狂う。あたしは感情表現や表情が豊かではないと自覚があるだけに、違和感をひしひしと感じた。
「まぁ、いいけど…それよりこの後どうする?」
「あの、ぼく、山田さんが気を失ってる間に携帯でいろいろ調べてみたんだけど…」
「意外と呑気ね…とりあえずその“山田さん”てやめて欲しい。苗字で呼ばれるの…あまり好きじゃない」
「え、や、何か手がかりとか情報ないかと思って…えと、苗字じゃなくて名前の方がいいってこと…?」
「…名前でもあまり良くは無いんだけど…まぁ、任せるわ。そんなこだわりがあるわけでもないし」
「……じゃ、じゃあ、月子ちゃん、て呼んでいい…?」
なぜかもじもじしながら言った彼の緊張がこちらにまで伝わってくる。なに、この空気。
「……好きにして」
「う、うん…!」
何故かいたたまれなくなって、思わず顔を背けた。
あたしはそんな顔で笑わない。目の前に居るのは姿形は“あたし”なのに、まるであたしではないみたいだった。
あたし、こんな風に笑えたんだ。ヘンなカンジだ。
「…で、何か分かったの、調べてみて」
「あ、あんまりたいしたことは分からなかったんだけど…仮にぼく達が階段から落ちた衝撃で入れ替わったとして、漫画や小説だとそういう場合、おんなじことすれば元に戻る場合があるみたい…」
「……また階段を転がれってこと…? あなたと?」
「…………まぁ、あくまで可能性のひとつですけど…」
「漫画や小説の話でしょう?」
「…この状況だって十分、非現実的、だと思う…」
なんだ、おどおどしてるだけかと思ったらちゃんと反論もできるんだ。確かにその通りなので何も言わないけど。
「…や、やってみる…?」
「……そうね…」
顔色を伺うように問われ、半ば適当に相槌を打つ。ひどく疲れた気持ちで、目の前の薄暗い階段を見上げた。
たかが十数段の階段だ。もう一回くらい転がっても死にはしない気はするけれど。
「…今日はやめておく。身体的にも気持ち的にも、ものすごく疲れたし…」
「そ、そうだね…ぼくも身体中、痛いや…って、これ、月子ちゃんの身体だよね、ごめんね」
なんでこの人が謝るんだろう。別にこの人が悪いわけでもなんでもないのに。
「案外寝て起きたらもとに戻ってるかもしれないし」
「そ、そんなものかな…」
「…さぁね。神様にでも訊いてみたら」
「ひどく気まぐれな、神様だね…」
溜め息と冗談に混じって落ちた言葉が冷たい階段にこだまする。10月の夜は肌寒い。少しだけ澄んだ空気が重たい身体に沁みた。
「神様、ね…」
言って見上げた先には、丸い月。彼もあたしの視線を追うように、それを見上げた。
そういえば十月は神無月。神様は、いない。
「…あ、そういえば…」
ふと彼が思い出したように口を開き、つられるように視線を向ける。
「…なに」
「あの、さっき携帯でいろいろ調べてて、気になったものがあって…」
「……」
「ぜんぜんまったく、関係ないかもしれないんだけど…」
「……だったらいいわよ」
「え! そんな…」
薄々感づいてはいたけど、面倒くさいなこの人。しかも見た目が自分なだけに、そこまで邪険にも扱えないし。
「…手短にドウゾ」
「えっ、えっと今日、流星群が、きてたらしいよ…!」
「…流星群…?」
「そう、オリオン座流星群、だって…時間的にはもう、ピークは過ぎちゃったみたいだけど…」
「……」
「……」
「…で?」
「え…っと、タイミング的に、何か関係あったり、しないかなぁ、と…」
「…………」
あたし達が階段から転げ落ちている間に、流れ星が郡になって空を渡っていた、と。
「なに、あなたはこうなることを願ってたってこと?」
「ち、ちがうよ…!」
あたしの言葉に彼が慌てて勢いよく首を振る。冷めた物言いになったのは、やましかったのは自分の方だったから。別にこんなのを、望んだわけではなかったけれど。
流れ星にする願い事なんて、流れ星が叶える奇跡なんて。そんなのない。ひとつだって。
あたしの生活の中心は“家族”だ。それ以外のものに意識を向ける余裕なんて、無い。
空にいくつ星が流れようと、隕石が降ってこようと、明日世界が滅びようと。あたしには関係のないことだと思ってた。
「…――ッ、しまった、今何時?」
「え、えっと、夜の九時ちょっと前、かな…」
「もうそんな時間なの?!」
気が動転して今の今まですっかり忘れていた。あたしとしたことが。
「…ちょっと、携帯貸してもらえるかしら」
「え、あ、うんいいけど…電話、するの…?」
「…家で弟達が待ってるのよ」
「えっと、そのままで…?」
「…………」
言いながら彼が差し出した携帯に映る自分の姿に、はたと思い出す。
そうだ、今のあたしは“鈴木陽太”であって、“山田月子”ではないんだ。体も、声も。
「…あなた、あたしの代わりに電話してくれない?」
「え…ええええ! む、ムリだよ!」
「なんでやってみる前にムリってわかるのよ」
「だって、知らない人と話すなんて…!」
「あたしのフリして、隣りであたしが言ったこと伝えてもらえればいいから」
「むむむ、ムリムリムリ! ぼく、初対面の人と上手く話せないし、いつも不快にさせて怒らせちゃうだけだし…それに月子ちゃんのフリなんて絶対にムリだよ!!」
さっきまでボソボソとしかしゃべらなかったくせに、こんな時は大声出せるのねこのひきこもり。ムリムリってあたしの顔で泣きべそかかれると心外この上ない。いい加減イライラしてきた。
「せめてやってみてから泣き言は言いなさいよ」
「や、やらなくたってわかるよ…! ぼくは、何したって、何もしなくたって…! できそこないのクズなんだから……!」
人に虐げられて生きてきた人間は、どうしたって自分を卑下せざるをえないし、生き方を自由に選べない。生きる為の勇気や希望を、奪われてしまうから。心や体をぺしゃんこに、潰されてしまうから。
だけど結局最終的にそれらすべてを奪うのは、自分自身でしかない。自分でしか、選べない。
「あたしだって散々そんなことアイツらに言われたけど」
「……え…」
「でも自分のことクズだなんて思ったこと、一度もない」
生きてく中でそれでも、善いことばかりしてきたわけではないし、自分を最低だなと思うこともあるけれど。
「それは他人の評価であって、あたしを知らない人間のレッテルだもの」
「…………」
自分のこと嫌いになる時だって、ある。それでもあたしの中には、中心にはいつだって。潰されないものがあったから。それを糧に生きてこれた。
「あなたが自分で自分をそう思うから、動けないんでしょう」