52
「……お……ゃん、おね……ん」
ゆるやかに流れる水の音が聞こえてくる。
「……姉ちゃん、お姉ちゃん!」
ぼうっとする頭に、女の子のかわいらしい声がひびいてくる。リロイは目に力をこめて、ゆっくりと瞼を開けた。
――あれ……? あたし、生きてる?
瞳に映るのは下流のゆるやかな川の畔と、紫色のロングスカート。スカートの女の子はリロイの目の前で地面に膝をつけている。つややかなスカートがぴんと張られていた。
「姉ちゃん。……だいじょうぶ?」
かわいらしい声を出す女の子がのぞきこんでくる。リロイは瞳をゆっくりと動かして、女の子を見つめ返す。
女の子は、うすいピンク色の髪をふたつに束ねていた。耳の上から下がるツインテールは、ゆるやかなウェーブがかかっている。その間に挟まれた顔は小さく、人形のように整っている。
リロイは目を見開いた。
「あ……カ、カーシャちゃん?」
「お姉ちゃん!」
カーシャは目にたくさんの涙を浮かべて、リロイに抱きつく。リロイはわけがわからずに呆然とする。
――はて……。これはどういう状況なのかしら。
「ああ、気がついたのね。よかったわ」
カーシャの後ろでパトリシアがほほえんでいた。わんわんと泣くカーシャを離して、彼女は川水に濡れたリロイの身体を起こした。起こしてもらった後も、リロイはしばらく目を回した。
パトリシアが眉をひそめた。
「カーシャとふたりで散歩していたら、あなたが川から流されてきたからおどろいたわ」
「あ、あはは。そういうことでしたか」
「服を着ながら水あびでもしてたの? ここの川は深い場所があるから、足を踏み外すと危ないのよ」
「危ないってのはわかってたんですけど、強引にやらされたというか、何というか……」
リロイは頭の後ろに手をあてて苦笑する。今度はカーシャとパトリシアがたくさんの疑問符を浮かべた。
エドワードの屋敷へと足を運びながら、リロイはレオンハルトのことを説明した。無茶な修行の数々を話すと、カーシャとパトリシアもすごくおどろいていた。
――それにしても、あんな高いところから落とされて、よく平気だったなー。……おかげで、こんな下流にまで流されちゃったけど。
滝の上での顛末を想像して、リロイの背中に鳥肌が立った。
リロイはとなりで歩くカーシャを見下ろす。カーシャはにこにこしながら、両手を腰の後ろにまわしている。
「カーシャちゃんも元気になったんだね。薬の後遺症とかはない?」
「うん。お姉ちゃんに助けてもらってから、全然平気だよ。……夜に目を閉じるのは怖いけど、ママがいっしょに寝てくれるから、それも平気」
「そっか。カーシャちゃんのママは優しいんだね」
「うん!」
リロイが頭をなでると、カーシャは満面の笑みを返してくれた。
しばらく歩いて、エドワードの屋敷に着いた。人のいいエドワードとドロシーに迎えられて、リロイは着替えと昼食をいただいた。昼食の席は談笑につつまれて、とても幸せそうだった。
リロイはすぐにお暇しようと思っていたが、「カーシャの恩人だから」と門前で呼び止められてしまった。とりわけ本人のカーシャに気に入られてしまい、リロイは断りの言葉をなくしてしまった。
――サムの初恋の子だから、無下に突き放したりしたらまずいよね。……ていうか、あたしのことを好きになってくれてるんだから、あたしも素直になればいっか。
無邪気に笑うカーシャを見て、リロイは少し申しわけないと思った。
カーシャに手を引っ張られながら、リロイは屋敷の大きな庭を走りまわる。花を摘んで髪飾りをつくると、カーシャは手を叩いて喜んだ。
「病気で横になってたときは、お姉ちゃんといっしょに遊べることなんて想像できなかったな」
ぽかぽかと暖かい日光を浴びながら、カーシャがかわいらしい笑顔を向ける。リロイも芝生のような野原に腰を下ろして、にこりと笑った。
「元気になってよかったね。あたしも最初にカーシャちゃんを見たときは、どうしようかと思ったけど、ほんとによかったわ」
「うん! ……あたしがこうしていられるのは、全部お姉ちゃんのお陰だもん。お姉ちゃんはあたしの命の恩人だわ」
まじまじと見つめるカーシャに、リロイは両手を出してぶんぶんふった。
「だから、あたしは命の恩人なんかじゃないって! たまたま通りかかって、偶然に夢の中に入ってあれこれしただけだから! 恩人なんて柄じゃ――」
「でも、お姉ちゃんが夢魔をやっつけてくれたから、あたしは元気になったんだもん。パパもママも、きっとあたしと同じことを言うと思うわ。……だから、お姉ちゃん。ほんとにありがとうね!」
カーシャは頬を少し赤く染めて、リロイの手をにぎる。痛いほどに純粋な気持ちは嬉しいが、ずきりと心にひびくものがあった。今さら、レオンハルトに会うためにやったのだとは言えない。
リロイはとなりに座るカーシャを見つめる。彼女は花の髪飾りをかぶり、「似合うかな」と笑みをこぼしている。表裏ない笑顔がとてもかわいいと思った。
――理由はどうあれ、あたしはこの子を助けたんだもん。あたしがしてることは、何も間違ってないんだよね。きっと……うん。そうだよね。
カーシャから髪飾りをわたされて、リロイも頭にかぶった。
「お姉ちゃんのパパって、とっても有名な人なんでしょ」
カーシャは花摘みをしながら、顔だけをリロイに向ける。リロイは首をかしげた。
「う、うん。そうらしいんだよね。……て、カーシャちゃんがどうしてそれを知ってるの?」
「だって、この前パパがそう言ってたから」
「あ、そっか」
リロイが間の抜けた返事をすると、カーシャは首をかたむけてうつむいた。
「お姉ちゃんはいいよね。強くてかっこいいパパがいて。うらやましいな」
「いやいや! うちのお父様は迅雷とか新米とか言われてるみたいだけど、あんなの、屁がくさいだけの親父だよ? ぜえんぜんかっこよくないって!」
「ええっ。そうなの? パパは悪い人をやっつけてる偉い人だって言ってたけど――」
言葉を続けるカーシャの肩を、リロイがむんずとつかむ。剣呑な顔を近づけるとカーシャがびくっと反応した。
「カーシャちゃん。あんたは悪いうわさに惑わされてるのよ。……いい? 新米なんかにだまされちゃだめよ。もっと気を強く持って! 自分を信じて!」
「で、でも、新米とは言われてなか――」
「カーシャちゃん! 惑わされちゃだめ! あなたは夢の世界から解放されたんだから……そうよ。現実を、リアルを見るのよ」
「う、うん」
カーシャはおどおどしながら何度もうなずく。リロイは腕を組みながら、「よし」と険しい表情で言った。
リロイはどすっと腰を降ろすと、草の上であぐらをかく。たくましい姿にカーシャが苦笑した。
「お姉ちゃんはパパが嫌いなんだね」
「そりゃそうよ。あんなくさい親父、だれが好き好むかっての。『リロイい』とか言いながら抱きついてくるし。きしょいったらありゃしない」
「そうなんだ。……でも、そうやって言いたいことが言えるのっていいなあ。信頼の裏返しなんでしょ。そういうのって」
「だから、そんな立派なもんじゃないって。あたしだって、エドワードさんとカーシャちゃんを見てるとうらやましくなるよ? 血がつながってないのに、本当の親子みたいなんだもん」
「……うん」
カーシャがそっと視線をそらす。遠い目で屋敷を見つめた。
「パパとママは本当によくしてくれるわ。教会で引きとってくれたときから、一度も怒られたことないし。パパなんて、あたしが具合悪くなると仕事を放り出して看病してくれるし」
「あ、それはちょっとわかるかも。あたしが初めて来たときも、エドワードさんは必死に看病してたもん。エドワードさんって、本当に優しい人だよねえ」
「うん。パパとママの養子になって、あたしはとても幸せ。……でも、ときどき寂しくなるの。あたしを産んでくれた本当のママとパパって、どんな人なんだろうって思うと、胸がとっても苦しくなって、涙が止まらなくなっちゃうの」
カーシャの両手がぷるぷるとふるえる。強くにぎられて、持っていた花がぐしゃりとつぶれた。
「あたし、おかしいよね。パパとママにあれだけ優しくしてもらってるのに、わがままだよね」
「う、うん……」
カーシャは流れそうになる涙をこらえて、ひかえめに笑う。その顔を、リロイは見ることができない。
リロイは手を遊ばせながら、かける言葉を考える。
「あ、あのさ。あたしは実のお父様もお母様も健在だから、カーシャちゃんの気持ちを汲んであげることはできないけど、その、別におかしくはないんじゃないかな」
「本当のパパとママのことを思うのが?」
「うん。……だって、あたしら子供からしたら、お父様とお母様って大事な存在だし、寂しかったら色々と甘えたくなるじゃん。そう思うのって普通の感情だと思うし、それに、エドワードさんとパトリシアさんもわかってるんじゃないかな。カーシャちゃんが寂しがってるのをさ」
「そうなのかな」
「そうだよ! だからエドワードさんとパトリシアさんは、あんなに優しくしてくれるんだよ。……なあに、だいじょうぶだって! エドワードさんなんか、ああ見えてけっこう図太そうだからさ。たまにゃ、がつんと言っちゃいなさいよ!」
「が、がつん!? って?」
「だからあ、こうやって拳をにぎってさあ――」
リロイが歯を食いしばりながら拳を突き出すと、カーシャは目を見開いて絶句した。リロイは歯を出して笑った。
「家で行儀よくしてるのもいいけどさ。それだと肩凝るじゃん。だから、たまにはこうやって、がつんといってみると、案外気持ちよかったりするのよ~」
「そ、そうなんだ」
「よかったらためしてみて」
呆気にとられているカーシャを尻目に、リロイは「よいしょ」と立ち上がる。大きく伸びをして、首をこきこきと鳴らした。後ろから、くすくすと笑い声が聞こえた。
「やっぱお姉ちゃんはすごいなー。うだうだ考えてるのが嫌になっちゃった」
「だから、そんなんじゃないっての! あんたもいい加減にわかりなさいって」
「ううん。お姉ちゃんはやっぱすごいって! だってあたし、お姉ちゃんに助けられてばかりだもん。あたしにとってお姉ちゃんは英雄だわ」
「あ、そ。……んじゃ、もうそれでいいわ」
意外と頑固なカーシャにリロイはげんなりする。気がつくと、満天に浮かんでいた陽がだいぶかたむいていた。
そろそろ帰らなければと思った後ろから「お姉ちゃん」と声が聞こえて、リロイがふり向く。カーシャは両手を胸の前にあてて、祈るようなポーズをとっていた。
「お姉ちゃんは旅するために家出してきたんでしょ。うちで何があったのかはわからないけど、お姉ちゃんのパパとママはきっと心配してると思うわ。早く帰って、パパとママを安心させてあげて」
涙をいっぱいためるカーシャの肩が、少し黄昏れている。物悲しい色合いに、リロイは思わず見とれてしまった。