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「幻術か」
「えっ!?」
リロイははっと口もとをおさえる。バルバロッサは左腕をだらりと降ろして、身体をリロイに向けた。
「レイリアの古い剣術に幻術をつかった暗殺剣があると、前に聞いたことがある。さっきの残像は幻術で出現させたんだな」
バルバロッサはむくりと起き上がった。
「白帝剣の奥義を極めた達人たちが、次々とレオンハルトに倒されたそうだが……そうか。レオンハルトは幻術の使い手だったのか」
「な……! ちょっと、勝手に話を進めないでよ! あたしは幻術なんて使ってない――」
「その動揺の仕方、図星のようだな」
「うっ」
リロイは半歩下がる。バルバロッサはリロイを見下ろして、にやりと笑った。
「うそをつくのが下手なところも、ブレオベリスにそっくりだな」
「お、お父様は別に関係ないでしょ」
「そうだな」
バルバロッサが右手に持つクレイモアを腰にかける。手首を返して、内側にしっかりと巻かれたベルトを外していく。両手の小手をじゅうたんの上に投げ捨てて、クレイモアを持ち直した。
「まさかレオンハルトから暗殺剣を習ってくるとはな。私のほんの気まぐれが、こんなところで牙を向くとは、夢にも思わなかった」
バルバロッサがクレイモアを下げて突進する。
――来る!
バルバロッサがものすごい速さで近づいてくる。リロイは心の中で呪文をとなえて残像を出現させる。リロイは床を蹴り、残像の後ろに下がった。
リロイの残像をバルバロッサが斬り倒す。リロイはシャムシールをにぎり直して、バルバロッサの左にまわろうとした。
「はああアア――!」
激高とともにバルバロッサが床を蹴り出す。左手で柄の頭をにぎりしめ、右足でじゅうたんを強く踏みしめた。
――うそ!
クレイモアの鋼の刀身が轟音を鳴らしてリロイの首に迫る。リロイは急いでしゃがみ、バルバロッサの強烈な薙ぎ払いをかろうじてかわした。
バルバロッサを包む空気がぴりぴりと張りつめる。まっ赤な髪は炎のように天井を向き、左右の二の腕がもりもりと隆起する。
「せああアアアァ!」
バルバロッサがリロイに突撃する。あわてて逃げるリロイを追い、クレイモアを斜めに斬り払う。クレイモアは隅の柱を斬り、柱の中央部分が石の破片となってぼろぼろにくずれた。
柱のくずれる轟音を聞きながら、王の間にいる一同が唖然とする。タイクーンとエメラウスは顔を青くして、鬼神と化したバルバロッサを遠目でながめる。腹心のカドールも剣を下げて、柱がくずれ落ちる様子に閉口していた。
バルバロッサがリロイに向きなおる。口から白い息を吐いて、クレイモアの切っ先を床に降ろした。
「適当に相手してやったところで捕縛しようと思っていたが、仕方あるまい。タイクーンの御前で血腥いことは避けたかったが、お前は肉塊になってもらおう」
バルバロッサがクレイモアをかかげて近づいてくる。リロイは残像を残して後退、バルバロッサが斬り下ろしたタイミングでシャムシールを払った。バルバロッサがクレイモアを縦にかまえて、がきんと鋭い音が王の間にひびきわたる。
「術の正体が幻術だとわかれば大したことはない。おれの白帝剣でお前の残像ごと断ち切ってくれる!」
バルバロッサがクレイモアを払う。強い力にシャムシールが弾かれる。リロイは落としそうになったシャムシールの柄をあわててつかみ直す。
その瞬間、リロイの左の二の腕に強烈な一撃が入った。
「ア……!」
青いじゅうたんにシャムシールが落ちる。左腕から激痛が走り、リロイはその場にくずれ落ちる。
――う、腕が。もう、だめ……
リロイの足もとで人影が大きく動く。リロイがはっと顔をあげると、顔をまっ赤に染めたバルバロッサがクレイモアを憤然とたたき落とした。リロイはじゅうたんを蹴ってクレイモアをかわした。
バルバロッサが高速で近づき、クレイモアを前へと突き出す。クレイモアの長い刀身がリロイの頬をかすった。
――しっかりしろ! 本気になったおじ様が、あたしの泣き言なんてゆるしてくれるはずなんてない。あたしの全身全霊の力を出しておじ様を倒すんだ……!
リロイは歯を食いしばり、バルバロッサの斬撃をかわす。じゅうたんの上に転がったシャムシールを拾い、バルバロッサに突撃した。
「何っ!?」
怒髪天を突くバルバロッサが目を見開く。シャムシールを持つリロイが三人に増えて、バルバロッサのまわりをまわっている。バルバロッサの動きがかたまる。
「くそっ!」
バルバロッサがクレイモアを乱雑に払う。斬られたリロイの身体は残像となって空気に溶けた。
「たあ!」
リロイが後ろからあらわれ、かけ声とともにシャムシールを斬り払う。バルバロッサのがら空きになっている背中を斜めに斬りつけた。
「くそがっ! なめるなア!」
バルバロッサはくるりと旋回し、後ろから左足を繰り出す。リロイは回し蹴りをかわして後退、革のブーツがざざざと床を擦った。
リロイはシャムシールを水平に倒す。バルバロッサに近づいて刃を一閃、四本の剣閃がバルバロッサの鎧を斬った。
バルバロッサがクレイモアを上段にかまえる。斬撃の直後で状態をくずすリロイにクレイモアをふり落とす。リロイの顔面に鋼の鉄槌が迫る――!
――よけられない!
リロイは腰を落としてシャムシールを両手でにぎりしめる。クレイモアが轟音とともに斬り落とされて、がきんと鈍い金属音を発する。シャムシールの湾曲した切っ先が切断されて、天井のシャンデリアに向かってくるくると回転した。
「勝負あったな」
バルバロッサの赤い髪がぺたりと落ちる。クレイモアを床につけて、部屋の隅で茫然とするリロイを見下ろした。
リロイは右手のシャムシールを力なく持ち上げる。シャムシールの刃は、ちょうどまん中のあたりで切断されている。折れた刃先はバルバロッサの後ろの床に落ちて、王の間に寂しい音を奏でた。
「私の力を何度も受けて、刃が耐えられなくなったか。その刃ではもはや戦えまい」
バルバロッサの非情な声がひびく。
「素直に負けを認めるのなら、命だけは助けてやるぞ」
「あ、あたしはまだ、戦えるわ」
「強がりならやめておけ。君の意気はまだ挫けていないようだが、その剣は――もう死んでいる。それでどうやって戦うというのだ」
バルバロッサが顎をさする。こほんと咳払いし、口から赤い唾を吐いた。
「戦場では、武器をなくした者、および武器を破壊された者は敵に殺害される運命にある。殺すか殺されるかの二者択一しかない戦場において、剣を折られたからなどという言いわけは通用しないのだ」
「うっ」
「それでも君はまだ私と戦うというのか。私に、これ以上非情な決断を迫らせるつもりなのか」
リロイは顔をあげてバルバロッサを見つめた。バルバロッサもまっすぐにリロイを見下ろしている。表情は少し強ばっているが、普段のおっとりした表情に近づいている。戦意は、もはや感じられない。
「私がクーデターを成功させても、君たちに危害は加えない。……まあ、ブレオベリスが私に帰順するまで、しばらくアスタロスの地下に入ってもらうことになるかもしれんが」
バルバロッサは腕から血を流している。だが、何ごともなかったかのように平然としている。右手に持つクレイモアも、遠目からでは刃がこぼれているかはわからない。
ただひとつ言えるのは、リロイの方が圧倒的に分が悪い、ということだった。
リロイはシャムシールの柄をにぎりしめた。
「あたしは騎士の娘よ。敗北を認めて無様に生き長らえようとは思わないわ」
「そうか。ならば、ここで朽ち果ててもらわねばならん」
バルバロッサがクレイモアの刃をゆっくりと起こす。尖った刃先がリロイの胸の中心を捉えた。
リロイはそっと目をつむる。目の前にひろがる暗闇はとても静かで、リロイの沸き上った心を鎮めてくれる。
暗闇の上から、ぽつりぽつりと水の雫が落ちてきた。水滴はあたりに次々と落ちて、暗黒の床を雨で濡らせる。数秒も経たないうちに雨は本降りとなり、リロイの心に雨の音をいっぱいにひびかせた。
左右の暗闇に白い線が走り、縦長の棒を形成する。棒は横に細長い枝をつけて、先端をこんもりと盛り上がらせる。枝の先に緑色の葉をつけて、暗黒の地面に太い木の幹が次々と生えていった。
心の奥底から突然に思い起こされる、雨の日の出来事。レオンハルトを求めて山に入ったリロイは、悪漢のキンボイスらによって完膚なきまでに叩きつぶされた。――あのときも愛用のスキアヴォーナが折れて、リロイは反撃できないまま敗北を喫してしまったのだ。
リロイは静かに瞼を上げた。
「タイクーンの御前を汚した上に見苦しい姿までお見せするわけにはいかない。……ならば、騎士らしく潔い死を遂げます」
「ロイいい!」
王の間の入り口でサムソンが必死になって身体をゆする。カドールに剣を突きつけられていることも忘れて、サムソンは自分を助けようとあがいている。「やめろ!」と叫ぶ声がリロイの心にひびいた。
リロイはサムソンの顔を見て、にこっと笑った。
「サム。今日までいっしょに旅してくれて、ありがと。あなたがいなかったらきっと、あたしはここまで強くなれなかったと思うわ」
「お、おい。急に何を言い出すんだよ。んなお世辞、聞きたくねえよ。おれは」
「ふふっ。そうだよね」
自分の顔を真剣に見つめるサムソンが、どこかおかしかった。リロイは折れたシャムシールの刃を、首もとにそっと近づけた。
「やめろ!」
「……あたしについてこなければ、牢屋に閉じこめられることもなかったのに、ごめんね。レオンから教わった幻夢剣なら、ひょっとしたらおじ様を倒せるかもって思ってたけど……だめだったね」
「そんなことは別にどうだっていいよ! たとえ島流しになろうが、お前が生きてさえいてくれば、おれは何されようがかまわねえ! だから、だから……やめろおおオ!」
サムソンがものすごい力で両腕を引っ張る。あまりの強さにカドールが「やめろ!」と悲鳴に似た声をあげる。
サムソンの秘めた想いが痛いほど伝わってくる。それだけでも、リロイは幸せだなと思った。
リロイは顔を引き締めて、足もとにそっと片膝をつく。ほとんど瞬きせずに見下ろすバルバロッサをまっすぐに見上げた。
「おじ様、これだけは聞き入れて下さい。おじ様に刃向かったのはあたしだけ。あそこにいるサムソンはあたしに無理強いされて、半ば強引に連れてこられたと」
「わかった。聞き入れてやろう」
「ありがとうございます。ならば、もう思い残すことはないわ。……あたしは、誉れ高きオーブ伯ブレオベリスの娘、リロイ・ウィシャード。ゲント伯に反逆した罪により、潔く自害いたします」
リロイはシャムシールの刃を首もとにぴたりとつける。研ぎ澄まされた刃が首に食いこみ、絶望的な感覚を身体いっぱいに広げる。鍔からかたかたと音が聞こえてくる。
――自害するのって、こんなに怖いの……?
生唾を呑みこみながらリロイは考える。自害すると言葉では言えても、食いこんだ刃先を横に引くことができない。身体が石のように硬直してしまったような錯覚に襲われる。
「どうした。早くしないか」
バルバロッサの無情な声がひびく。みなが固唾を呑んで見守るこの状況で、「やっぱりできません」とは口が裂けても言えない。
――ええい! 何してるのよ! 行け! 行くのよ、リロイ!
リロイはかっと目を見開く。ふるえる右手に最期の力をこめて、丸くなった背筋をぴんと伸ばす。
しんと静まり返る王の間。その中央で膝をつくリロイは、右手を力いっぱいに引いた。シャムシールの刃が細い首を切り裂き、頚動脈から――どばっと赤い血が噴き出す。
「ロイイいいぃ!」
手から折れたシャムシールが落ちる。力を失った両腕はだらりと下がり、リロイが前のめりに倒れる。サムソンは抑えられた腕を解放されて、がくっと両膝をついた。
「そ、そんな、そんな……」
サムソンは両手を床につけて肩をふるわせる。錯乱した頭から言葉がつながらず、両目からあふれる涙をぽつりぽつりと青いじゅうたんに落とした。
玉座に座るタイクーンとその前でじっと様子を見守っていたエメラウスも顔面を蒼白にして、首から鮮血を噴き出すリロイをただ見つめるしかなかった。
バルバロッサは「ふう」とため息をつき、倒れるリロイに背を向ける。部屋の入り口で嗚咽を洩らすサムソンを見下ろした。
「さて、リロイ君との約束だ。君はここで解放してやろう」
「そんな、そんな……」
「心の整理はつかないだろうが、さっさと退室してもらわなければ困る。タイクーンの御前をいつまでも汚しておくわけにはいかないのでな」
冷静に告げると、バルバロッサはカドールとバロワをきつくにらみつける。はっとわれに返った彼らはサムソンの肩をつかんで持ち上げようとしたが、泣き止まないサムソンにどうしたらいいかわからないという顔をした。
ぐしゃぐしゃに頬を濡らしたサムソンが両脇から持ち上げられる。その様子をエメラウスはただ茫然と見つめる。
王の間の激戦は完全に幕を降ろしたと、だれもが思った。
――今だ!
血を流して倒れるリロイの背中から、もう一人のリロイがあらわれた。幽体離脱した幽霊のようにむくりと起き上がり、床に転がったシャムシールをひょいと拾い上げる。
「あっ!」
思わず声を出してしまったエメラウスが、すぐに口もとをおさえる。青いじゅうたんを紫色に変えていた血はうっすらと消えていき、血に濡れる前の青い色をとり戻していく。同時に、倒れていたリロイの身体も白く透明になり、エメラウスの瞳にうすくなった残像を焼きつけさせた。
彼の声に反応してバルバロッサもそっと後ろをふり返る。油断していた彼の背中に猛然とリロイが襲いかかる。
「何ッ!?」
バルバロッサはあわてて体勢を整えようとするが、時すでに遅し。リロイは右手に持った柄をにぎりしめて、バルバロッサの首の後ろ――鎧に覆われていない素肌に柄の頭を、がん! と強くめりこませた。
「う――」
バルバロッサの右手からクレイモアが落ちる。からんと音を立てて床に転がり、退室しようとしていたカドールとバロワの足が止まる。彼らの前でバルバロッサは膝をつき、大きな身体をじゅうたんの上に倒した。
「ロ、ロイ。お前……」
目からたくさんの涙を流すサムソンの前で、リロイは足もとに倒れるバルバロッサを見下ろす。はあはあと息は荒く、全力疾走した後のように頭から汗が流れ落ちてくる。
「予想よりもきわどかったわね」
リロイはシャムシールの柄をにぎりしめて、左手で自分の首もとをさする。白く細い首筋に傷跡はついていない。その様子を唖然とした表情で見守るサムソンの両どなり、カドールとバロワも突然の事態に唖然と立ち尽くしているしかなかった。
「人をだます幻夢剣にはね、自殺を装うとんでもない技まであったのよ。レオンに教わったときは、こんなの絶対につかわないって決めてたんだけどね」
リロイの手からもシャムシールが転がり落ちる。白目を剥いて昏睡しているバルバロッサを見ていると、急に疲れが襲いかかってきた。リロイは堪えきれなくなって、じゅうたんの上に膝をついた。――今度は、本当に。
「ロイ!」
力なく倒れるリロイにサムソンが全力で駆け寄る。リロイがじゅうたんに鼻先をつける直前にサムソンは腕を滑りこませて、リロイの身体をキャッチする。
――倒した。最後の最後の奥の手だったけど、あたしは……バルバロッサのおじ様を、倒したわ。
サムソンに身体をあずけながら、リロイの意識がふっと途切れる。使命を終えたリロイの身体はぴくりと動かなかった。