6
皮のブーツに、ねっとりとしたゼリーが乗っかってくる。
「い、いや」
リロイの前と左右を埋めつくす、青いゼリーたち。背には頑強にそびえる大きな岩。リロイはがたがたと身体をふるわせながら、青いゼリーを必死にはがす。
「来ないで!」
リロイが訴えても、青いゼリーたちはずるずると身体を這ってくるだけで、うんともすんとも言わない。リロイは、初めてみる魔物の存在に、心から恐怖するしかなかった。
――ああ、あたしはここまでなの。そう思った瞬間、
「お嬢さん! 死ぬのはまだ早えですぜ」
大きな岩の上に突然あらわれた人影。それは陽を背に受けて、悠然と立ち尽くしていた。
――うそっ! もしかして、あたしを助けにきてくれた王子様……!?
突然に駆けつけてくれた白馬の王子様に、リロイの心がときめく。王子様らしき人影は「とう!」と勇ましい声をあげて、リロイの前に降り立った。
だが彼は、地面にかた膝をついたまましばらく動かなかった。
「あ、あの、どうかされたんですか」
「あ……足くじいた」
リロイは思わずずっこけそうになった。
白いローブの彼は右足を引きずりながら、ゼリーたちをはさんだ向こう側へ下がった。右手に持つ樫の杖をかかげて、彼は呪文をとなえる。
「荒れぶる炎の精よ。われを阻害する者たちを焦土に変えたまえ!」
樫の杖から、紅蓮の火の玉が召喚される。それはゼリーたちの上に落ちると轟然と燃えあがって、こげ臭い煙を立ち上らせる。
「サム!」
煙の向こうに見える銀髪の少年を見て、リロイの心が躍る。リロイは足もとのゼリーをはがして、呪文をとなえるサムソンのとなりに向かった。
「どうしてあなたがこんなところにいるのよ」
「そんなことはいいから、早くこいつらを退治しちまおうぜ」
サムソンは額に汗を流しながら、杖の先から炎を召喚する。その袖をリロイがつかんだ。
「でも! こいつら、いくら斬っても分裂するばっかで、全然逃げてくれないの」
「……こいつはスライムだ。こいつらは無機生物だから、剣や斧で斬ってもだめなんだよ。だからスライムを退治するときは、こいつらが苦手な火で追っ払うんだ」
サムソンはしゃべりながらも火の玉を召喚して、スライムたちを焼きつくす。少しずつ近づいてきていたスライムたちが、徐々に後退し始めた。
「あ、スライムたちが逃げていくわ」
「炎が怖いから、お前を食うのをあきらめたんだろ。放っとけばすぐにいなくなるよ」
サムソンは地面に座りこんで、ぐったりとした。
乱れる呼吸が落ちついてきたころに、リロイもサムソンのとなりに座った。サムソンはケープの胸もとを引っ張って「あちー、あちー」と言っている。
「ねえ、サム。どうしてあなたが、こんなところにいるの?」
「それはこっちが聞きたいわ! お前、こんなとこで何やってんだよ!」
いきなり怒鳴られて、リロイはむっとした。
「そんなの、あんたには関係ないでしょ」
「関係大ありだっつうの! お前を探すのに、どんだけ走りまわったと思ってんだよ。てっきり別の街に向かってると思ってたのに、こんなしょーもないとこで油売って、しかもスライムにまで囲まれてるし、ほんと、お前はどうしようもないやっちゃなー」
サムソンに容赦なくたたみこまれて、リロイはぶすっと頬をふくらませた。
「放っといてよ! だいたい、あたしは助けてくれなんて、ひと言も言ってないんだからね」
「へへえ。もうやだあ、とか半べそかいてたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「う、うるさいわよ! あんたこそ、無駄に岩になんかのぼってないで、さっさと炎を召喚しなさいよ」
リロイが躍起になって指した岩の後ろには、馬が蹄を立てて嘶いている。
「て、てめえ。それが命の恩人に対する態度かよ」
「はいはい。危ないところを助けていただいて、どうもありがとうございましたっ!」
リロイは棒読みで告げてから、サムソンの右足首をひとさし指で突いてみた。するとサムソンは「や、やめろ」と悶絶しだした。リロイは思わず声を出して笑った。
いつもの挨拶が終わって、リロイはサムソンをじっと見つめる。サムソンは眉をひそめて、嫌そうな顔をした。
「何だよ」
「もしかして、お父様に言われて、あたしを連れ戻しにきたの?」
サムソンが浅くうなずいた。
「ああ、そうだよ。お前の親父さん、お前がいないってかんかんに怒ってたぞ。どうすんだよ」
「どうするって言ったって……」
サムソンの責めたてるような目が見れず、リロイはすぐに視線を落とした。サムソンは「はあ」と、ため息をついた。
「キザ男にふられたのが、そんなに嫌だったのか」
「……エメラウス様は別に関係ないわ。あたしは、もっと強くなりたかったから、旅しようと決心しただけよ」
「でも、武術大会で色々なきゃ、家出しようなんて思わなかったんだろ?」
サムソンのひと言ひと言が、リロイの胸のまん中を打つ。自分の心がサムソンに全て見通されるとわかって、リロイの口から言葉が出なかった。
「で、どうすんだ? おれといっしょに別荘に帰るか。それとも、帰るのはやっぱり嫌か?」
「……あたしは帰らないわ」
リロイは膝の上に置いた両手を強くにぎった。
「あたしが勝手なことをして、お父様やあなたに迷惑をかけてるのはわかってる。あたし個人の問題にあなたたちを巻きこんで、本当に申しわけないと思うわ。……でも、あたしね。このままじゃいけないと思うの」
「このままじゃ……?」
「あたしは騎士見習いで、あなたは魔術師見習いで、あたしたちは十五歳になってから王宮に仕えてきたでしょ。あたしのお父様もあなたのお父様もレイリアの貴族だから、適当に暮らしていてもきっと騎士になれると思うの」
「まあ、そうだよな」
「あたしもそれでいいって思ってたけど、昨日の武術大会で負けて初めてわかったの。こんな弱い子が騎士になっちゃだめなんだって」
リロイのぽつりぽつりとした言葉を、サムソンはじっと聞いてくれる。口げんかばかりしていても、真剣な言葉を受け止めてくれるサムソンが嫌いになれなかった。
「あのね、だからね、あたし……」
「ああ、もういい。わかった。わかったよ」
サムソンがリロイの口の前に手のひらを出してきた。
「わりい。さっきの、お前を連れ戻しにきたってのはうそだ。本当は親父さんに言われて、お前を助けにきたんだ」
「えっ、そうなの」
「……お前の親父さん、怒ってなんかいなかったよ。でも、お前ひとりじゃ心配だから、君もついていってほしいって言われたんだ」
「そうだったんだ」
サムソンの細い声を聞いて、リロイは膝を抱えた。リロイとて自分なりに下した決断の結果なのだったが、親に迷惑をかけているとわかると、やはり心苦しく感じる。
あからさまに落ちこむリロイを見て、サムソンは頭をわしわしと掻いた。
「まあ、その、あれだ。冒険してりゃ、さっきみたいなことも起きるだろうから、おれもいっしょについてってやるよ」
「いいの?」
「なあに、うちにゃ兄貴がいるから、お前んちと違って世継ぎの問題もねえし、精霊魔術の勉強もなあなあになってたとこだから、ちょうど息抜きしたいと思ってたんだよなー」
「うん、ありがと」
サムソンの素直じゃない言葉が、少しありがたかった。リロイが少し顔を赤らめていると、サムソンは「お前のせいで、しんみりしちゃったじゃねえか」と言って立ち上がった。
「それにさ、おれ、前からずっと冒険してみてえって思ってたんだよ」
「そうなの?」
「だけどよお、親父も魔術師の師匠も頭かてえから、おれがいくら言っても許してくれなかったんだよなあ」
言いながら、サムソンは頭の後ろに手をあてた。
「お前が家出してくれて助かったわー」
「……もしかして、そっちが目的?」
背中を向けてけらけらと笑う友達の背中を、リロイは白い目で見た。