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戒めの十字

אתה לא יודע שום דבר.


כי בלי לדעת את כל חשכת הייאוש לקרות בעולם הזה.


אבל אל תפחד, לך, כי אני מגן.

傷があちこちに入った機械鎧に身を包まれた兵士達が、紙吹雪舞う中ゆっくりと行進していた。


人間よりも大きく二足歩行で歩く鈍色したそれは光沢を撒き散らし、人々からの鳴り止まない喝采を受けている。


通りで兵士達の行進を囲むものは半狂乱のあまり叫び出す者もいれば、泣き崩れる者もいた。


建物の窓から身を乗りだし兵士達を見る若い女性は黄色い声を上げて、彼らに大きく手を振っている。


そんな中であるにも拘わらず、ゆっくりと石畳を進んで行く少年は俯いていた。


赤い燃える様な髪が妙に少年には大きなヘルメットから覗けて、浅黒い肌を覆う深緑色した戦闘服には土埃らしきものが沢山こびりついている。


それを少年は気にする様子も無く、ただ淡い緑の目は死んだようにぼんやりとしている。周りの誰もが顔を上げて喜びを感じているにも拘わらず、少年だけが陰鬱とした顔であった。


「おいセト、いつまでもくよくよするなよ。お前もあの長きに渡る戦争の終結に関わった一人として誇りを持て、そうじゃないと傷しか残らないぞ」


赤毛の少年はその言葉に反応したのか、ゆっくりとその声の主がいる方向を見た。


そこには銀の光沢が輝く機械鎧を着た恰幅の良い男が、眩しいばかりの笑顔でそこにいた。


金の短く整えられた髪がなびき、鎧を着せられた馬の上に乗る彼の背中には身の丈ほどある槍が担がれている。


彼が歩く度に女性は声をあげて、我先にと彼に近付こうとしている様子なぞ餌に群がる鳥の様な物であった。


セトは彼の顔を見ると、気まずそうに目を逸らして小さな声ではっきりしない様子で喋り始めた。


「もう立ち直ったよ……と言いたいけど、僕はやっぱり駄目だよラビ。未だに怖いんだ。殺した人達が僕を恨んで死んでいっただろう現実が……怖いんだ」


「──俺だって怖いさ。騎士団長であるからそう言う弱音は吐けねぇけどな、とりあえず今日は美味しい飯を食おう。そうすりゃ気も晴れるさ」


筋肉質な青年はそう言葉をこぼすと行進を見守る人たちに手を振り、愛想笑いを浮かべていた。


セトはそれを見ると、さらに憂鬱そうな顔をして足をまた一歩一歩と進めていく。鉛のように重くなる足に比例してか、先ほどの言葉も無意味に等しく感じるほど彼の気分は落ち込んでいった。


沸き起こる拍手の音に響き渡る歓声はセトの地獄を彩る。大砲が撃ち放たれ、沸き立つ黒い煙が空に舞い、火が風のように人々を飲み込んでいく。


仲間は焼きただれた肌を呪い、なぜこのような百年近くにも渡る争いが起こったのかの理由も知らず剣を振るい、失った仲間への追悼をしていた。


セトは知っているのだ。勝利は確実にこの帝国のかけがえの無い礎となるであろうが、それを得るためにどれほど多くの人間を失ったかを知っているのだ。


その現実が音も立てずゆっくりと忍び込んでくる。セトにはそれが耐え切れなかった。目を開けると広がる人、それすらあの戦争の記憶を呼び戻す十分なものでしかない。


無機質な黒い城門が大きく開かれる。様々な彩を見せる紙吹雪はさらに彩を増した。兵も人々も興奮しているのか、喜びの悲鳴をあげてばかりいる。


大きく開けた芝生の上、隊を整えながら行進は終焉へと向かっていく。馬に乗っていた兵士達は笑顔をこぼしつつ別方向へと行っていた。


どこへ向かうのかセトのような下級兵士は何も知らないのだが、別段興味も沸かなかった。知ったとしても意味が無いこと、彼には無縁でしかない。


その時後ろの兵士がセトの肩を叩いた。何事かと思いながら振り返ると、中年の無精髭の生えた兵士は苦々しい笑みで彼らを見ていた。


「なぁあれ見ろよ。隊長殿ほど偉い方達はわざわざ聖堂に収容されて、国王の長い式辞を聞かねぇとならねぇんだとさ」


「聖堂……」


「そう、あぁ俺出世しなくて良かった。どうせ今回限りで御役御免の用兵だけどよ、あぁやって国王の意味不明な話を聞かされても訳わからねぇよな。まず俺は文字も読めねぇし」


高く聳え立つその聖堂にはいくつもの天使像があり、円から楕円へ、直線から曲線へと流れるように施されたその建物は芸術そのものであった。


冷たい石材が光沢し、中央口にある彫刻群が印象的ではある。学の無いセトにでも伝わるこの建物の美しさには、彼自身の荒んだ心を一時的ではあるが安らぎを与えるのに十分であった。


「国王のあの張り出された文章のことですか?」


「おう、あの言葉を隊長殿達に言っているらしいけど、俺達庶民にはあんなんじゃ伝わらねぇよな」


「そうですね、僕も文字は少ししか読めませんし」


それは何気ない普通の会話であった。この国に住むのに文字が全て読める必要なんて無い、兵として金を稼げれば後は市場で食料の取引をすれば良いだけ。


口頭で喋る以上の事を必要としない一般的な人々には文字なぞ無価値そのもの、会話さえつながればその世界は秩序が保たれるのだ。


「少しでも読めるならお前の学力は素晴らしいな。けど文字や戦争はもうどうだって良い、また辛い農業が待っていても俺には愛する家族が待っているんだ」


「そうですか、お疲れ様でした」


「お前もな坊主、戦争が終わったんだ。真っ当な生き方をしろよ」


筋肉質のごつい体をした男はそう言いながら、セトの頭を力強く撫でて、そのまま他の隊の人々の元へと行った。


セトには家族がいなかった。戦争で全員が死んだと言われたが、そこに何ら悲しみも憎しみと言われる負の感情は存在していない。


彼がまだ自己というものを作り出す前に失われた顔も何も知らない家族と言うものに、彼はぬくもりも冷たさすら感じやしない。


存在していたと言う事実があるだけでしかない。それなのでセトには周りで家族に会えると喜ぶ人たちを理解することができずにいた。


そして彼にとって何よりも理解できずにいたことは、帰還兵の皆が皆で用意されたであろう肉に食らいついていたことだった。


その肉をナイフで切り裂き、大きな底が無い井戸のような口の中へと放り込む。その淡々とした作業にすら恐怖を彼は抱いているのだ。


彼が切った人々、彼を切ろうとした人々、そのどれもが頭の中を蠢き占領していく。肉の裂け目から垣間見えた沢山の繊維が彼の脳を掻き毟っていく。


堪らず吐きそうになったセトは兵士達の集まりから離れて、一人無我夢中になりながら走り出す。


目頭が熱くなり、眼球が押し出されそうなほどの勢いで迫りくる吐瀉物に喉が痙攣する。走り、走り、ただ走りセトは誰もいない場所で一人嘔吐した。


何も食べていない彼の体からは、ただただ胃液のようなものが口からただれ落ち、彼はむせながらも何回も嘔吐を繰り返した。


帝国の庭で吐くなんて貴族や王家の人々に見つかりでもしたらただじゃすまない行為でしかないが、彼にはとても我慢できる状態ではない。


肉と骨が迫りくるのだ。焼きただれて溶けていく人間が迫りくる。そんな光景が彼の頭から離れることが無いのだ。


セト自身この記憶が消えるはずの無いものだと理解はしている。しかしこれと分かち合えるほど、この記憶は生易しいものではないのだ。


誰かが言う人殺しと言うものはこれ程に苦しいものなのか、何も感じない人間がいるのだろうか。セトは只管に答えの無い自問自答を心の中で繰り返した。


彼にとっての最大の恐怖は自国が負けることや、仲間が死ぬことでもなかった。ただ目の前にいる有機体を殺すと言う行為に常闇から沸き立つ恐怖を感じ怯えずにいられないのだ。


庭に咲き誇る薔薇は美しかった。セトは思うのだ、どうして貴族や王族達は剣を握り自分の手を汚さずにいるのだろうか、と。


硝子でできた窓には金の細工が施されており、その反対側の壁には窓と同じ大きさの鏡が設置さていた。光が溢れんばかりのその華やかさが一層セトの中での劣等感を助長させていく。


彼らは戦いを知らない、貧乏を知らない、生死を知らない。だから彼らは踊っていられるのだ。上から吊るされた硝子の巨大なシャンデリアの下、優雅に踊り続けるのだ。


肉を食い、金を貪り、栄華を極めんとするものが王なのだ。セトにはそうとしか考えられない。


喉に残る異物感に気持ちの悪さに耐え切れなくなったセトはその場を後にして、ゆっくりと重い足取りで進んでいった。樽の中の水ならば、セトのような下級兵士でも使用を許されているだろう、そう思っていたからである。


彼の緑の瞳に光は無かった。彼の目の前にあるのはただの現実、虚構の喜びは彼にとっては何の意味も成さないものでしかない。


騒ぐ兵士達の間を通り抜け、樽になみなみとある水を手で掬いうがいをする。そしてその水を小さな痰壺に吐き出すと、彼だけは早々にその場を後にした。


殺した人の数だけ偉くなるというこの場では、セトの胃が食べ物を受け付けようとしないからである。


おかしな程に大きな城門を通り、セトは自身が住む場所へと足を動かして行った。


先ほどの興奮が冷め切らないのか井戸端会議を行う中年の女性達もいれば、早々に屋台を作り出してもう商売を始めている者もいる。


連なった建物の窓からは様々な生活模様が伺えるが、そのどれもに絵に描いたような幸せは無い事をセトは知っていた。


どれ程完璧に変装していたとしても、不幸と言うものはメッキが剥れるものなのである。どれだけ上っ面を良くしたとしても、変えられない現実が目の前に転がっているだけ。


セトは人を避けながら歩き、連なる建物の間の細い道を体を横にして進んで行った。それを通り抜けると、更に活気溢れる市場が顔を覗いた。


魚や野菜など食料品を豊富に並べた屋台で買い物をする客、そんなものはセトの眼中には入らない。


ただ彼は市場を横断して、また低く連なる建物の間を通り抜けていく。そしてその先には灰色した分厚い壁があるのみ。


何者の進入も拒む門番のような壁には、鉄でできたであろう扉が沈黙を守りつつそこに存在していた。


セトは扉にある薄いひび割れのような穴にポケットから取り出したカードを挿入すると、そこの重々しい扉は不快な音を立てながらゆっくりと開いた。


そしてセトが足を踏み込んだ場所には空っぽになった酒瓶や、意味不明な言葉を吐きながら笑っている人物、物が腐ったような気持ちの悪い酸っぱい臭いがはびこる。


こうやってセトは現実からさらなる現実へと誘われて行く、戦争が終わり、役に立たない不必要な兵は捨てられるのだ。


持っている者だけが救われて、持たざる者は蹴落とされて行くこの国にセトは愛着は一切無い。ただこの国に産まれたと言う事実に、一応はこの国の国籍を持っていると言う事だけである。


この閉鎖された町には悪徳しか存在しない、その場で身ぐるみを剥される者なんて常の事である。しかしそんな町にも拘わらず、セトは一度もそのような脅しをされた事が無かった。


下品な落書きが施された建物が並ぶ路地を歩いても、周りにいるのは乞食や体・精神共に病気の者、そして服役が終わった犯罪者達しかいない。


国に見捨てられた人々の生きる町、たった一つだけ隔離された世界。セトという少年はこの汚らしい悪徳の町でしか住めない身であった。


単純にこの町の家賃諸々が安いこともある、あの更新をした場所で住むにはそれ相応の安定した給料と言うものが必要とされる。


セトのような少年兵では到底住むこともできない世界。しかしセトは普通は兵に与えられている最低限の食事が出される兵舎に住む勇気は無かった。


あの隔離された場所で何が行われているかを彼は目の当たりにしたくないからだ。あまりに腐った現実が押し寄せて、それに耐え切れることすら彼には不可能なのである。


そう思えばこの町の方が彼にとって幾分かましだった。憲兵もこの町に一応は存在している。しかし強盗にその他諸々の犯罪は行われいることは確かである。


そのためのカードであった。ここに住む人間の唯一の身分証明、これが無ければこの町では生きていくことすらできない。番号化された人間達の唯一の人間である証、それがこのカードであった。


路上に寝る人々を通り抜け、土色した建物の間を過ぎていく。そして一軒の建物の前で足を止めると、セトはその小さな上り階段を歩き、建物の扉を開いた。


扉を開くと、さらに続く階段と何処かへつながる扉の二つがあった。セトはその扉の先に微塵の興味も無いのか、ただ軋む音が流れる階段へと向かう。


その一階一階ごとにある部屋の中からは、なんとも苦痛そうに叫ぶ声が聞こえるが、それは本来この町の住民なら誰でも思うごく当たり前の気にするべきでもないことだった。


しかしセトの心は歪んでいた。この扉の先に起こっている現実を一度見てしまったからには、彼の中でその声の主を救いたいという思いが膨らむ。


しかしそれは不可能であり、彼らの望む物ではないことをセトは知っていた。彼女または彼にはその行為に見合う代金が支払われるのだ。


もしその彼女または彼が例え売り払われた自由なき人間でも、彼らを救うことは犯罪でしかない。人のものを盗んだと言う罪を問われる。


戦場で見た肉が血を纏い踊りを繰り返す。あの肉がもうすでに人でないのと同じに、あの商品達は最早人間ではない。


どうあがいても変わらない現実、人を殺したと言う罪、セトの中の普遍的なものとしてそれらは一切動こうとはしない。


階段の先にあるの最上階、そこでまたセトはカードを取り出して扉に差し込む。するとその扉は内側に開いて、ゆっくりと彼を出迎えた。


硬そうなベッドには薄い布が敷かれており、長い間戦争に行ったせいで部屋に埃が浮いていた。


セトは部屋に入るやすぐに大きな窓を開けた。セトにとってこの窓から覗ける風景の全てがこの町での唯一の楽しみであった。


高く聳え立つ聖堂に、その敷地とともにある大きな城。その近くの通りには華やかさが漂い、轟々と煙を上げる蒸気機関車が進む線路もくっきりと見ることができる。


そのせいでこの窓は長い間開けることはできないのだが、それでもセトを十二分に満足させるのには足るものである。


突然風が部屋に舞い込んだ。それは冷たく春の風とは思えないほどであり、セトは咄嗟に体を震わせた。


死者の霊が体に纏わりつくような錯覚に、一瞬だけ頭に流れた見覚えの無い少女の姿。それがセトの脳に刹那に焼きつき離れない。


下から聞こえる善がる声に悲鳴の数々、それが精神に更なる追い討ちを仕掛ける。汗が背中から腋から出てくる、体が融けていくような不思議な感覚。その全てに蝕まれていく。


全ての臓器が下へ下へと落ちようとする、肉体がもう朽ち果てていきそうになる幻。敵に殺されるかもしれない恐怖が心臓を焼き尽くす。


その瞬間であった。彼は苦しさのあまりに意味も無く窓の外を見た時、突然彼の体に身の丈程ある鉛でも飛んで来たのかと言う衝撃が伝わる。


思わずに床に叩き付けられた彼には先程の苦しみは無く、代わってその叩き付けられた衝撃から響く痛みに耐え兼ねていた。


「ごめんなさい、ぶつかってしまって」


何の感情も無いこの声は透き通っており、まさかこの声の主が鉛の正体であるのかと思い、セトは慌てて起き上がった。


セトの前に立つ少女は窓を閉めて、再び彼の方を振り向いた。真紅の瞳が輝き、長く綺麗な黒髪をしたその少女は一切変わりのない表情でその場にいる。


その光景にセトは思わず生唾を飲んだ。突然現れた美しい少女が身に纏っている服の装飾の豊かさに、彼の目は奪われたのだ。


薄い桃色を基調としたそのドレスのスカートは膨らみ広がっており、白のレースなどがその桃色を際立てている。


首には黄金色したものを付けており、恥ずかしげも無く主張する黄金を控え目にしていた事がセトにとっては何とも印象的であった。


「狭い部屋ですね。私が普段いるような部屋に良く似ています。あなたも帝国の人間ですか?」


「いや、僕は――ただのこの国の領民だよ」


「それは良かったです。ではこの着物ももう必要ないですね」


少女が一言、口から零れた瞬間に彼女のドレスは火を噴き一瞬のうちに消えてしまった。中に着てたのだろう体の線にくっついた黒のワンピースが静かに揺れる。


本来ならばここで服が突然燃えたことに驚くべきなのだろうが、セトからすればそれはさほど重大な事ではなかった。


彼にとって重大なのはこのドレスがただの灰となり消えてしまったことである。その灰をを触っては泣き出しそうな顔をセトはしていた。


「初めて着させられたのですが、とても窮屈でした。だけれども外に初めて出られたので、とても楽しいです」


「……そうなんだ。それよりも君はどこから窓に入ってきたの?」


「簡単です。飛べば済む話なのですから、たまたまここの窓が開いていたので、お邪魔しましたですよ」


無機質な瞳が動き、まるで無感情といった表情に変化が現れる。


「初めまして、パンドラという名の兵器です。どうぞよろしく」


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