45
暗黒の世界が一面に広がっている。
そこは洞窟の奥より暗く、宇宙よりも深い。
光が差しこまない奈落の底で、リロイはひとりたたずんでいる。普段のドレス姿で、腰の剣帯だけ巻いていない状態で、リロイは茫然と立ち尽くしている。
なぜ、そこにいるのかわからない。目が覚めたとき、リロイはそこにいた。
「あたし、どうしてこんなところにいるの?」
細い声が虚空にひびきわたる。風も流れない虚無の空間で、リロイの声だけが静寂の彼方にこだまする。
「ここは、どこなの?」
「ねえ」
「ねえってば」
リロイは歩きながら、左右に問いかける。だが、見覚えのない世界は冷たく、何も返事してくれない。夜よりも深い静けさが、リロイの不安をかき立てる。
おどおどしながら歩く後ろで、ぴた、と水気を含む足音が聞こえた。リロイはあわててふり返るが、視線の先はまっ暗で、何がいるのかわからない。だが、水気を含んだ足音は、ぴたり、ぴたりと大きくなってくる。
――逃げなきゃ。
リロイは心臓が止まるような恐怖を感じて、急いで走った。ずぶ濡れた追跡者もリロイの気配を察して、歩を速めてくる。ぴたぴた、ぴたぴたと、ぬめり気のある裸足の足音はしだいに間隔を狭めて、数を増やしてくる。
――やめて! お願いだから、助けて……!
リロイは息が切れるまで走りながら、両手で耳をふさぐ。だが、しだいに大きくなる足音は、ふさいだ耳の内側に溶けこんで、中へ中へと入ってくる。耳が痛くなるほどふさいでも、ぴたぴたと喚く足音は恐ろしいほど鮮明に聞こえてくる。
周囲の暗闇に、何かが這いずり回っている。それは右にひとつ、左にふたつと増えて、怖がるリロイを執拗にとり囲む。新たなる仲間にむらがるゾンビたちのように。
「や、やめて――!」
リロイは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。もう、がくがくとふるえる足は力が抜けて、立つことができない。敵の姿形はわからなくても、両手で顔を覆わずにはいられない。胸のまん中が壊れそうなくらいにふるえて、平常心を保つことなどできなかった。
――ああ、あたしはここで死ぬんだ。
濡れた手でべたべたと触られながら、リロイは生まれて初めて覚悟した。これまで剣を携えて、一度も感じたことがなかった恐怖と、暗澹たる死の衝動がリロイを支配している。その圧倒的な感覚は、どのような言葉でも表現することができない。
身体中から力が抜けて、リロイは水をいっぱい含んだ紙切れのようにふやけてしまった。
その、ふにゃふにゃになってしまった右腕を、だれかが強くつかんだ。
「えっ――」
涙をいっぱいにためたリロイは、相手になされるがままに引っ張られる。手首をにぎりしめる手は渇いていて、生気のある人の手だとすぐにわかった。
――あたしを、助けてくれるの……?
そう思った瞬間、手をいきなり離されてリロイは地面に倒れた。顔と胸を強く打ちつけて、扉を乱暴に閉めたような感触が全身に伝った。
手をついて起き上がろうとするリロイの視界に飛びこんだのは、うす汚れた革のブーツ。こげ茶色のブーツは雨に打たれたのか、びちょびちょに濡れている。踏みしめるたびに水たまりから水が飛び散る光景は、ここではないどこかで何度も見たことがある。
「おい、ぺちゃぱい女。もう終わりかよ。あア?」
相手を無駄に威嚇する声に、リロイの身体がまたぶるぶるとふるえ始める。上から見下す男は、「ひゃっひゃっひゃ」と気持ち悪い声で笑っている。いつもなら声を張り上げるはずなのに、リロイの口から言葉が出てこない。
「や、やめて。殺さないで――」
リロイは地面にお尻をつけて、這うように後ずさりする。暗闇の中央で嘲るモヒカン男は、のっそりと両手をかかげて、鉄柱のような両手剣を光らせる。ぽろぽろと泣くリロイにゆっくりと近づいて、顔を狂気にゆがませる。
「早く逃げねえと、まっぷたつになっちゃうぞお。ほらほらア、逃げろ。早く逃げろ、ぺちゃぱい女ア――!」
両腕が下降し、両手剣がふり下ろされる。妖しくきらめく処刑刀が視界いっぱいに迫り、リロイの両目の間が分断される――
「きゃあああぁぁあアア!」
心臓が止まるような恐怖とともに、リロイはあわてて飛び起きた。目に飛びこんできたのは、緑色の浅黒い布切れと白の手ぬぐい。布切れはリロイの腰から足もとまでを覆い、その上に折りたたまれた手ぬぐいが転がっている。
リロイの両手は、布のようなタオルケットをしっかりとにぎりしめている。手は少し汗ばんでいて、にぎった先も少し湿っているような気がする。
――黒い世界じゃない。
荒ぶる呼吸を落ち着かせながら、リロイは額に手をあてる。額はぐっしょりと濡れている。全力疾走した後のように。
リロイは顔をあげて、あたりを見わたしてみた。物置のような小部屋には、箒や立てかけのテーブルといっしょに、鞘に納められた曲刀が壁に立てられている。木製丸出しの部屋の壁は、ところどころに亀裂が走っていた。
「ここ、どこ?」
ヘベス村で寝泊りした家に負けないほどのあばら家。そのまん中で、リロイは茣蓙の上で起き上がっている。茫然としていると耳に雨の音が聞こえて、リロイはそっとふり返る。壁の地面と接地する部分に穴が空いていて、小さな水たまりができていた。
「ロイ! 起きたのか!?」
わきの扉が押し開けられて、サムソンが入りこんできた。亜麻色の肌着姿のサムソンは、きょとんとするリロイの前で「よかったあ」と脱力する。杖と白いローブを着ていない姿は、その辺にいる悪がきにしか見えない。
――ん、肌着姿……?)
リロイは違和感を覚えながら、視線をゆっくりと落とす。タオルケットがかかっていない胸には、白い下着が巻かれている。首筋と肩、それに腹までがまんまと露出されて、白い肌をむき出しにしていた。
それはだれがどう見ても、丸裸同然の姿だった。
「きゃああぁぁぁぁ!」
本日二度目の絶叫に、サムソンがびくっと後ずさりする。両手を出して、首をぶんぶんと横にふる。
「ま、待て! ロイ。これには深~いわけがあってだ……あ痛て!」
「人が寝てる間に何してんのよ! あんたなんか最低よ! いいからあっち行っててよ!」
「だから、誤解だっての……あ、痛っ、研ぎ石なんて投げんなって! ここ、人ん家だから、あたあ!」
リロイは胸を隠しながら、あたりに転がる石や塵とりを投げ飛ばす。サムソンはそれらを頭にぶつけながら必死に叫ぶ。堪えきれなくなって、扉の向こうに引っこんだ。
「おいおい。なあに、どたばたやってんだあ……?」
やる気のない遅口の声とともに、扉の向こうから別の男が入ってきた。わしわしと掻く頭のてっぺんは、脂っこい肌が露出している。円形にはげ上がった頭が、てかてかと光っていた。
中年のはげ男は、床に転がる石やごみを見下ろす。散らかった様子に「はあ」とため息を漏らした。
「やっと起きたと思ったら、ずいぶんなことをしてくれちゃってるなー。……おい、坊主。ここ、ちゃんと片しとけよ」
「ちぇ、わかったよ」
はげ男は床を差しながら、壁の向こうに愚痴をこぼす。サムソンははげ男のとなりにやってきて、「やれやれ」と肩を落とした。
リロイは布切れにくるまりながら、目をぱちくりさせる。
「あんた、だれ?」
「あ? だれって、ここの家主だろうが」
「う、うん。それは何となくわかるんだけど、そうじゃなくて、あなたはだれなの?」
リロイが赤い顔をかたむけると、はげ男はまた頭を掻いて、「面倒くせえなあ」とぼやいた。サムソンがふたりの間に入って、はげ男にぺこぺこと頭を下げる。
「すまねえ、おっさん。こいつはまだ起きたばっかりだから、何の説明もしてないんだ。気を悪くしないでくれ」
「おいおいまじかよ。下らねえ痴話げんかなんかする前に、ちゃんと説明しとけよなー」
はげ男はのっそりと歩いてきて、リロイの前で腰を降ろす。「よっこらせっと」とあぐらをかいて、リロイの目をまじまじと見つめた。
「おれを探してたんだろ」
「探してた……?」
男の細い目を見つめながら、リロイはきょとんとする。男の額には太い皺が一本。目の上には太い眉が左右に伸びている。見た目の印象は、父ブレオベリスやバルバロッサと同じくらいの歳相応の男性。両腕は細く、あまり強そうな印象ではない。
降りしきる雨の中。山の中に建っているであろう粗末なあばら家。そして、目の前にいる中年のはげ男――
男は手をついて立ち上がり、はげ頭をぴかりと光らせた。
「おれはレオンハルトだ。剣聖レオンハルトだ」