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稽古は午後からにしようというレオンハルトの言葉に、リロイは首をたてにふった。先ほどの乱闘で居間と寝室が散らかってしまったため、そちらの片づけをすべきだろうとリロイも思った。
部屋の片づけに手間どってしまい、終わったころにはお昼の時間になってしまった。リロイたちは昼食をとり、しばらく休憩をはさんだ。
日が満天にのぼったころ、レオンハルトは「よっこらせ」と言いながら寝室に入っていく。ごそごそと音を立てて、抜き身のシャムシール(曲刀)をぶら下げてきた。
「ほれ」
レオンハルトがシャムシールを投げつける。リロイはあたふたしながらシャムシールをお手玉する。右手で細い柄をにぎると、湾曲した刃が銀色に光った。
リロイは右手首を曲げる。「チャキ」と音がして、剣の腹がリロイにふり向く。美しい鋼の刃はみがかれた鏡のようで、リロイの不安げな顔をきれいに映し出す。
――すごい。こんなにきれいな剣、見たことない。
リロイは唾を呑みこみながら、刃先へと視線を移す。鍔からまっすぐに伸びている片刃の剣は、まん中あたりから刃が曲がっている。ゆるやかな曲がり具合に鋭く尖った先端は、三日月の形によく似ている。
「その剣はお前にくれてやる。おれのお気に入りだからな。錆びさせんじゃねーぞ」
そう言うと、レオンハルトは短いダガーを持って外に出る。リロイは腰の帯にシャムシールを差して、レオンハルトの後に続いた。
レオンハルトは裏の畑をすぎて、山道をのぼっていく。雑草の生い茂る獣道を踏み分けて、ごつごつとした岩に飛び乗る。道と呼ぶのも疑わしい山道を、レオンハルトは軽々と飛び越えていく。
リロイは岩にしがみつきながら、レオンハルトの後を必死に追う。ついていくだけでも精一杯だが、そんなことは気にならない。リロイの気持ちは、レオンハルトがにぎるダガーに集中していた。
――レオンはあのダガーであたしと稽古するのかな。ダガー一本で悪漢十人を倒したらしいけど、本当だったのかな。
漠然と考えながら、リロイはレオンハルトと初対面したときを思い出す。憎まれ口をたたいたレオンハルトは、リロイが飛びかかった一瞬のうちに姿を消して、リロイの後ろに瞬間移動した。そんな技は今まで目にかかったことがない。
――数多の剣士たちの頂点に立つレオンハルトの稽古って、どんなのかしら。まずはお手並み拝見ってとこね。
リロイは汗をぬぐいながら、にっと笑った。
太陽が西にかたむきかけたころ、眼下の景色が一望できる山の中腹にたどり着いた。リロイが息を切らせながらのぼりきったときには、レオンハルトは崖を背に腕を組んでいた。
「このくらいで息を切らせるようじゃ、極意の伝授は十年後だな。鍛練が足りていない証拠だ」
厳しく言い放つと、レオンハルトはしゃがんで地面を触り始めた。リロイは膝に手をつきながら、その様子をまじまじと見つめた。
「何してるの?」
「何って、石を探してるんだろうが。……じっとしてないで、お前も手ごろそうな石を探せ」
リロイは頭に疑問符を浮かべながら、あたりに転がる石のいくつかを拾った。差し出すと、レオンハルトはしばらく吟味して、手の平ぐらいの大きさの石をとった。
「ま、この辺でいっか」
「って、何が……?」
リロイは眉をひそめるが、レオンハルトは聞こえていないようだった。右手に持ったダガーを突き立てて、石の表面にがりがりと傷をつけ始めた。
何度か音を立ててから、レオンハルトは石をリロイの前に突き出した。傷がついた表面には、「Leon」と刻まれていた。
「小娘。よーく見とけよ。この石だからな。間違えんじゃねーぞ」
「だから、何が? これからやる稽古と何か関係あるの?」
いぶかしむリロイに、レオンハルトは鼻で笑う。背を向けると崖に近づいて、
「こうすんだよ!」
目一杯ふりかぶり、持っている石を投げ飛ばした。石は弧を描きながら向こうへと飛んだ後、崖の下に落ちていった。
その様子をリロイは茫然と見下ろす。
――何なのこれ。もしかして、これも稽古の一環なの? この人はあたしに石投げ大会でもさせるつもりなの?
リロイはがっかりしながら崖下を見つめる。これから厳しい剣の稽古が始まると踏んでいたのに、みごとに出鼻をくじかれてしまった。
そのとなりで、レオンハルトは首をかしげる。
「ほれ。何してんだ。さっさと行け」
「ほえっ……?」
リロイは変な声を出したが、レオンハルトはそれを無視するように崖下を指差す。
「さっき投げた石を拾ってこいって言ってんだよ」
「へっ……え、ええぇ!?」
リロイはがく然としながらレオンハルトにつめ寄る。
「何言ってんのよ。あんな小っちゃい石なんて探し出せるわけないじゃない。どこに落ちたかもわからないのに、無茶言わないでよ!」
「あ? そんなん知らねえよ。おめえはいいから早く、さっきの石を拾ってくるんだよ」
「何でよ。あたしは! あんたに剣を習いに来たのよ。石なんて拾ってられないわよ」
「あーそうかい。そんじゃ、お前は破門だな。荷物まとめてさっさと帰んな」
「な……! ちょ、ちょっと待ってよ~!」
山を降り始めるレオンハルトの腕に、リロイがしがみつく。レオンハルトはリロイをふりほどいて、また崖下を差した。
「わかったら、さっさと行け。……おっと、一応言っとくが、石を見つけられなかったら晩飯抜きだからな」
「ううぅぅ。剣術習ったら、絶対道場破りしてやるもん。見てなさいよ」
リロイは拳をわなわなとふるわせて、来た道を引き返した。
「おっかしいなー。確か、この辺に落ちたと思ったんだけどなー」
崖と山道を伝い、リロイは険しい山を降りた。深い谷底に降り立ったころには、日が沈みかけていた。空とあたりの木々が紅色に染まる。
きれいな夕日をながめて、リロイの心から焦りがこみ上げてくる。うす暗い谷底で夜を迎えてしまったら、晩ご飯はおろか、レオンハルトの家に帰ることすら危うくなってしまう。
――うう……まずい、まずいわ。さっさと石を見つけて帰らなきゃ、家に帰れなくなっちゃう! はああ、がんばれ、がんばれ、あたし!
リロイは腰を下げて両腕に力をこめる。細い二の腕が少しだけふくらんだ。
額の汗を袖でごしごしと拭って、リロイは地面を見下ろす。きょろきょろと首を動かすと、細かい石があたりに転がっていた。リロイはしゃがんで、ひとつを拾ってみる。拳ほどの石には何も刻まれていない。
石を投げ捨てて、別の石をひょいと拾うが、やはり文字は書かれていない。
「はああぁ……。こんな広い山の中で、石なんて本当に見つかるわけ? 砂漠に落とした財布を探すようなもんじゃない」
リロイは石を遠くに投げて、茂みに足を踏み入れる。そこら中に転がる石を手あたりしだいに拾っては、はずれだったことにげんなりする。ばかばかしくなって、リロイは地面にへたりこんだ。
「だいたい、石なんか探して何か意味あるわけ? あたし、こんなことをしに来たんじゃないのに……」
地面に手をついてリロイはしゅんとする。黄昏を背に受けると、孤独に胸が悲しくなってくる。リロイは疲れて目を閉じた。
鬱蒼と茂る山が暗闇に変わる。瞳の奥は黒一色で何もない。蜩の鳴き声だけがうるさくひびきわたる。
うるさい暗闇の向こうから、こつ、こつ、とヒールの足音が聞こえてきた。不気味にひびく音が外界の音を遮断する。
リロイの目の前に、黒いドレスの女があらわれた。女は長い髪を掻きあげながら、傲然とリロイを見下す。
――あらあ。もうあきらめちゃったの? 根性なしねえ。
リロイは目を見開いて立ち上がった。
「だめ。……こんなことでくじけちゃだめ! あたしは、どんなことをしても強くなるって決めたんだから」
リロイは茂みを抜けて川の畔に出た。川辺は山道よりもたくさん石が転がっている。リロイは片っぱしから石を拾っては、表面を見て後ろに投げ捨てる。夕日が落ちてだんだんと暗くなってきたが、もう気にならなかった。
三十個目の石を投げ捨てて、リロイは川辺に倒れた。想像以上に身体が重い。山の上から谷底まで歩いて疲れたのか、足の筋肉がぶるぶるとふるえているのがわかった。
――旅をして足腰が強くなったと思ってたのに、全然動かない。これじゃ、レオンにあきれられても仕方ないか。
川の音を聞きながら、リロイは空を見あげた。日の落ちた空は紺色に変わっている。日が沈みきっていないせいか、まだ少し明るい。星は見えない。
石の上に頭を置いてじっとしていると、気分がうつらうつらとしてくる。意識の半分を失いかけて、ここで野宿するしかないかな、と思ったときだった。「がるるるる」と獣の声が聞こえた。
「だれ!?」
リロイは急いで身体を起こす。向こうの茂みががさがさとゆれて、岩のような茶色い生物がゆっくりと歩いてくる。大きな口からは黄色い歯をのぞかせて、ぎりぎりと歯ぎしりしている。唾液がぼたぼたと落ちて、足もとの草を濡らしていた。
一歩ずつ近づいてくる、大きな熊。毛むくじゃらな前肢は、この間見かけたグリフォンより数段太い。
「げっ。……ま、まじすか」
リロイの頭から血が引いてくる。熊が大きな口を開けて突撃してきた。
「ひえぇぇ――!」
リロイはあわてて立ち上がり、なだらかな川の畔を駆ける。後ろから熊が前脚をふりあげて襲いかかってくる。巨体とは思えない、とてつもない速さで――!
「熊が出るなんて聞いてないわよ――!」
熊が両手をふり降ろす。長い爪が背中をかすり、だぼだぼしたシャツを破いた。リロイの血の気がさらに引いた。
――じょ、冗談じゃないわよ。こんなところで熊のえさになっちゃったら、修行も何もないじゃない。あんのうすらはげじじい! 責任とってよ――!
熊が奇声を発する。後ろに大きな影が差して、リロイは驚愕しながらふり返る。熊が巨体を目一杯に広げて飛びかかってきた。リロイは地面を蹴って横に飛ぶ。ごろごろと転がりながら、熊の落下をぎりぎりよけた。
横の伸びる木の幹に手をあてる。リロイは木に足の裏をつけて、幹をよじ登る。手を伸ばして木の枝をつかみ、猿のように木登りした。その真下で、熊がのっそりと起き上がった。
「ふふっ。ここまで登ったら安心ね。ほら、熊さん。あたしを食いたかったら、ここまでおいで」
リロイは熊の頭を見下ろしながら、べーっと舌を出した。熊は「うう」と不気味なうなり声をあげている。木の幹に両手をついていたが、しばらくして幹を殴り始めた。衝撃が伝わるたびに木がゆれる。
リロイは木の幹にしがみついていたが、大して時間が経たないうちに、みしみしと足もとから音がしてきた。
「あれ。ちょ、ちょっと! やめてってば。ちょ――」
熊の前肢が樵の斧のようにたたきつけられる。木は根っこから倒され、リロイも地面に落とされてしまった。リロイは「いたた」と言いながら、打ちつけた頭をさすった。
その後ろから熊がむくりと起き上がる。リロイは大量の冷や汗を背中に流しながら、おそるおそるふり返る。熊が奇声を発しながら飛びかかってきた。
「きゃあああぁ!」
リロイは瞬時にシャムシールを抜く。右手で柄をにぎりしめて、柄の頭で熊の脳天を押しつぶす。骨を砕く感触がしたと感じるのと同時に熊が倒れこんできた。もうだめだ――と思ったが、熊はぴくりとも動かない。意外にも熊は白目を剥いて気絶していた。
「あ、あぶなかった」
リロイは乗りかかる熊から這い出て、袖で汗をぬぐった。