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「……イさん、起き……リロ……ん……」
右肩をゆすられて、消えかけていた意識が少しずつ戻ってくる。
「……ロイさん。リロイさん! しっかりして。リロイさん!」
しつこくゆすられながら、耳もとから大きな声で呼ばれる。張りつめている様子から、針のような緊迫感が突き刺さる。
――あ、あたしってば、またうたた寝してたの……?
ぼうっとする意識の中で、リロイは重たい瞼を少し開いた。
「ああ! お、お前。リロイさんが目を覚ましたぞ!」
緊迫していた声は一変して、子供のように喜びはじめる。リロイはゆっくりと寝返りを打って、騒がしい部屋を見あげた。視線の先には、不安と喜びをのぞかせるエドワードとドロシーが、リロイを見守っていた。
「……あれ。エドワード、さん?」
「気がついたかい? ああ、よかった」
「どうしてエドワードさんがここに――」
リロイは気だるい身体を起こそうとするが、右手に力が入らない。手は床をすべり、頭を床に勢いよくぶつけて「あ痛たア!」と叫んだ。
起き上がれないリロイの身体を、メイドのドロシーが支えてくれた。ベッドのわきでは、パトリシアに支えられたサムソンが頭の上にひよこを回していた。
パジャマ姿のエドワードは頬をゆるませながら、金色の太い眉を少しひそめた。
「声がしないと思ったら、ふたりとも寝室で倒れていたから驚きましたよ。ドロシーが気づいてから、かれこれ六時間以上も目を覚まさないものだから、何かあったのかと思ってしまいましたよ」
「えっ。ろ、六時間も……?」
エドワードの言葉にリロイは愕然とする。客人の身でのんきに寝てしまったことも気になるが、自力で起こせないほどに昏睡しているのが不思議でならなかった。
――えっと、今まで何してたんだっけ。落ち着け~。落ち着いて考えろ、あたし。
額に手をついて、リロイは回らない頭を必死に動かす。
目をつぶった先の暗闇にうつるのは、斑模様の大きな蜘蛛。うすら笑う彼女が消えたかと思うと、扉だらけの白い空間が広がり、リロイはぞっとする。虚無の空間の中央に立つのは、両手にハンガーをぶら下げる夢魔の存在。
そして――
「そ、そうだ! カーシャちゃんだ!」
「リロイさん! だめです。動いちゃ」
あたふたするドロシーの手をリロイはふり払う。だるい身体に鞭を打ってリロイはそっと立ち上がった。ベッドを見下ろすと、カーシャがいつものように横になっている。
その可愛らしい両目がぴくぴくと動いていた。
「カ、カーシャ!」
エドワードは血相を変えてリロイを押しのける。強く抱きかかえられたカーシャが、ゆっくりと目を開けた。
「パ、パパ……?」
「ああ、カーシャ。パパがわかるのか。苦しくはないか? だいじょうぶか」
「う、うん。……パパの力が強くて、ちょっと、苦しいかも」
エドワードの締めつけにカーシャは「ぐえぇ」と言い出しそうな顔をしていたが、床にまた頭を打って倒れているリロイを見て、目を見開いた。
「あ! さっき夢に出てきたお姉ちゃんだ」
そのひと言で、一同がリロイにふり返る。リロイは後頭部をおさえながら、涙目でカーシャに微笑んだ。
「お帰り、カーシャちゃん。身体の具合はどう?」
「うん。お姉ちゃんが助けてくれたから、もう全然平気」
カーシャは膝に手を置いて、にこっと控えめに笑った。ふたりの間で、エドワードは首をきょろきょろさせる。
「カーシャ。夢に出てきたって、どういうことなんだ? リロイさんと何かあったのか」
「うん。……お姉ちゃんがね、あたしの夢の中に入ってきて、夢魔をやっつけてくれたの」
「む、夢魔、をやっつけた……?」
エドワードは頭にたくさんの疑問符を浮かべる。パトリシアとドロシーもきょとんとして、カーシャの暗号のような言葉に辟易していた。
――えっと、どうやって説明しよう……
リロイはのっそりと起き上がり、頭をぼりぼりと掻く。乱雑な思考を整理して、困惑するエドワードをまじまじと見つめた。
「あの、エドワードさん。率直に言います。カーシャちゃんがうなされていたのは、持病の肺炎のせいじゃなかったんです」
「は、はあ。じゃあ、カーシャが言う夢魔っていうのは……?」
眉尻を下げるエドワードに、リロイは「えっと」と口から漏らしながら室内をきょろきょろする。一同の視線をひしひしと感じながら、夢魔と交わした会話を必死に思い出す。
――あたしたちをここに連れこんだのは、あなたなの?
――お前たち、悪夢の薬って知ってる?
はっとして、リロイは部屋中央のテーブルを見つめる。銀色のトレイの上に、茶色の小瓶がふたつ置かれている。
リロイは小瓶を指でつまんで、カーシャに見せつけた。
「カーシャちゃん。これ、知ってる?」
「うん。見たことある」
「これ、だれかに飲まされたことない?」
「……うん。薬だって言われて、先生に飲まされた」
力なくうなずくカーシャに、リロイは「よし」と左手を固くにぎりしめた。
「エドワードさん。この薬は『悪夢の薬』という劇薬なんです」
「あ、悪夢の薬……?」
「はい。この薬を飲むと夢魔にとりつかれて、自分の夢から抜け出せなくなってしまうんです」
「自分の夢から……? じゃ、じゃあ、カーシャはその薬のせいで夢魔にとりつかれていたと言うのかい?」
「はい」
首をたてにふるリロイに、エドワードは「そんなばかな」と口を手で覆う。その袖をカーシャが引っ張った。
「お姉ちゃんの言ってることは本当だよ。……あたし、夢の中で蜘蛛の悪魔に何度も襲われて、すごい辛かったの」
「そうなのか? カーシャ」
「……うん。その、薬のこととかはよくわからないけど、夢に出てきた悪魔は『あたいは夢魔だ』って何度も言ってたし、お姉ちゃんが言ってる通りだと思う」
うつむく愛娘にエドワードは言葉をなくす。リロイが「あの」と続けると、エドワードはあわててふり返った。
「その、ちょっと信じがたい話だと思いますけど、今は信じてくださいとしか言えません。あたしも、その、薬の知識なんてありませんし、今すぐこの薬の効果や成分を調べることもできません。ただ、カーシャちゃんが夢魔に襲われていたのは本当です」
口裏を合わせるリロイとカーシャにエドワードは「うーん」と腕を組んでいたが、やがて何度かうなずいた。
「わかった。今はその言葉を信じよう。現にカーシャの具合はうそのように良くなっているし、薬のことも後で調べればわかることだ」
「はい。あたしの乱暴な説明を信じてくれて、ありがとうございます」
「いやいや、感謝したいのはこちらの方だ。身体を張ってカーシャを助けていただいて、私の胸は感動でいっぱいです。……リロイさん。本当に、ありがとうございました」
エドワードは踵を合わせて、深々と頭を下げる。パトリシアとドロシーからもお礼を言われて、リロイは顔をまっ赤にしながら「いえいえ、それほどでもあるけど」とかぶりをふった。
エドワードはゆっくりと頭をあげると、表情を険しくした。
「リロイさん。もうひとつ訊ねたいことがあるんだが、いいかね?」
「はい。……お訊ねしたいのは、これの持ち主ですよね」
リロイはトレイの上に戻した薬を持って、エドワードにまた見せつけた。エドワードがこくりとうなずく。
「私のカーシャを苦しめていた犯人は――」
「あたしたちの異変を察して、きっと向こうからやってくるわ」
リロイも眉間に皺を寄せて、後ろの扉をにらんだ。
「迅雷の小娘が目を覚ましただと!? そんなばかな!」
壁の向こうからどたどたと足音がひびいて、寝室の扉が押し開けられる。あわてて入室してきた男は、リロイとエドワードの視線に気づいて凍りつく。
リロイはメイドのドロシーに支えられながら、一歩を踏みしめた。
「レスターさん。こんな真夜中にどうされたんですか。随分あわてていらっしゃるみたいですけど」
「えっ……? あ、い、いや、別にあわててなんか、いませんが……。みなさんこそ夜半に集まって、何かあったんですか」
白衣の男レスターは平静を装いながら、リロイの視線を逸らす。後ろのベッドで身体を起こしているカーシャを見つけて、レスターは目を輝かせた。
「ああ! カーシャさん。具合がよくなったんですか。そうか、それでみなさんは集まっていらしたんですね。……どれどれ。ちょっと容態を確認しましょうか」
額に汗しながら近づくレスターに、カーシャがびくっと反応する。エドワードの腰に抱きついて、身体を小刻みにふるわせた。
「い、いや。……来ないで」
「やや。カーシャさん。そんなに怖がらないでくださいよ。ちょっと診るだけなんですから――」
白々しい言葉を続けるレスターの後ろで、ばん、とリロイがテーブルを叩いた。がく然とふり返るレスターに、悪魔の薬をちらつかせた。
「白を切ろうったって、そうはいかないわよ。あんたでしょ。この薬を飲ませてカーシャちゃんを苦しめてたのは」
「カーシャさんを苦しめた……? 君は何を言ってるんだ。大体、その薬は何なんです? 素人が勝手に薬を持ち出しちゃ――」
「この薬が栄養剤だって言ってあたしたちに飲ませたのは、あんたでしょーが。みんなの前で堂々としらばっくれないでよ」
「はあ? 君、いい加減にしてくれないか。では聞くが、それを私が飲ませたっていう証拠があるのかね? 一方的に因縁をつけるのは勘弁してほしいんだが」
部屋のまん中でため息を洩らすレスターを、一同が四方からにらみつける。リロイはドロシーから離れて、レスターの正面に向かう。うろたえる彼を、真っ直ぐにびしっと指差した。
「あんたがどうしてこれをカーシャちゃんに飲ませたのか知らないけど、残念だったわね。……あたしとサムにも飲ませて、カーシャちゃんを治させまいとしたんでしょうけど、まんまと裏目に出ちゃったわね」
「だから! 証拠もないのに一方的に因縁をつけるなって言ってるだろうがっ! 治させまいとか、一体何の――」
「証拠だったらここにあるじゃない。証人もこんなにたくさんね」
薬を指先でふるリロイに、レスターが「ぐぬぬ」と拳をふるわせる。じっと様子をうかがっていたエドワードはカーシャの手を離して、リロイのとなりに近づく。目を細めて、うろたえるレスターを見すえた。
「レスター先生。正直に全てを話してください。薬のことは調べればすぐにわかりますし、先生に飲まされたと言っている者が三人もいるんだから、言い逃れはもうできませんよ」
「く、くそ……!」
エドワードの冷静な言葉に、レスターはぎりぎりと歯ぎしりする。踵を返して、部屋を飛び出す。リロイもあわてて走り出した。
「あ! ま、待て――」
「放っておきなさい。彼の顔と名前は割れているんだから、伝えれば役人に突き出せます」
エドワードはあわてるリロイの肩をつかんで、淡々と言葉を続ける。思いのほか強い力でつかまれて、リロイは固唾を呑んだ。
「それに、君たちは薬の影響で疲れているんだろう? 今日はもう遅いから、うちでゆっくりと休んでいきなさい」
「はい」
身体を硬直させるリロイに、エドワードはにこりと微笑んだ。