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NO TRACE ―影を追う者― V 五人目の夜

第一章 切り裂かれた夜


少女の遺体が発見された路地には、前夜に降った雨の痕跡がまだ残っていた。


建物の隙間から差し込む朝の光は弱く、濡れたアスファルトの上で警察の規制線だけが妙に鮮やかに見える。冬馬は規制線の外から現場を眺めながら、壁へ残された二本の傷に目を止めた。


まるで巨大な刃物を左右から振り抜いたような傷だった。


一般的なナイフや包丁では、これほど深くコンクリートまで削ることはできない。


「榊」


背後から久世が声を掛けた。


冬馬が振り返ると、久世は紙コップのコーヒーを片手に持ちながら近づいてきた。


「依頼人は被害者の両親だって?」


「ああ。犯人を捕まえてくれというより、どうして娘が殺されたのか知りたいらしい」


「警察が一番答えにくい質問だな」


冬馬はもう一度路地へ目を向けた。


被害者は十六歳の女子高校生だった。深夜、自宅から数百メートル離れた場所で襲われ、胸部と腹部に複数の切創を受けている。


特徴的なのは、その傷だった。


左右一対。


ほぼ同じ角度。


二本の刃を同時に使った可能性が高い。


冬馬は午前中、NO TRACEを訪れた少女の両親から話を聞いていた。


娘に交際相手はいない。


金銭問題もない。


家族との関係も表向きは良好だった。


学校にも普通に通っている。


父親は何度も「どうしてあの子だったんでしょう」と訊いた。


冬馬にも答えられなかった。


ただ、無差別に選ばれたとは思えなかった。


犯人は明らかに相手を狙っている。


その予感は三日後に現実になった。


同じ学校へ通う別の女子生徒が殺された。


犯行時刻は深夜で、傷の形状も最初の被害者と一致した。


さらに六日後、三人目が襲われた。


警察は連続殺人事件として捜査本部を設置した。


冬馬も三人の生活を調べ始めたが、表面的には共通点が見つからない。クラスも部活動も違い、特別親しい友人だったという証言もなかった。


それでも、同じ学校の同学年が三人続けて狙われている以上、何かがある。


その夜、久世がNO TRACEへ一冊の古いファイルを持ってきた。


「一年半前の件だ」


冬馬が開く。


一人の女子生徒の写真があった。


桐生結衣、十五歳。


一年半前に自ら命を絶っている。


学校側は「いじめと自殺の明確な因果関係は確認できなかった」と発表していた。


「この子がどうした?」


久世は別の紙を机へ置いた。


そこには五人の生徒の名前が記されている。


現在までに殺害された三人も、その中に含まれていた。


「結衣が亡くなる前、この五人がいじめに関わっていたという証言がある」


冬馬は残る二人の名前を見た。


一人は相沢里穂。


もう一人は藤崎美羽。


久世が続けた。


「学校は当時、五人を中心に聞き取りをしている。ただ、証拠が十分じゃないということで大きな処分にはならなかった」


冬馬は結衣の写真へ目を戻した。


柔らかく笑っている。


その笑顔だけを見れば、学校で何が起きていたのかは分からない。


「母親は?」


「桐生真理子。娘の葬儀から少しして失踪してる」


冬馬は顔を上げた。


「失踪?」


「ああ。勤務先を辞めて、自宅も引き払ってる。その後の足取りがほとんどない」


冬馬は五人の名前を見た。


三人が死んでいる。


二人が残っている。


もし犯人が結衣の死に関係する者を順番に狙っているなら、事件はまだ終わらない。


冬馬は立ち上がった。


「残ってる二人を警察に伝えろ」


「もう動いてる」


久世は苦い顔をした。


「ただ、一人は今夜友人の家へ移動する予定らしい」


冬馬の嫌な予感は消えなかった。


そして、その予感は数時間後に的中した。


相沢里穂は警察の護衛を受けながら移動していたにもかかわらず、立体駐車場で襲撃された。


護衛していた警官の一人も死亡した。


生き残った警官が目撃したものは、人間ではなかった。


両腕から巨大な鎌を伸ばした、カマキリのような怪物だった。


五人の名前のうち、生きているのは一人だけになった。


藤崎美羽。


冬馬は壁へ並べた四人の写真と、まだ写真のない最後の名前を見つめた。


犯人の目的は、ほぼ見え始めていた。


問題は、その復讐を誰が行っているのかだった。


---


第二章 五人の名前


冬馬は桐生結衣の事件を一から調べ直した。


学校側の報告書には、慎重な言葉が並んでいた。


「継続的ないじめを断定するに足る客観的証拠は確認されなかった」


「生徒間の人間関係に一部の問題は認められた」


「自殺との直接的な因果関係については特定できない」


文章としては間違っていないのかもしれない。


しかし、そこに書かれている出来事を一つずつ拾えば、違う姿が見えてくる。


結衣の体操服が何度も隠された。


机へ悪口が書かれた。


教室で話しかけても無視された。


SNS上で容姿をからかわれた。


泣いている姿を撮影され、その動画が複数の生徒へ送られた。


冬馬は当時の同級生を何人も訪ねた。


最初の数人は「よく覚えていない」と答えたが、質問を続けると少しずつ話が出てきた。


「みんながやってたから、いじめって感じじゃなかったです」


一人の女子生徒はそう言った。


冬馬は表情を変えずに訊いた。


「みんなって誰だ」


少女は迷った。


「藤崎さんたちです」


「五人?」


「いつも五人が全部やってたわけじゃないです。でも、結衣ちゃんが何か言われた時に笑ったり、無視したりしてました」


「動画を撮ったのは?」


少女の表情が固まった。


「美羽ちゃんです」


冬馬はペンを止めた。


「何の動画だ」


「結衣ちゃんが教室で泣いてた時のです」


「どれくらい広がった?」


「分からないです。でも、百人以上は見たと思います」


冬馬はしばらく何も言わなかった。


五人の関与は均一ではない。


中心になって結衣を無視するよう仕向けた者がいる。


面白がって持ち物を隠した者がいる。


悪口を書いた者がいる。


そして藤崎美羽は、結衣が泣いている姿を撮り、それを他人へ共有した。


それぞれが少しずつ責任を分け合った結果、誰も自分を主犯とは思わなくなった。


夕方、学校の外で久世と合流した。


「警察側でも当時の件を洗い直してる」


久世が言った。


「五人全員が何らかの形では関与していたみたいだ。ただし、結衣の自殺がその行為だけで起きたと証明するのは難しい」


「分かってる」


冬馬は歩きながら答えた。


「それと、今起きてる殺人も別だ」


久世が横目で冬馬を見る。


「そこは分けられてるか?」


冬馬は足を止めた。


「どういう意味だ」


「お前は復讐する人間の考え方を知りすぎてる」


冬馬は何も答えなかった。


美咲を失った未来で、自分がどこまで壊れたかは覚えている。


相手を殺せば戻るわけではない。


組織を潰しても、美咲が生き返るわけではない。


それでも復讐を止められなかった。


だからこそ、今の犯人が桐生真理子だとすれば、簡単に「理解できない」と切り捨てることもできなかった。


「だから調べる」


冬馬は歩き出した。


「何を?」


「結衣が死ぬまでに何があって、死んだあとに母親へ何があったのかだ」


事件の始まりが少女の死だったとしても、復讐が始まるまでには一年以上の空白がある。


その空白の中に、HELIXがいる。


冬馬にはそう思えた。


---


第三章 結衣の日記


桐生真理子が娘と暮らしていたアパートは、既に別の入居者を募集するため空室になっていた。


冬馬は管理会社へ事情を説明し、久世を通して警察の了解も取ったうえで室内へ入った。


家具はすべて撤去され、壁には冷蔵庫や棚が置かれていた跡だけが残っている。


冬馬は一室ずつ確認した。


真理子が何かを残した可能性は低い。


それでも、何も調べずに帰るつもりはなかった。


結衣が使っていたと思われる部屋の押し入れを調べていると、奥の板に僅かな傷を見つけた。


釘を一度抜いたような跡だった。


板を外すと、その裏から一冊の小さなノートが出てきた。


表紙には《結衣》と書かれている。


冬馬はその場では開かず、久世へ連絡した。


正式に証拠として扱う手続きを取ったあと、二人で内容を確認した。


最初の方には、普通の中学生の日記が続いていた。


友達との会話。


母親が作った夕食。


好きな音楽。


試験の点数。


しかし、途中から内容が変わる。


《今日も体操服がなかった。先生に言おうと思ったけど、やめた》


《話しかけても聞こえないふりをされた》


《美羽ちゃんが動画を撮った。消してって言ったけど笑われた》


《お母さんには言いたくない。仕事で疲れてるから》


日付が進むほど文章は短くなり、最後に近いページには、学校へ行きたくないという言葉が何度も出てくるようになった。


それでも結衣は母親へ話していない。


理由も書かれている。


母親を心配させたくなかった。


冬馬は最後のページに近い部分で指を止めた。


《お母さん、ごめんなさい。私がもっと普通だったらよかった》


冬馬はノートを閉じた。


久世もしばらく何も言わなかった。


「真理子はこれを読んだと思うか」


「この隠し場所を知っていたならな」


冬馬は押し入れを見た。


「葬儀のあとに部屋を片付けて見つけた可能性もある」


久世は別の資料を開いた。


「真理子は結衣が亡くなってから、学校や教育委員会へ何度も説明を求めてる」


「五人の家族にも?」


「会いに行ってる」


冬馬は顔を上げた。


「反応は?」


久世は資料を読み上げるように答えた。


「『うちの子だけが悪いわけじゃない』『子供同士のことなので全部は分からない』『自殺した理由をいじめだけで決めつけるのは違う』。大体そんなところだ」


どれも、理屈だけを取り出せば完全な嘘ではないのかもしれない。


五人の誰か一人だけが結衣を死へ追いやったと断定することも難しい。


しかし、真理子が知りたかったのは法律的な責任割合ではなかったはずだ。


娘が毎朝笑って家を出て、その先で何をされていたのか。


なぜ何も言わなかったのか。


なぜ助けを求められなかったのか。


それを知りたかった。


そして、自分が知る頃には、もう結衣へ何もしてやれなかった。


冬馬には、その感覚が痛いほど分かった。


美咲が死んだあと。


何度も過去を思い返した。


あの時違う道を選んでいれば。


もっと早く気付いていれば。


何か一つでも変えられていれば。


失った人間のあとに見つかる答えは、すべて遅すぎる。


「榊」


久世の声で冬馬は顔を上げた。


「母親に同情するのは分かる。ただし、四人殺してる」


「ああ」


冬馬は日記を見た。


「だから止める」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないから言ってる」


その夜。


相沢里穂が殺された。


護衛していた警察官も一人命を落とした。


これで五人のうち四人が死亡した。


残る藤崎美羽には、二十四時間の警護が付けられることになった。


だが、美羽の家族は警察だけでは信用できないとして、民間の護衛を探し始めた。


翌朝。


NO TRACEの電話が鳴った。


---


第四章 母親の行方


藤崎家から正式な依頼が入る前に、冬馬は桐生真理子の行方を追った。


娘の死後、真理子は勤務していたスーパーを辞めている。


同僚へ理由を説明することもなく、退職届だけを郵送していた。


当時一緒に働いていた女性を訪ねると、真理子が最後に店へ来た日のことを覚えていた。


「娘さんのお葬式が終わって少しした頃でした」


女性は記憶を辿りながら話した。


「ロッカーに残っていた物を取りに来たんですけど、ずっと同じことを言っていました」


「何を?」


「『私は何も知らなかった』って」


冬馬は黙って続きを待った。


「結衣ちゃん、毎朝普通に笑って学校へ行ってたそうなんです。真理子さんは、娘が学校へ行きたくないなんて一度も言わなかったって……。自分が仕事をしている間にずっと苦しんでいたのに、何も気付かなかったって」


女性は目を伏せた。


「誰も真理子さんのせいだなんて思ってなかったんですけど、それを言っても全然届かなくて」


冬馬には分かる気がした。


周囲から「あなたのせいではない」と言われても、自分自身が許せなければ意味がない。


自分だけが知らないまま、大事な人が死んでいった。


その事実は、他人の慰めだけで消えるものではない。


さらに足取りを調べると、真理子が失踪する直前に一つの施設を訪れていたことが分かった。


《東都人間行動研究センター》


表向きは心理状態やストレス反応を研究する民間施設だった。


しかし運営会社を何段階か遡ると、HELIX系列の企業へ行き着く。


冬馬は久世と共に、残されていた予約記録を確認した。


桐生真理子の名前がある。


本人が自ら予約している。


診察項目には、《喪失反応》《怒り》《復讐衝動》《対象固定性》といった不穏な言葉が並んでいた。


その横には研究対象番号が記されている。


《R-05》


久世が眉を寄せた。


「拉致されたわけじゃないのか」


「少なくとも最初は違う」


「自分からHELIXへ?」


冬馬は予約時の質問票を見た。


《あなたが最も望むことは何ですか》


そこへの回答だけは削除されている。


「何を吹き込まれたかだな」


「娘を苦しめた人間へ復讐する力を与える、とでも言われたのかもしれない」


久世の言葉に、冬馬は返事をしなかった。


あり得る。


自分なら。


美咲を殺したボンバーへ復讐できる力を与えると言われた時。


あの頃の自分がどう答えたか。


想像する必要もなかった。


「真理子は自分で選んだ」


冬馬が言った。


久世が横を見る。


「同情するか?」


「する」


冬馬は即答した。


「でも止める」


「理由は?」


「俺が同じことをしたからだ」


久世は何も言わなかった。


復讐する者を理解できることと。


その復讐を許すことは違う。


冬馬はその違いを。


誰より知っていた。


---


第五章 第四の犠牲者


相沢里穂が殺害された立体駐車場には、戦闘の痕跡が生々しく残っていた。


壁には二本の深い切断痕が走り、金属製の手すりは途中から鋭く断ち切られている。


生き残った警官によれば、相手は深緑色の外殻を持ち、両腕が巨大な鎌のように変形していたという。


さらに驚異的だったのは跳躍力だった。


駐車場の階層を一つ飛ばしで上がり、壁や柱を利用して立体的に移動したため、拳銃で照準を合わせることすら難しかった。


冬馬は現場へ残された弾痕を見た。


銃弾は何発か命中している。


それでも止まらなかった。


「カマキリ型でほぼ間違いない」


久世が言った。


冬馬も同意した。


問題は、なぜカマキリなのか。


HELIXが怪人へ与える生物特性は、単なる趣味ではない。


これまでの事件を振り返れば、人間が抱えていた欲望や感情と能力の間に何らかの関連がある。


真理子の場合は。


獲物を一人ずつ狙う。


逃がさず切り裂く。


復讐対象だけを追う。


それに最適化された身体なのかもしれない。


「警官まで殺した」


久世が言った。


冬馬は顔を上げる。


「だから何だ」


「お前がまだ話せば止められると思ってる顔をしてる」


冬馬は少し黙った。


「思ってる」


「四人と警官一人が死んでるんだぞ」


「分かってる」


「だったら――」


「分かってるからだ」


冬馬の声に強いものが混じったため、久世は言葉を止めた。


「復讐してる時は、自分が何をしてるのか分からなくなる。目的だけが残って、その途中で誰を傷付けたのか見えなくなる」


冬馬は駐車場の上階を見た。


「だから誰かが止めないと終わらない」


その日の午後。


藤崎美羽の父親から正式に依頼が入った。


藤崎家は裕福な家庭だった。


父親は企業経営者で、自宅も大きい。


冬馬がリビングへ通されると、美羽は両親から少し離れたソファに座っていた。


顔色は悪い。


四人が殺されているのだから当然だった。


父親は冬馬へ深く頭を下げた。


「娘を守ってください」


「依頼は受けます。ただし、本人にも聞きたいことがあります」


冬馬は美羽を見た。


「桐生結衣さんのことは知ってますね」


美羽の指が僅かに動いた。


「警察から聞きました」


「結衣さんに何をした?」


父親が不快そうな顔をした。


「榊さん、その質問は必要ですか」


「必要です。犯人が何に反応しているのか分からなければ守れない」


冬馬は再び美羽へ視線を向けた。


「動画を撮った?」


美羽の顔が強張った。


両親は初めて聞いたらしく、娘を見る。


「何の話だ?」


美羽はしばらく黙ったあと、視線を逸らした。


「ちょっと撮っただけです」


「何を?」


「桐生さんが教室で泣いてるところです」


母親が息を呑んだ。


冬馬は声を荒らげなかった。


「何人へ送った?」


「覚えてません」


「百人以上が見たという証言がある」


美羽は唇を噛んだ。


父親が何か言おうとしたが、冬馬はそれより先に告げた。


「責めるために来たわけじゃありません。今は命を守ることが先です」


美羽が少しだけ顔を上げた。


冬馬は続けた。


「ただ、自分が何をしたかまで忘れたままだと、犯人と話す必要が出た時に何もできない」


美羽は答えなかった。


冬馬は、その沈黙を無理に破ろうとはしなかった。


まず生かす。


そのあとで、何をしたのかを向き合わせる。


救うことと許すことは別だ。


冬馬は既に、その考えへ近づき始めていた。


---


第六章 最後の標的


藤崎家の周囲には、警察官が複数配置された。


正門だけではなく裏口や隣接する建物まで警戒対象に入り、屋根へ登れる経路も封鎖されている。


冬馬は家の中を調べ、窓の位置と避難経路を美羽へ説明した。


「何かあったら、この階段を使って一階へ下りる。裏口には警官がいるから、そこから外へ出てください」


美羽は不安そうに訊いた。


「榊さんは?」


「俺は相手を止めます」


「勝てるんですか」


冬馬は少し考えた。


「分かりません」


美羽は意外そうな顔をした。


「普通、こういう時って大丈夫だって言うんじゃないんですか」


「保証できないことは言わない」


冬馬は窓へ目を向けた。


「ただ、あなたを死なせるつもりはありません」


午後十一時を過ぎても異常はなかった。


午前零時。


午前一時。


無線では各配置から異常なしという報告が続いている。


美羽は自室にいた。


冬馬は廊下で壁に背を預けながら、目を閉じて周囲の音を聞いていた。


しばらくして、美羽が部屋の中から声を掛けた。


「桐生さんのお母さんなんですよね」


冬馬は目を開いた。


「まだ確定してない」


「でも、そうなんでしょう?」


冬馬は答えなかった。


美羽は少し間を置いた。


「私、本当に殺されるほどのことをしたのかな」


冬馬はドア越しに答えた。


「殺されていいことはしてない」


室内から小さく息を吐く音がした。


しかし冬馬はそこで終わらせなかった。


「だからといって、何もしていないことにはならない」


美羽は何も返さなかった。


その数分後だった。


屋根から、ごく小さな金属音がした。


警官の靴とは違う。


一度。


続いてもう一度。


冬馬は立ち上がった。


美羽の部屋を開ける。


「窓から離れろ」


「え?」


美羽が振り返った瞬間、窓ガラスが外側から砕けた。


深緑色の怪人が室内へ飛び込んでくる。


逆三角形の頭部。


細長い身体。


そして両腕から伸びた巨大な生体鎌。


RIPPER。


美羽が悲鳴を上げた。


冬馬はすぐ二人の間へ入った。


右鎌が振り下ろされる。


冬馬は横へ身体をずらしながら、鎌そのものではなく手首に当たる部位を両手で押さえた。


人間の姿のままでは、力の差が大きい。


それでも冬馬は変身しなかった。


怪人の眼を見ながら名前を呼ぶ。


「桐生真理子」


RIPPERの力が僅かに緩んだ。


「その名前をどこで知った」


声は女性だった。


変質しているが、確かに人間の声が残っている。


「結衣の日記を読んだ」


その言葉を聞いた途端、真理子の力が一気に強くなった。


冬馬の腕が押し込まれる。


「あなたに何が分かる!」


「分かるとは言ってない」


「だったら邪魔をしないで!」


真理子が右腕を引き、反対側の鎌を横薙ぎに振った。


冬馬は上体を後ろへ倒した。


刃先が胸元を掠め、服が裂ける。


冬馬は距離を取りながら叫んだ。


「最後の一人を殺しても、結衣は戻らない!」


RIPPERの動きが一瞬止まった。


冬馬はその反応を見て、まだ話せると思った。


それが判断の誤りだった。


真理子は冬馬へ突進すると、腹部へ強烈な蹴りを入れた。


冬馬の身体が廊下まで吹き飛ばされる。


肺から空気が抜けた。


起き上がろうとした時には、真理子が美羽を抱えていた。


「離して!」


美羽が暴れる。


冬馬は床へ手をつきながら立ち上がった。


「真理子!」


RIPPERは窓を蹴破り、美羽を抱えたまま屋根へ跳び移った。


冬馬も窓際まで走ったが、怪人は人間では追えない速度で隣家の屋根から塀へ移り、暗闇の向こうへ消えていった。


冬馬は追跡を始めようとして、胸の傷へ手を当てた。


自分は真理子を理解できると思った。


復讐の痛みを知っているからこそ、変身せずに話せば止められるかもしれないと考えた。


しかし、その迷いによって美羽を奪われた。


依頼人を守ると約束しておきながら、自分の感情を優先してしまった。


冬馬は血の付いた手を強く握った。


「まだ間に合う」


今度は、自分へ言い聞かせるように呟いた。


---


第七章 復讐者


冬馬はバイクで住宅街を飛び出した。


久世から何度も無線が入る。


「榊、単独で追うな。警察も捜索を始めてる」


「待ってたら間に合わない」


「行き先が分かるのか」


冬馬は答えず、頭の中で真理子の行動を組み立てていた。


殺すだけなら、藤崎家でできた。


それなのに、美羽を連れ去った。


つまり、最後の一人だけは単純に殺したいのではない。


何かを言わせたい。


認めさせたい。


結衣が受けたことを。


自分たちが何をしたのかを。


結衣と五人の過去を調べた際、一つだけ気になる場所があった。


中学時代、学校の課外活動で利用していた市営トレーニングセンター。


現在は閉鎖されている。


結衣が泣いている動画を撮影されたのも、その施設の研修室だった可能性が高い。


冬馬は進路を変えた。


十五分後、暗闇の中に古い施設が見えた。


入口近くへバイクを止め、冬馬は中へ入った。


照明はない。


非常灯だけが薄く残っている。


奥の体育館から声が聞こえた。


冬馬は足音を抑えて近づいた。


「どうして撮ったの」


真理子の声だった。


冬馬は入口から中を見る。


美羽は床へ座らされていた。


手は拘束されている。


その前に、半ば人間の姿へ戻った真理子が立っていた。


右腕だけにはまだ鎌が残っている。


美羽は泣いていた。


「ごめんなさい」


「何で結衣が泣いてるところを撮ったの」


「みんながやってたから……」


真理子の顔が歪んだ。


「みんながやってたら、何をしてもいいの?」


美羽は答えられない。


「結衣は毎朝、私に笑ってた」


真理子の声が震え始めた。


「学校に行きたくないなんて、一度も言わなかった。朝ご飯を食べて、行ってきますって笑って出ていったのよ!」


美羽は泣きながら首を横へ振った。


「知らなかったんです」


「あなたが知らなかったんじゃない!」


真理子が叫んだ。


「知ろうとしなかったのよ!」


冬馬はそこで姿を現した。


「真理子」


真理子が振り返る。


表情に驚きはなかった。


「またあなたなの」


「その子を離せ」


真理子は鎌の残った腕を美羽へ向けた。


「この子が結衣に何をしたか知ってるでしょう」


「知ってる」


「だったら、どうして邪魔をするの」


冬馬は数メートルの距離を保ったまま答えた。


「美羽は結衣を傷付けた。それでも殺していい理由にはならない」


真理子の顔へ怒りが広がる。


「綺麗事を言わないで!」


「綺麗事じゃない」


冬馬は自分の胸の奥にある古い傷を意識した。


美咲。


炎。


ボンバー。


長い復讐。


そのすべてを思い出してから続けた。


「俺も大事な人を殺された」


真理子の表情が少し変わった。


「関わった人間を全部壊してやりたいと思ったし、実際に復讐した」


真理子は冬馬を見つめた。


「あなたは復讐しなかったの?」


冬馬は逃げずに答えた。


「した。だから言ってる」


真理子の目から涙が溢れた。


「じゃあ私だけ止まれっていうの?」


冬馬は何も言えなかった。


「ずるいじゃない!」


その言葉は胸へ深く刺さった。


自分は怒りに任せて戦った。


それなのに、今になって同じ道を歩いている人間へ止まれと言っている。


確かに、ずるいのかもしれない。


「そうかもしれない」


真理子は意外そうに冬馬を見る。


「俺が正しいなんて言うつもりはない」


冬馬は一歩近づいた。


「でも、それでも止める」


「どうして?」


「お前がこの子を殺しても、結衣が戻らないことを知ってるからだ」


真理子の身体が震えた。


冬馬は続ける。


「俺が戻せなかったからだ」


真理子は声を上げて泣いた。


しかし、その涙は彼女を止めなかった。


怒りと悲しみが身体を覆い、再び深緑色の外殻が広がっていく。


巨大な鎌が完成する。


冬馬は腰へ手を伸ばした。


今度は迷わなかった。


話すためにも。


生かすためにも。


まず止めなければならない。


---


第八章 厳戒の夜


冬馬の身体を深緑の生体外殻が覆い、橙色の複眼が薄暗い体育館に灯った。


RIPPERは床を蹴った。


最初の鎌が右上から斜めに振り下ろされる。


冬馬は後ろへ逃げず、身体を刃の内側へ滑り込ませた。


鎌の先端が肩の外側を通過する。


冬馬は真理子の上腕へ左手を当て、そのまま肩を胸部へぶつけた。


相手の重心が崩れる。


腹部へ短い右拳を入れる。


RIPPERは一歩下がっただけで踏みとどまった。


すぐに左鎌が横から来る。


冬馬は上体を沈めてかわした。


刃が触角のすぐ上を通過する。


低い姿勢のまま真理子の腰へ腕を回し、横方向へ投げようとした。


しかし真理子は床へ片脚を強く踏み込み、逆に冬馬を押し返した。


冬馬は数歩滑った。


「最後の一人を殺しても、結衣は戻らない!」


戦いながらもう一度言う。


真理子の鎌が止まった。


ほんの僅かだった。


「分かってる!」


次の瞬間、真理子は叫びながら鎌を振った。


冬馬は避けきれず、左腕の外殻を深く切られた。


火花と血が同時に散る。


「戻らないから、あの子たちにも同じものを奪うの!」


冬馬は傷ついた腕を下げず、構えを維持した。


「それは復讐だ」


「そうよ!」


真理子の声は涙で崩れている。


「私は復讐してるの!」


RIPPERが正面から踏み込んできた。


冬馬は右鎌を受け流し、左鎌の軌道へ自分から腕を入れた。


刃が外殻へ食い込む。


真理子が驚いた。


冬馬は逃げず、その鎌を両手で掴んだ。


「俺が正しいなんて言ってない!」


真理子が腕を引こうとする。


冬馬は離さない。


「でも、この子を殺せば、お前は結衣の母親じゃなくなる!」


真理子の複眼が揺れた。


「私は結衣の母親だから殺すの!」


冬馬の胸の奥に、強い痛みが走った。


真理子の理屈は壊れている。


それでも。


感情だけは理解できる。


大切な人を奪った相手へ同じ苦しみを与えたい。


自分も何度もそう思った。


「だったら」


冬馬は掴んだ鎌を押し返しながら言った。


「結衣が見てても同じことをするのか」


真理子の力が一瞬弱まった。


冬馬はその隙を逃さず、両腕を外側へ払い、距離を作った。


「結衣が、お前に人を殺してほしいって言ったのか」


「言うわけない!」


真理子が叫んだ。


冬馬は静かに返した。


「じゃあ、お前自身がやってる」


真理子は言葉を失った。


しかし。


復讐心は、それだけで消えなかった。


怒りに任せて床を蹴る。


再び鎌が冬馬へ迫る。


冬馬は真正面から向き合った。


止めるためには。


もう。


戦うしかなかった。


---


第九章 追跡


RIPPERは人間の姿から想像できないほど高く跳んだ。


体育館の二階ギャラリーへ一度着地すると、手すりを蹴って再び冬馬の頭上へ飛ぶ。


両腕の鎌が同時に振り下ろされた。


冬馬は真後ろへ逃げるのではなく、一歩前へ出た。


真理子の着地点をずらす。


鎌が背後の床へ突き刺さる。


冬馬は振り返ると同時に、RIPPERの背中へ肩をぶつけた。


真理子の身体が前へ押し出される。


しかし転倒する前に片手を床へつき、そのまま身体を回転させて尾のように脚を振った。


冬馬は蹴りを腕で受けた。


衝撃で数歩後退する。


真理子は美羽へ視線を向けた。


壁際で身を縮めている。


冬馬はその視線の意味を理解した。


RIPPERが走る。


冬馬も同時に動いた。


美羽へ鎌が届く直前、冬馬は横から真理子の腕を掴んだ。


「離して!」


真理子が暴れる。


冬馬は両腕で鎌の根元を押さえた。


怪人同士の力が真正面からぶつかる。


足元の床が軋む。


真理子の目から涙が流れていた。


「返して!」


冬馬の腕へさらに力が掛かる。


「結衣を返して!」


叫び声が体育館全体へ響いた。


その言葉に、冬馬は一瞬だけ美咲を思い出した。


自分も叫んだ。


誰に届くはずもないのに。


何度も。


返してほしいと願った。


だからこそ。


冬馬は目を逸らさなかった。


「返せない!」


真理子の身体が震える。


「だから、もう誰も奪うな!」


冬馬は全身の力を使い、真理子の両腕を外側へ押し広げた。


胸部が開く。


攻撃できる。


右拳を振り上げる。


しかし。


直前で止まった。


怪人の向こうに。


娘を失った母親が見えた。


その一瞬の迷いを。


真理子は見逃さなかった。


右鎌が冬馬の脇腹へ深く食い込んだ。


激痛が走る。


冬馬は呻いた。


それでも退かなかった。


鎌の腕を掴む。


「もう終わりにしろ」


「終われない!」


「終わらなくてもいい!」


真理子の動きが止まった。


冬馬は息を乱しながら続けた。


「悲しいままでいい。憎いままでもいい。それでも、人を殺さないことは選べる」


真理子の鎌が。


ほんの少しだけ下がった。


冬馬は。


その変化を。


見逃さなかった。


---


第十章 懺悔


冬馬は変身を解除した。


真理子を油断させるためではない。


人間の顔で話したかった。


脇腹の傷から血が流れ、服へ広がっている。


それでも冬馬は数歩だけ近づいた。


RIPPERの姿も不安定になり始めた。


深緑色の外殻が部分的に消え、真理子の顔が現れる。


「結衣が死んだあと、何があった」


冬馬が静かに訊いた。


真理子は長い間答えなかった。


やがて、床へ視線を落としたまま話し始めた。


「日記を見つけたの」


声は掠れていた。


「押し入れの奥へ隠してあった。私に見つからないように」


冬馬は何も挟まなかった。


「毎朝笑ってた。私が仕事へ行く時も、結衣は『大丈夫だから』って笑ってた」


真理子の頬を涙が流れた。


「学校に行きたくないなんて、一度も言わなかった。私は……何も知らなかった」


「お前のせいじゃない」


真理子が顔を上げた。


怒りが戻る。


「それを言われるのが一番嫌だった!」


冬馬は黙った。


「学校もそうだった。教育委員会も、あの子たちの親も、誰も悪くないみたいなことを言うの。原因は一つじゃないとか、誰か一人の責任じゃないとか!」


真理子の呼吸が荒くなる。


「じゃあ結衣は、どうして死んだの!」


冬馬には答えられなかった。


真理子は美羽へ顔を向けた。


「あなたたちは遊びだったのよね」


美羽は泣きながら首を横へ振った。


「本当に、ごめんなさい」


「結衣が泣いてる動画を百人以上に回して、それでも遊びだったのよね」


「ごめんなさい……」


真理子は悲しそうに笑った。


「今になって謝るの?」


冬馬は真理子へ言った。


「謝っても結衣は戻らない」


真理子が冬馬を睨む。


「だから殺すのよ」


「違う」


「何が違うの!」


「謝っても戻らないことと、殺していいことは繋がらない」


真理子は首を横へ振った。


「あなたには分からない」


冬馬は少し黙った。


「分かるとは言わない」


真理子が冬馬を見る。


「ただ、俺は復讐した」


美咲を失った未来。


ボンバー。


HELIX。


人間だった自分。


全部が脳裏を過ぎる。


「相手を傷付けるたび、少しだけ前へ進んだ気がした。でも、そのあとに残るのは、前より空っぽになった自分だった」


真理子の表情が揺れる。


「じゃあ、私はどうすれば良かったの」


冬馬は答えを探した。


見つからなかった。


「分からない」


真理子は涙の中で笑った。


「何それ」


「正解なんて知らない」


冬馬はそれでも続けた。


「でも、結衣の名前を理由に人を殺し続けることが答えじゃないのは分かる」


真理子の顔が崩れた。


怒り。


悲しみ。


後悔。


全部が混ざる。


身体が再び怪人へ変わり始める。


今度の変化は。


復讐心だけではなく。


行き場を失った感情そのものが暴れているように見えた。


冬馬は腰へ手を添えた。


終わらせるためではない。


止めるために。


もう一度。


戦う。


---


第十一章 RIPPER


RIPPERは声にならない叫びを上げながら冬馬へ突進した。


冬馬も再び変身する。


最初の右鎌が斜めに振り下ろされた。


冬馬は身体を外側へ滑らせ、刃が通過した直後に前腕を真理子の上腕へ押し当てた。


左鎌が返ってくる。


冬馬は腰を落としてかわし、そのまま懐へ入り込んだ。


腹部へ拳を打つ。


一撃。


続けて胸部へ二撃目。


ただし、力は殺している。


真理子を倒すための攻撃ではある。


殺すためではない。


RIPPERもそれに気付いた。


「本気でやりなさい!」


冬馬は少し距離を取りながら答えた。


「本気で止めてる」


「嘘よ!」


真理子は両鎌を広げ、身体ごと回転した。


冬馬は後方へ跳び、刃の軌道から離れる。


着地するとすぐ前へ出た。


真理子の右鎌が突き出される。


冬馬は手首を外側へ流し、肩を胸部へぶつけた。


RIPPERの身体が後退する。


冬馬は右脚を相手の足首へ掛け、重心を崩した。


真理子が片膝をつく。


冬馬はすぐ右腕を押さえ、鎌を床へ固定した。


「終わりだ」


真理子は床を見たまま首を振った。


「終われない」


「終わらせなくていい」


真理子が顔を上げる。


冬馬は押さえる力を緩めなかった。


「悲しいままでも生きていい」


真理子の身体が震えた。


「そんなの無理よ」


「俺もまだ無理だ」


冬馬は静かに答えた。


「忘れてない。許してもいない。それでも生きてる」


真理子の複眼から涙が落ちる。


「結衣がいないのに?」


冬馬の胸が痛んだ。


「俺にも、もういない人がいた」


少し言葉を選んでから続ける。


「今は生きてる。でも、俺の人生へ戻ってきたわけじゃない」


真理子には意味が分からないだろう。


それでも。


喪失の話だということだけは伝わった。


「人を失った穴を、誰かを殺して埋めることはできなかった」


真理子の力が少しずつ抜けていく。


鎌が縮む。


深緑色の外殻が崩れ始める。


冬馬も変身を解いた。


人間の姿へ戻った真理子が、その場に膝をついた。


冬馬はすぐ身体を支えた。


真理子の呼吸は浅い。


HELIXによる改造が身体へ大きな負担を掛けていたのだろう。


「真理子」


呼び掛けても、焦点が合わない。


真理子は冬馬の腕の中で、誰かを探すように視線を動かした。


そして。


小さな声で。


「……ゆい」


娘の名前を呼んだ。


冬馬には何も返せなかった。


真理子の唇がもう一度動く。


「ごめんね……」


その謝罪が何を意味していたのか。


冬馬には分からない。


結衣を守れなかったことか。


結衣の名前で人を殺したことか。


復讐を途中で終えたことか。


あるいは。


全部だったのかもしれない。


真理子はそれ以上何も言わなかった。


身体から力が抜ける。


冬馬はしばらく、その場から動けなかった。


勝ったという感覚はなかった。


怪人を倒したとも思わなかった。


ただ。


娘を失った母親が。


最後に娘の名前を呼んで死んだ。


それだけが。


冬馬の中へ重く残った。


---


第十二章 救われた者


藤崎美羽は生きて帰った。


打撲と浅い切り傷はあったが、命に関わる怪我ではなかった。


事件の翌日。


冬馬は病院を訪れた。


美羽はベッドの上に座り、スマートフォンを触っていた。


冬馬が入ると、少し気まずそうに画面を伏せた。


「助けてくれて、ありがとうございました」


「一つ聞きたい」


美羽は顔を上げた。


「何ですか」


「結衣のことを、今どう思ってる」


美羽はすぐに答えなかった。


しばらく窓の方を見ていたが、やがて小さな声で言った。


「悪かったとは思ってます」


冬馬は待った。


その先に続く言葉があると分かっていた。


「でも、私たちは遊びのつもりだったんです」


冬馬の表情が僅かに変わる。


美羽は続けた。


「別に死んでほしいなんて思ってなかったし、桐生さんが勝手に死んだだけで……全部私たちのせいみたいに言われても」


冬馬の中に、強い怒りが湧いた。


真理子の泣き顔が浮かぶ。


結衣の日記も。


それでも。


目の前の少女を殴ることはしない。


昨日。


自分はこの少女を守った。


それも間違いではない。


「そうだ」


冬馬が言うと、美羽は意外そうに顔を上げた。


「お前を殺していい理由にはならない」


美羽の表情が少し緩んだ。


冬馬は続けた。


「でも、それでお前が何もしてないことにはならない」


美羽の顔が再び固くなる。


「結衣が死んだ理由を全部お前へ背負わせるつもりはない。人が死ぬ理由なんて、一つじゃないこともある」


冬馬は美羽から視線を逸らさなかった。


「でも、お前が動画を撮ったことも、泣いてる相手を笑ったことも、遊びだったという言葉で消えるわけじゃない」


美羽は俯いた。


冬馬はそれ以上責めなかった。


説教をするために来たわけではない。


病室を出ると、久世が廊下で待っていた。


冬馬は結衣の日記の複製を差し出した。


「学校の件をもう一度調べてくれ」


久世は受け取った。


「今回の連続殺人とは別件だぞ」


「分かってる」


「真理子が死んだからって、結衣の件まで刑事事件になるとは限らない」


「それも分かってる」


冬馬は久世を見る。


「だから別に調べるんだ」


久世は少し黙ってから頷いた。


「分かった」


数日後。


冬馬は桐生結衣の墓を訪れた。


真理子の遺骨は親族へ引き取られ、後日、娘の近くへ納められることになっているという。


冬馬は墓前へ花を置いた。


結衣を救うことはできなかった。


真理子も救えなかった。


美羽は救った。


それが正しかったのかと問われれば。


簡単には答えられない。


美羽がしたことを考えれば、真理子へ同情する気持ちは消えない。


だからといって、四人を殺し、五人目まで殺そうとした復讐を認めることもできない。


冬馬は墓石を見つめた。


探偵は。


救う価値のある人間を選ぶ仕事ではない。


今まさに誰かの命が奪われようとしているなら、まず止める。


その人間が何をしたのかは。


生きたあとで調べればいい。


罪があるなら、罪として向き合わせればいい。


命を救うことと。


その人間を許すことは。


同じではない。


「……これで正しかったとは、まだ言えないな」


冬馬は静かに呟いた。


答えは返らない。


風が吹き。


墓前の花が僅かに揺れた。


NO TRACEへ戻ると、冬馬は真理子に関するHELIXの記録を机へ広げた。


被験者番号R-05。


自発的参加。


主要感情として記録されているのは、娘を失ったことによる喪失感と、それに続く復讐衝動だった。


さらに。


《感情増幅後、生体適合処置を実施》


という一文がある。


冬馬はその言葉を長く見つめた。


相良透には執着があった。


CARRIERには恐怖と、人間そのものへの失望があった。


真理子には喪失と復讐心があった。


そして。


それぞれの能力は、その人間が抱えていた感情や欲望と奇妙なほど一致している。


偶然ではない。


HELIXは怪人を作っているだけではない。


人間の感情そのものを見ている。


何をどこまで強くすれば。


人間はどこまで変わるのか。


それを確かめている。


冬馬は資料を閉じた。


これまで個別に見えていた事件の向こうに。


初めて。


一つの思想らしきものが見え始めていた。


だが。


なぜそこまで感情へ執着するのか。


その答えまでは、まだ見えない。


机の電話が鳴った。


冬馬は受話器を取った。


「NO TRACE調査事務所です」


電話の向こうから、新しい依頼人の声が聞こえてきた。


冬馬はノートを開き、相手が名乗る名前を書き留める。


誰かを救ったからといって。


その人間を許す必要はない。


誰かを許せないからといって。


その命を奪っていい理由にもならない。


簡単な答えではなかった。


それでも冬馬は、次に消えかけている痕跡を追うため、静かに依頼人の話を聞き始めた。


――NO TRACE.


第五巻 完


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