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リロイとサムソンは何度も説得をこころみたが、レオンハルトは首をたてにふらなかった。レオンハルトからの返答は「だめだ」の一点張りで、聞く耳すら持ってくれていないようだった。
その日の夜、ふたりは狭い物置に茣蓙を敷いて寝ることになった。部屋は居間と寝室の三部屋しかない。レオンハルトに無理を言って転がりこんだリロイとサムソンが、不平を漏らせるわけもなかった。
「レオンは、うんって言ってくれないね」
ざらざらとした茣蓙に横になりながら、リロイはうす暗い天井を見あげる。ランタンの明かりが灯る室内は、橙色の光が大きくなったり小さくなったりしている。
「あの野郎、ずっと頼みこんでるのに、ちっとも聞いてくれねえんだよ。……ったく、何が剣聖だ。ただの嫌味で頑固なだけのくそじじいじゃねえかよ!」
サムソンはうつ伏せになりながら、頭の上に置かれているランタンを見つめる。ガラスのコップのようなランタンは、淡い光を放っている。どんと地面を叩くと、光が左右に大きくゆれた。
リロイは首をかたむける。サムソンの真剣な横顔が弱い光に照らされていた。
「レオンは人間嫌いなんだもんね。弟子もとらないって言ってたし、ちょっと説得したくらいじゃ、簡単にうなずいてくれないよね」
「あの野郎が何と言おうが関係ねえ。何度でも頭を下げて、強引にでも剣を教えさせてやる」
「うん。でも、そんなに気張らないで。これはあたしの問題だから、サムに土下座させるのは悪いし……」
「何言ってんだよ! お前は病み上がりなんだから、余計な気なんて遣わなくていいんだよ。お前のためだったら、おれの下らねえ頭なんて何回でも下げてやる」
「う、うん。でも……」
「あの野郎は、何があってもお前を弟子にしなきゃいけねえんだ。人間嫌いだろうが、弟子をとらない主義だろうが、そんなのおれらには関係ねえよ」
肘をつくサムソンの腕がふるえている。レオンハルトに断られたときと同じように、わなわなと。
「おれがお前を強くしてやる。あんな目には、もう絶対遭わせねえ」
悲痛につぶやくサムソンを見ているのが、これ以上なく辛かった。
また、黒い世界がやってきた。
明かりのない暗闇の中で、リロイの身体だけが鮮明に映し出されている。
「ま、またここ?」
リロイはびくびくしながらあたりを見わたす。どこからか、水滴の落ちる音が聞こえてくる。まるで松明を持たずに洞窟の奥にいるような、不安で冷たい感覚。水滴の音は、ぴと、ぴと、と一定のリズムを刻んでいた。
リロイは前を歩きながら、足に違和感を覚えた。見下ろすと、ピンクのロングスカートがひらひらとなびいている。腿のあたりを引っ張ると、茶色のドレスのつややかな感触が親指から伝ってくる。
リロイはあわてて腰もとを両手で探ってみる。着ているドレスはそのままなのに、いつも巻いていた剣帯だけはそこにはない。折れた刃は、どこに落としてしまったのだろうか。
――ああ、そうか。
リロイは漠然と思った。
――ここは、あたしの心の中なんだ。
どこまでも続く、漆黒の闇。あたりから聞こえてくる水の音。そして普段着だったドレスと、なくなってしまった剣。
リロイの心の時間は、あのときを境にぴたりと止まってしまった。
「よお、迅雷の娘」
暗がりから突然に声が聞こえた。リロイがびくっと肩をふるわせる前から、ざくざくと砂利を踏むような音がして、男が姿をあらわした。流れるような銀色の髪に、洗練された白い顔は、リロイの記憶に焼きついてはなれない。
ガンドルフは悪辣な笑みを浮かべながら、白衣のポケットから右手を出す。腰からロングソードを抜き放ち、水平にのばした白刃を光らせた。
「お前のせいでおれは正体をばらされ、しかもヤウレの人間から追われる羽目になっちまったんだぜ。この責任、どうやってとってくれるんだ?」
「責任って、そもそもあんたがうそついてたのが悪いんでしょ。あたしは、あんたの悪事を暴いただけなんだから、何も悪くないじゃない!」
叫んだ声が、少しふるえていた。
ガンドルフは舌を出して剣の刃先をぺろりと舐める。
「そうじゃあねえよ。おれは屋敷を追い出されて、また路頭に迷わなきゃいけなくなっちまったんだ。その代償をどうしてくれんだって聞いてんだよ」
「だ、だから、悪人のあんたのことなんか知らないって言ってるでしょ!」
「ほう。そうか、そうか。おれは人様を騙した悪人だから、そのおれがどうなっても、お前は知らねえっつうんだな」
ガンドルフは右手を降ろして、ゆらりと身体をよろめかせる。千鳥足のようにゆらゆらと歩きながら、リロイに接近し――
刹那、
――危ない!
一直線に伸びた凶刃がふり下ろされ、リロイは床を蹴って後退した。
「だったら、おれも関係ねえぇ! てめえの身体を魚のようにめためたにさばいて、家畜のえさにしてやらア!」
ガンドルフは顔をゆがめながら、リロイに突撃する。彼の剣さばきはむちゃくちゃだが、研ぎ澄まされたロングソードは、どこから向かってくるかわからない。リロイの背中が、冷や汗でじわりと濡れた。
リロイはロングソードを目で追いながら、両手で腰もとを触る。剣帯の巻かれていない腰からは、つやつやしたドレスの感触しか伝わってこない。
――剣……が、ない。
「おらおらア、どうしたあ、迅雷の娘え! 反撃しねえんだったら、このままぶっ殺してやンぜ!」
ロングソードがリロイの頬をかする。左の頬から痛みがこみあげて、あたたかい鮮血が顎を伝う。リロイは全身から血が抜けたような気がして、その場からあわてて逃げ出した。
後ろで糾合するガンドルフに怯えながら、リロイは冷たい静寂をひた走る。
――だめ。あいつは、もう完全にわれを失ってる。のこのこしてたら、本当に殺される……!
息が切れても足を止めようとは思わなかった。ガンドルフの奇声が聞こえなくなるまで、リロイは一目散に暗闇を走った。
どれくらい走ったのだろうか。エドワードの屋敷の広い庭をきっと三十周ぐらい走ったころに、リロイは足を止めた。膝に手をつくと、ぜえぜえと荒い呼吸がしばらく止まらなかった。
困憊するリロイの前方から、ヒールの足音が聞こえてきた。
「大して体力もないのに、よくここまで走ってこれたねえ。無理して走ったって、意味ないっていうのにねえ」
膝がくずれて、リロイは尻もちをつく。胸もとをはだけさせる黒いドレスを着た女が、傲然とリロイを見下ろしていた。
リロイの身体がまたぷるぷるとふるえ出す。
「ど、どうして、あなたたちはあたしを追ってくるの……?」
「どうして……? あら、嫌だあ。夢魔が人間を苦しめるのに、理由なんてあるわけないじゃない」
「あたしが、な、何をしたって言うの? あたし、悪いことなんて、何もしてない……!」
「そんなことないわよ。楽園から禁断の果実を手にした人間たちは、生まれながらにして業を背負う生き物なのよ。あなただって、例外じゃないでしょう?」
夢魔はあざ笑いながら、両手をふり上げる。くるくると回した刃を止めて、刃先をリロイの双眸に向ける。
ものすごい速さでハンガーが落ちる。大きく開いた瞳孔に、鋭く尖った切っ先が迫り来る――
意識が突然に戻り、リロイは飛び跳ねるように身体を起こした。あたりを見わたすと、うす暗い物置のとなりに、サムソンが寝息をたてている。外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
リロイは荒ぶる吐息を整えて、額に手をあててみる。小さな左手は、エイセル湖の湖面を触ったように濡れていた。
起きたばかりなのに、鼓動が激しく脈打っている。身体は汗で濡れ、ぐっしょりと水分を帯びたシャツが張りついて気持ちが悪い。
――このままじゃ、あたし……
肩で息をしながら、リロイは両手で頭を抱えた。