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結局、石を見つけることができなかった。リロイは暗い谷底で寝泊りし、明け方にレオンハルトの家に帰った。
「ロ、ロイ。平気か!?」
扉を開けると、サムソンが血相を変えて飛びこんできた。倒れそうになるリロイの身体を抱きかかえた。
リロイは必死に身体を起こして、土がついて汚れた顔で笑顔を返した。
「あたしはだいじょうぶよ。心配しないで」
「そんなこと言ったって、だいじょうぶに見えるかよぉ」
泣きそうになるサムソンの背後から、はげ頭のレオンハルトが歩いてきた。
「石は見つけてきたのか」
「ううん。見つけられなかったわ。ごめんなさい」
リロイはレオンハルトを下からにらむ。レオンハルトは顎を出してリロイを見下した。
「全然、ごめんなさいって思ってそうな顔じゃないな。何だ、おれに不服でもあンのか?」
「いいえ、別に。あたしはもともとこういう顔なの。気にしないで」
「ほう。それは悪かったな。だが、石は見つけられなかったから、約束通りに晩飯は……って、もう夜はすぎてたか。それじゃ、仕方ねえか」
レオンハルトはうすく笑うと、リロイのわきを通りすぎる。日差しが差しこむ戸口で足を止めた。
「お前らが水汲みしてる川を登ると大きな滝に出る。朝飯食ったら、そこに来い」
おろおろするサムソンのとなりで、リロイは拳を固くにぎった。
朝食を済まし、リロイは腰の帯をしめなおす。曲刀シャムシールを差して、木製の扉を押し開けた。
――こんなところで負けられないわ。レオンから剣を教わるまで、山は絶対に降りないもん。
なだらかな山道を歩きながら、リロイは肩と腕に力をこめる。昨夜でだいぶ消耗したと思っていた力は、少し休んだだけでかなり取り戻せている。まだまだ、あきらめる場面ではない。
筋肉痛で痛む足を叱咤して、リロイは滝に向かった。
森に入り、大きな石が転がる道を降りる。上流に位置する川は、今日も勢いよく水が流れ落ちている。リロイは川の畔でしゃがんだ。
リロイは川をじっと見つめる。川は大きな石にあたり、たくさんの水しぶきを上げている。湿り気が混ざった空気が、リロイの顔と身体を冷たく包みこむ。「ざざざ」と流れる音はとてもうるさい。
――それにしてもと、リロイは思う。そのとなりに、悪態をつきながら水を汲んでいるサムソンがあらわれる。残像の彼は拳をにぎり、肩を怒らせている。
雨の日がすぎてから、サムソンは人が変わったようにリロイを気遣っている。根が優しい彼は、キンボイスたちに負けてしまった責任を感じているのだろうと、リロイは思っている。
自分を気遣い、優しく接してくれるのはとても嬉しい。その一方で、申しわけないから止めてほしいと思う気持ちがある。
自分のために親友を疲弊させてしまうのは、人として間違っているのではないか。くされ縁だと思っていたサムソンに対してそんなことを考えるのは、生まれて初めてだった。
「はあ……。どうしたらいいんだろう」
リロイは膝を抱える。意外と頑固なサムソンだから、いくら説得しても聞いてくれないだろう。しかし、不自然に突き放したところで、こちらの意図を見抜かれてしまうに違いない。
『具合悪いんだったら、無理しなくていいからな。お前の分もおれがやっとくから』
リロイははっと立ち上がる。にぎりしめた両手がぷるぷるとふるえた。
「だめ。……弱腰になっちゃだめよ。強くなったところを見せて、いつものサムに戻ってもらうんだから。こんなところでうじうじしちゃだめ」
リロイは流れ落ちた涙を拭って、後ろをふり返る。肩を張りながら、滔々と流れる川のとなりをよじ登った。
はげしく流れる川の畔を歩いて、目の前に大きな滝が見えてきた。関所の門のように高い崖の上から、白い玉のような水が流れ落ちている。たくさんの水を受け止める滝つぼは色が黒くて、とても深そうだった。
滝のとなりで、レオンハルトがあぐらをかいている。「来たか」と言葉をもらして、ゆっくりと立ち上がった。
「ずいぶん遅かったな。辛くて逃げ出したのかと思ったぜ」
「ふふっ。そんなわけないでしょ。あんたこそ、ひとりで淋しかったの? あたしに剣を教えてくれたら、淋しい思いをしなくてもいいのよ」
「はっ。身体もできてないやつに剣術なんて教えられるかよ。剣術を教わりたかったら、その貧弱な身体と精神をきたえるんだな」
レオンハルトは「ふん」と鼻を鳴らす。背を向けて滝つぼの近くに歩いていく。はげしく流れ落ちる水を見上げた。
「次の修行は滝業だ。ほれ、ぼうっとつっ立ってないで、ここに来い」
リロイはぐっと口を縛る。悔しい想いを胸にレオンハルトのとなりに近づく。
「滝業って、滝の下であぐらをかいて水に打たれるあれ? 小説じみたことして、何か意味あんの?」
「あ? そんなん、実際にやってみりゃわかるだろ。おめえはぶつぶつ文句言ってねえで、さっさと滝業を始めりゃいいんだよ」
倣岸なレオンハルトにむっとしたが、リロイは黙って滝つぼに近づく。円を描く滝つぼの淵を伝い、滝の裏へと足を踏み入れる。滝の裏は水しぶきが飛んで冷たい。滝の音もとても大きい。
リロイは滝つぼ近くの岩場に近づき、滝にそっと手をあてる。男から殴られたような衝撃が手の平をたたきつける。
「何ちんたらやってンだあ? びびってねえで、さっさと始めろ」
「う、うるさいな! 湯加減を確かめてただけでしょ」
レオンハルトに反抗するが、滝に頭を突っこむことができない。流れ落ちる水の重さと冷たさが、リロイを踏みとどませる。
――んもう! 何びびってんのよ、あたし! 滝なんかにびびってるんじゃ、いつまで経っても強くなれないわ。……ええい、ままよ!
リロイは一歩を踏みしめる。突き出した頭が滝に打たれて、クラブ(棍棒)で殴られたような衝撃を受ける。リロイは歯を食い縛り、滝の下に腰を落とした。
脳天と両肩に大量の水が容赦なく降り注ぐ。ずぶ濡れたシャツが胸と両腕に張りつく。頭から水が流れ落ちて、目を開けることも、息をすることもできない。
「おい。湯加減はどうだあ?」
レオンハルトの嘲る声が聞こえてきた。
「ゆ、ゆかげ……て、こ……きな……」
「ああ? 何言ってんのかわかんねえよ。まあいい。しばらくそうしてろ」
口を開けると水が中に入ってくる。そのたびに、むせ返って吐き出しそうになる。全身が氷のように冷たくなり、指先の感覚が少しずつなくなってくる。
――身体と精神をきたえろって言ってたから、長い時間滝にあたって精神をきたえろってこと? あのはげ、乱暴な言い方してるけど、修行のメニューをちゃんと考えてくれてるのね。
辛抱強く滝に打たれ続けるリロイを見て、レオンハルトが冷笑する。
「滝業なんて意味がないと真剣に考えていた僧侶たちは、実際に滝に打たれてこう思う」
レオンハルトはそっと腕を組んだ。
「やっぱり意味ないと」
リロイの頭の上に木の太い幹が落ちた。
リロイは全身びしょ濡れになりながら、レオンハルトの後ろを歩く。包帯でぐるぐる巻きにされた頭をさすって、レオンハルトの背中をにらみつけた。
――くっそー。うすらはげじじいめ~! あたしが下手に出てるからっていい気になりやがってえ。
わなわなと身体をふるわせながら、どす黒い気をたんまりと放出させる。レオンハルトがすぐにふり返り、にやりと白い歯を出した。
「文句あるんだったら、今すぐ帰ってもらってもかまわねえからな」
「な……! ん、んもう、そんなわけないでしょ。かわいい弟子なんだから、少しくらい信じてくれたっていいでしょ?」
「……気持ちわりいから、腰をくねくねさせるな」
懸命にごまをするリロイに、レオンハルトが少したじろいだ。
大きな滝を迂回し、レオンハルトは崖の急斜面を駆け上がる。斜面は大きな石がごろごろしていて、とても歩きづらい。リロイは「よ」を声をあげながら、石を飛び移っていった。
滝の上まで登り、レオンハルトは崖の手前で足を止める。切り立った丘のようなところから首を前に出して、しばらく崖下を見下ろしていた。
「今度は何をするの?」
リロイは不安になりながらそっとレオンハルトに近づく。レオンハルトはしゃがみ、足もとをもぞもぞさせる。崖下から黒い縄をとり出した。
「これを足に巻きつけろ」
「へっ……?」
呆然とするリロイの足首を、レオンハルトは縄で巻きつけていく。閉じた足を一本の縄で縛り、足枷のようになった。
縛られた縄の先は崖下につながっている。よく見ると、崖下に一本の丸太が打ちつけられていて、縄の先は丸太をぐるぐる巻いていた。
「あ、あの、これって、もしかして……」
「そのもしかしてだ――よ!」
レオンハルトがすばやく背後にまわり、リロイの背中を蹴り上げる。リロイは「あああアア嗚呼!」と叫びながら崖下に落っこちた。
足を縛る縄がぴんと張る。リロイは崖の丸太から一本の縄によって宙ぶらりんにされてしまった。
「ちょ、ちょ、ちょ! ちょっとお~!」
血を頭に下がらせながら、リロイは両手をばたばたさせる。真下はカップの口ほどの大きさになっている滝つぼ。頭の中は落下する恐怖でいっぱいだった。
切り立った崖の上から、レオンハルトがひょっこりと頭だけ出した。
「わーわーうるせえ野郎だな。次の修行は、ほれ。そこで腹筋三百回だ」
「そんな、む、無茶言わないでよ~! いいから早く助けてえ!」
「だめだ。上げて欲しかったら、さっさと腹筋三百回やりな」
「そ、そんなー!」
レオンハルトは頭を光らせながらにやりと笑う。その表情はあふれんばかりの悪意に満ちている。
――だめ! だめよこんなの。ここであたしは絶対死ぬ! 剣を教わる前に、あいつに殺されてしまう!
うすら笑うはげ男に絶望すら感じてしまう。リロイはうすれていく意識の中で何かをあきらめるしかなかった。
宙ぶらりんになって数分も経たないうちに、足もとからみしみしと音がしてきた。リロイがはっと顔を上げると、丸太とリロイの足を縛る縄のまん中あたりが、みるみるうちに細くなっていく。
「レ、レオン! ちぎ、ちぎ、ちぎれ――」
「あ?」
レオンハルトが気づくより早く、縄はぶちんとちぎれた。
「あ、やべっ」
リロイは「アアアア」と絶叫しながら滝つぼに急降下した。