5
リロイは、緑と茶色がまだらな麦畑にはさまれた道を歩いていた。遠くの空を見あげてみると、山の上がうっすらと明るくなっている。
リロイは立ち止まって、後ろを見わたしてみる。視線にうつるのは細長い小道と、山なりにそびえる都サンテの暗い影だけだった。
「だいじょうぶだよね。だれも追ってこないよね」
リロイは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
夜明け前の郊外は静かで、人気がまったくない。遠くから鳥のさえずりが聞こえてくるだけで、とてものんびりとしている。
そんな時間に召使いも連れずに歩いているだなんて、リロイはいまだに信じられなかった。夜明け前の暗い空を見たことだって、生まれて数えるほどしかない。
――今だったら引き返せるわ。
都から遠ざかるたびに聞こえてくる、取りやめの声。それが胸の奥にひびくたび、リロイの足はぴたりと止まる。
ブレオベリスに逆らい、今まで守ってきた習慣まで無視してまで押し通すことだったのか。それでも、足を止めるのにはやはり抵抗があった。
リロイが消沈しながら歩いていると、頭上から明るい光が差し込んできた。何かと思って見あげてみると、遠くの山が明るくなっていて、山間から太陽がのぞいていた。
「わあ、きれい……」
日の出の美しさに、リロイはうっとりする。のぼったばかりの太陽は冷たい夜空を照らして、夜と朝が混ざったような幻想的な色合いをしていた。
初めての不思議体験に、リロイの気分がだんだん高まってきた。よくよく考えてみると、郊外をひとりで歩くのも初めてで、普段ではありえない違和感がとても心地よかった。
「もしかして、今のあたしってすごい自由?」
今だったら、大きな声でひとり言を言ってもだれも非難しない。むしろ、そばにだれもいないのに妙な気を遣っている自分がおかしかった。
「もう、さっきから何うじうじしてるんだろ。もうやっちゃったんだから、後に引いたってお父様の折檻が待ってるだけだわ。行っても帰っても怒られるんだったら、行っちゃった方がいいじゃんね」
リロイはだれかに意見を求めると、返事がくる前に何度もうなずいた。リロイはブーツの踵を鳴らして、道端で妙なステップを踏んだ。
一面の麦畑を抜けると、青々と茂る森に続いていた。朝の森はひんやりとした風が流れて、梢をゆらゆらとゆらしている。
森の細い道の左右が草でおおわれている。まるで緑のじゅうたんがそこに敷かれているようで、メルヘンチックな情景が素敵だった。小さいころに母に読んでもらった、森の精霊が登場する童話の舞台はこんなイメージなのかなと、リロイは思ったりしてみた。
「あはは。旅ってもっと怖いものだと思ってたけど、全然怖くないじゃない。もう、お父様ってやっぱり心配性なのね」
遠くの枝の上で種をかじっているリスをながめながら、リロイは父の怒った顔を想像してみる。こののどかな風景の何を、父は危険視していたのだろうか。
しばらく歩くと、水のせせらぎの音が聞こえてきた。リロイは右の耳に手をあててみる。
「もしかして、近くに川があるのかな」
リロイはわくわくしながら、木々の間の横道に入ってみた。森の奥から、静かに流れる水の音が聞こえてくる。
草を踏みながら進んで、太い幹に手をあてたところで、足もとに小さな川が流れていた。リロイはしゃがんで、川に両手を入れてみると思いの他冷たく、「ひゃっ!」と口から漏れてしまった。
両手にすくわれた水はとても透き通っている。リロイがそのまま両手を口に運んでみると、水の冷たさが喉を伝った。
――こんな素敵なところが、都のそばにあったのね。
そのまましゃがんでいると、目がだんだんとしょぼしょぼしてきた。小川の静かなせせらぎと鳥のさえずりも手伝って、リロイの気持ちが少しずつまどろんでいく。
静かな森に「カン、カン」という金属音がひびきわたる。その硬質的な音でリロイは目を覚ました。
――だれかが木でも切ってるのかしら。
リロイはぼやける心で漠然と考えてみる。右手を地面について、気だるい身体をゆっくりと起こした。
リロイがしょぼしょぼする目をこする間も、木を切る音は聞こえてくる。鬱蒼と茂る森の中だから、どこかに樵でもいるのだろうか。
――というか、あたし、こんなところで何を……
「あっ、いけない! あたしったら、何のんきに寝てるんだろ」
リロイがはっとして袖の裏を見てみると、こげ茶色の袖に黒い土が付着していた。
「ああ! 土がいっぱい付いてる。新調したばかりのお気にだったのにい」
リロイは少しへこんでから、袖やお尻についた土を払った。
陽が満天にのぼったころに、リロイは小川を離れた。もうしばらくそこにいたかったが、それでは当初の目的からそれてしまう。リロイは自分に強く言い聞かせてから、泣く泣く森を抜け出た。
「思い切って家出しちゃったのはいいけど、どこに行けばいいのかしら」
またあらわれた麦畑をながめて、今になって目的地を決めていなかったことにリロイは気づく。所持品は腰に下げているスキアヴォーナだけ。地図もないのに、どこに向かえばいいのだろう。
「あ、あは、あはは! まあ、何とかなるよね! だって、そもそも剣の修行の旅なんだもん。地図なんて持ってたら、まるで観光しに行くみたいじゃない」
また自分に言い聞かせて、両腕をふって前をつき進んだ。すると、左足から突然、ぐにゃっという感触が伝わってきた。
「ぐにゃ……?」
リロイがゆっくりと視線を落とすと、どうやら青い物体を踏みつぶしているようだった。それはゼリー状の何かで、ひとつ言えるのは、土や石ではないということ。
「な、何これ」
リロイがあわてて後ずさりすると、青いゼリーはぷくっと膨らんで、山なりの形になる。地面に身体をずるずると引きずらせながら、こちらに近づいてきた。
「ちょ、ちょっと! やめてよ」
リロイは怖くなって、青いゼリーをスキアヴォーナで両断した。が、二つにちぎれたゼリーはそれぞれがぷくりと膨らんで、二体に分裂する。
リロイの背後からも、ずるずると地味で嫌な音が聞こえてくる。後ろ以外にも、左右、斜めからも音が聞こえてきて、リロイは恐る恐るあたりをふり返ってみた。
そこにあったのは、青いゼリー、ゼリー、ゼリーの海!
「きゃあ!」
リロイは絶叫しながら、スキアヴォーナで青いゼリーを切った。ゼリーはちぎれるとすぐに分裂し、逆に数が増えてしまう。リロイは必死に足場を探して後退したが、恐怖のゼリー軍団がしつこく迫ってくる。
リロイはむちゃくちゃに剣をふったが、やはりゼリーたちは分裂をくり返して、一歩も下がってくれない。
「ああん! もうやだあ。何なのよ、こいつ~」
リロイは大きな岩に背をつけて半べそをかいた。