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「エジャ・ギエジ・アーガレス、グーアギエ・グエシャ・エアナエン・ダハガ――」
リロイは滝の上の丘であぐらをかきながら、ぶつぶつと呪文をとなえる。両手を突き出して、目をつむったまま精神を集中させる。
リロイの後ろで、サムソンとレオンハルトが静かに見守る。
「東方に住まうわれらが神グレモリーよ。永久の鏡より漆黒の姿を映したまえ。魔界の神をも虜にする幻影をわれに見せたまえ」
リロイの腕がうっすらと光り出す。身体から力がほとばしり、地面から浮いているような錯覚におそわれる。
リロイはゆっくりと目を開ける。視線の先に、呪文をとなえるリロイの姿が映っている。あぐらをかき、両手を突き出している幻影は、鏡に映した自分のように姿形が似ていた。
エメラウスが去ってからもリロイの修行は続いた。剣術の指導に加えて幻術の特訓が入り、内容はかなり難しくなっていた。
数日が経ってからも、リロイたちに異変が起きることはなかった。地獄の特訓だけが、朝から夜まで毎日のように続いた。
リロイが全身の力を抜くと、幻影はすぐに溶けてなくなった。
「ロイ! すげえじゃねえか。本当に幻術をマスターしちまったな!」
後ろからサムソンが飛びついてきた。リロイはぐったりして、サムソンに背中をあずけた。
「呪文をとなえるのって、こんなにしんどいのね~。あんた、たくさん呪文をとなえてて、よく疲れないわね」
「だから言っただろ。魔術をつかったときは、普通に運動したときの十倍の体力を消耗するって」
「そんなこと言ったっけ」
休憩するリロイの後ろで、レオンハルトが唾を吐いた。
「けっ、話にならんな。やりなおしだ」
「えーっ、どうしてよ! ちゃんと呪文となえられたじゃないのよ」
「ばかかお前は。呪文をとなえてやっと幻術が使えるようになった程度じゃ、幻夢剣は習得できないんだよ」
「むーっ」
リロイは起き上がり、ぶすっと頬をふくらませる。レオンハルトは「やれやれ」と首を左右にふった。
「いいか。呪文をとなえて幻術をつかってたら、相手に『これから幻術をつかいます』って答えてるようなもんじゃねえか。相手をだます剣術なのによ、自分で術を暴露してどうすんだよ」
「だってえ、そんなこと言われたって、幻術なんて教えてもらったことないもん。簡単にできるわけないでしょ」
「だから、話にならんと言ってんだ。呪文をとなえずに幻術がつかえるようになるまで、技は教えてやらねえからな。おぼえとけよ」
「えーっ! そんなあ」
リロイはばたんと地面に倒れる。白目を剥くリロイを見下ろして、サムソンは顔を青くした。
「でもよ、おっさん。呪文をとなえずに魔術をつかうのって、すっげー難しいんだぜ。王宮の人間だって、そんなことできるのは数人しかいねえし。魔術の魔の字も知らねえロイができるわけないって」
レオンハルトは目を細めて、はげ頭から光を反射させた。
「んなこたあ知ってるよ。だがよ、幻夢剣を習得してもらうためには、鼻から血を出してでもやってもらわなきゃいけねえんだ。お前は黙ってな」
「そりゃ、そうだけどよ。でも、人間の限界ってものがあるじゃんかよ。それを超えてでもやれっていうのは、ちょっとな……」
「ほう。今日はずいぶんリロイに肩入れするじゃねえか。なんなら、お前もいっしょに特訓するか? 呪文をとなえずに魔術がつかえるようになりゃ、王宮のスターになれるぜ」
「えっ――」
サムソンは顔を引きつらせる。レオンハルトは腕を組んで、おびえるリロイとサムソンを見下ろした。
「お前らが呪文から卒業できないのは、念の力が弱いからだ。念の力で呪文をとなえる――すなわち、心で呪文を強く念じて魔力を高める。本当に優れた魔術師はな、呪文や魔法円なんかつかわなくても、魔術をつかうことができるんだ。……だが、お前らは心が弱いから、呪文に頼らなきゃ何もできねえんだよ」
レオンハルトは胸のまん中を叩いた。
「もっと心をきたえろ。ってことで、あれだ。お前らふたり、今日から滝行を追加だ」
「え~っ!」
リロイとサムソンの絶叫が滝の下までひびいた。
一時間の滝行が終わり、リロイとサムソンはほうほうの体で滝からあがった。全身はびしょびしょに濡れて、身体は氷のように冷たくなっていた。
「お前、いつもこんな特訓ばっかしてんのか」
「そ、そうよ。命なんかいくつあっても足りないでしょ」
リロイとサムソンは滝つぼの畔で寝そべる。青空ばかりの視界の左下に、レオンハルトののっぺりとした顔が出てきた。
「滝行ぐれえでぴーぴー言ってんじゃねえよ。くそがきどもが」
リロイはがばっと起き上がった。
「あんたねえ、こっちは死にそうになってるのに、ずけずけと言ってくれちゃってんじゃないわよ! このはげ親父!」
「けっ。だから、てめえらは未熟だって言ってんだよ。おれが下積みしてたときは、五時間は滝に打たれてたもんだぜ」
レオンハルトは肘をついてそばに寝転がり、「しばらく休憩だ」と言った。
――くっそー。このはげ、本当にむかつくわー。奥義を習得したら、絶対に道場破りしてやる~
黒い気を発するリロイの足もとで、レオンハルトは眠そうに欠伸を漏らした。
「それにしても、えっと、何て言ったっけ。こないだの近衛騎士団長は」
「エメラウス様のこと?」
「ああ、そうそう。そんな名前だったな。……今のレイリアは、あんな若造がタイクーンを護ってるんだなあ」
他人ごとのようにつぶやきながら、レオンハルトは鼻をほじる。リロイは口をとがらせた。
「何言ってんのよ。ああ見えてもエメラウス様は強いのよ。それこそ、あんたなんか目じゃないわよ」
「ほー。かつての近衛騎士団長に向かって、ずいぶんなことを言ってくれんじゃねえか。身のほど知らずが」
「うるさいわね。かつての近衛騎士団長だか知らないけど、あんたなんかに――って、えっ? い、今何て言ったの?」
リロイが座ってまじまじと見つめると、レオンハルトはにやりと笑った。
「あんな若造が騎士団長になれるなんて、レイリアもずいぶん質が落ちたな。中央はあれからさらに腐敗が進んでるって聞いたが、うそじゃなかったみてえだな」
リロイのとなりでぐったりしていたサムソンが、むくりと起き上がった。
「なあ、おっさん。おっさんは騎士団長になれたのに、どうして騎士をやめちまったんだ? 庶民から騎士になるなんて、これ以上ない栄誉なのに」
「別に、大した理由じゃねえよ。騎士をやってるのがちょっとだけ、かったるくなっちまっただけだ」
「ええっ!? そんな理由で、前々から望んでた騎士を捨てちまったのかよ。騎士になるの、すげー大変だったんだろ」
リロイとサムソンの視線を受けて、レオンハルトが「ち」と舌打ちする。手をついて身体を起こし、右手の指で耳の穴をほじった。
「この前の若造も言ってただろうけどよ、王宮ってのは腐ってんだよ。どいつもこいつも王宮に麗しい幻想を想い描いてるみてえだが、あそこにあるのは権謀術数と罪のなすりつけ合いだけさ。夢もへったくれもあったもんじゃねえ」
「そうなのか? おれもロイも王宮に入ったことはあるけど、宮殿はきれいだし、贅沢な暮らしはできるし、いいことばっかりだったけどなあ」
「それはな、お前らがまだひよっこだから、だれにも相手にされてねえだけなんだよ。お前らが連中の地位をゆるがすほどになれば、連中は向こうから牙を剥いてくる。ありもしない罪状を携えてな」
「でも、それってただの詐欺じゃない。その辺の悪党でも、そんなひどいことしないわよ」
リロイがつぶやくと、レオンハルトは腕を組んでリロイを見下ろした。
「そうだ。王宮の連中がしてることは、悪党と何ら変わらねえ、ただの犯罪なんだよ。ライバルを蹴落とすためだったら、連中はどんな罪だって捏造する。相手が何か失敗したら、そこをしつこく責めて金をせびってくる。そうしなければ、自分が蹴落とされるんだからな」
「そんな! みんなは王宮を護る騎士なのに、どうして仲良くできないの。泥仕合みたいなことして、何が楽しいの?」
「王宮ってのはな、そういうもんなんだよ。……この前の若造だって、言ってただろうが。大臣たちが派閥をつくって争ってるって。それなんかいい例だ」
「でも、そんなことって――」
リロイは地面を見つめて目を潤ませる。憧れていた騎士という存在が否定されたようで悲しかった。
レオンハルトはリロイから目を逸らして、向こうの滝をながめた。
「この前の若造は、大臣たちが悪いことをしてるみてえに言ってたけどな。だれも自分が悪いことをしてるだなんて、思っちゃいねえんだよ。どいつも自分の身と立場を守るので精一杯なんだ。外で旱魃が起きてようが、農奴たちが餓死しようが、知ったことじゃねえ。そんな問題はだれかがきっと何とかしてくれるんだから、自分は自分の身の安全さえ考えていればいいと、思ってんだよ。王宮の連中は」
よく晴れた空の下で、滝の音だけが山にひびきわたった。
数日後、リロイはまた滝の上の丘でシャムシールを抜いていた。数歩先には、レオンハルトが腕を組んで立っている。
「い、いくわよ」
リロイはシャムシールを下げて突撃する。左手を胸の前にそえて、小声で呪文をとなえた。
「グーアギエ・グエシャ――」
レオンハルトにぶつかる瞬間、リロイは左に跳んで衝突を避ける。となえた幻術がリロイの残像となって、レオンハルトに覆いかぶさった。
――やた! ついに幻夢剣を習得できたわ。
リロイは後ろに跳び、左手で地面を抑える。「ざざざ」と足が地面をすり、砂塵が風に舞った。
レオンハルトは幻術を手でふり払い、リロイをにらめつけた。
「ふん。やっとできるようになったか。まだ、ずいぶんとぎこちないがな」
「へへん。まあ、あたしが本気になれば、ざっとこんなもんよ。さ、早く次の技を教えて」
「ばかたれが。呪文から卒業できてねえやつが、いっぱしの口を利いてんじゃねえ。次の特訓は滝行が終わってからだ」
「ええーっ! まだあの滝行をしなきゃいけないの? もうやだ」
「うるせえ。がたがた言ってねえで、さっさと下に降りろ。……あ、その前にサムも呼んでこいよ。あいつの性根もきたえなおしてやらんといけねえからな」
「そんな~」
リロイは肩を落としてレオンハルトに背を向ける。レオンハルトは腕を組みながら、そっと空を見あげた。青天のはるか彼方に暗黒の雲が広がっていた。