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何歩か先の白い床に、夢魔の細い腕とハンガーが落ちた。何が起きたのかわからないのか、夢魔はしばらく身体を硬直させていた。
後退するリロイを見届けてから、夢魔は感覚のない左腕を見つめる。なくなった肘の先から、ぽとりと悪血が落ちていた。
「ぎゃああぁぁアア!」
壮絶な悲鳴が空間にこだまする。リロイとサムソンは思わず身体をふるわせた。
夢魔は左腕をおさえながら、ぎりぎりと歯ぎしりする。両目を狐のように吊り上げて、リロイとサムソンを鋭くにらみつけた。
「てめえらア! 弱っちい雑魚どもがあ、調子こいてんじゃねえぞウ……!」
夢魔の怒気をびりびりと感じながら、リロイは一歩を踏みしめる。
「うるさい! だいたい、あんたが先に手え出してきたんでしょーがっ! 自業自得よ」
「ああん!?」
夢魔の威嚇を無視して、リロイはスキアヴォーナの切っ先を向けた。
「カーシャちゃんはね。あんたにそうやって斬り刻まれて、死ぬほど痛い思いを何度も味わってきたのよ。……どう。腕を斬り落とされた感想は。こんなのが、本当に楽しいわけ!?」
「うるせえ!」
夢魔はハンガーを投げ捨てる。激しく憤慨する夢魔の身体から、どす黒いオーラが立ちこめ始める。
夢魔はうつ伏して、右手で床を叩いた。白い空間が向こう側からばらばらに砕けて、ガラスの破片のようにくずれ落ちていく。
「な、何っ!?」
「落ちるぞ!」
リロイとサムソンは絶叫しながら横転する。黒い床に変わった足もとに尻もちをついて、ふたりはわけがわからずに首をきょろきょろさせた。
白い世界は一変して、洞窟の中よりも暗い暗黒の世界に替わっていた。明かりが一切ないのに、自分たちの姿をはっきりと視認できる、不思議な空間。まるで、天文学の教科書に出てくる宇宙のような、神秘的な世界だった。
夢魔の足もとから白い線が伸びてくる。放射線状に伸びるそれは八方に広がり、リロイたちの足を絡めとる。線をくまなく分断するように角々しい円が形成されて、魔法円のような模様ができあがる。
その模様は、蜘蛛の巣にとても似ていた。
「お前たち、もうゆるさないよ」
前かがみに倒れる夢魔の腹と尻が、ぷくりとふくれあがる。魅惑のドレスをびりびりと破り、黒くごつごつした肌を露出させる。
――こいつの正体って、もしかして……
言葉をなくすリロイの前で、夢魔はわきの下や腰から細長い足を伸ばし始める。長い髪は頭皮に全ておさまり、豊満な胸も空気が抜けたようにしぼんでいった。
身体の三倍もふくれあがった腹に、赤や黄の斑模様を浮かび上がらせる。夢魔は腹の二倍以上の長い足でゆっくりとふり返り、黒い目を光らせた。
「あたいの本当の姿を見たからには、生かしておかないよ」
巨大な蜘蛛となった夢魔は、七本の足を動かしながら迫ってくる。リロイとサムソンは突進をかわそうと身体を起こしたが、白い糸がドレスの裾にくっついて離れない。
――何これ! とりもちみたいにくっついてくる……!
困惑するリロイの目の前に、夢魔が大きな口を開けて迫ってくる――!
「くっ……!」
夢魔の鋭い歯があたる寸前で、リロイは横に飛んでかわした。ドレスがびりびりと破れて、長い裾から白い足をのぞかせる。
夢魔は足をせかせかと動かし、リロイに向き直る。
「あたいの腕を斬ったお前。……そう、お前だ。絶対に逃がしゃしないよ」
夢魔は大きな口を開閉させながら、また突進を始めた。リロイは巣の上をばたばたと走りながら、反撃の方法を考える。
――あんなに大きいんじゃ、正面から受け止められないわ。後ろにまわりこむしかないけど、あんなに速いのに、しかもこの足場じゃ……
網のように張りめぐらされた糸は、靴の裏にべたべたと張りついてくる。夢魔に追いつかれそうになるも、サムソンが放つ炎に助けられて、リロイは命からがら逃げ延びる。
「ぃよし! こうなったら」
リロイは膝の下まで破れているスカートの裾を破り、膝の上までめくり上げる。左の腿のあたりで結びつけて、スカートの丈を短くした。
「ロ、ロイ! スカートなんて破っちまっていいのかよ。大事なもんが見えちまうぞ」
「だいじょうぶよ。だって、ここは夢の中なんでしょ」
夢魔を挟んだ向こうで、サムソンがあたふたしている。リロイは腰の剣帯を投げ捨てて、スキアヴォーナを中段にかまえた。
夢魔は口から黄土色の液を垂らしながら、前肢を気持ち悪く動かす。
「動きやすくしたって無駄だよ。足が遅いお前じゃ、あたいから逃げ切れやしないからね」
あざ笑いながら、夢魔がまた突撃する。リロイは足の裏に違和感を覚えるが、横に飛んで突撃をかわす。
「そこ!」
リロイはスキアヴォーナを引き、勢いよく斬り払う。美しい剣閃が水平に流れ、夢魔の一本の足が宙に飛んだ。
「ぎゃああぁぁ! ……てめえ」
悔しがりながら、夢魔がくるりとまわる。リロイに向けた尻の先から、蜘蛛の糸を吐き出した。
「――! し、しまっ!」
滝のように吐き出される糸がスキアヴォーナにからみつく。リロイは目一杯に手を引くが、丈夫な糸は少し伸びるだけでとてもちぎれそうにない。
夢魔がゆっくりと向き直る。鋭い歯の先から涎がぽとりと落ちた。
「あっはっはっは。ついに捕まったね。あたいの糸は丈夫だからね。お前のひ弱な腕の力じゃ絶対にちぎれないよ」
悪辣な声を発しながら、夢魔が歯を何度も交差させる。その奥の口はまっ暗で、どうなっているのか得体が知れない。
――あの口に飲み込まれたら……? 固唾を呑んだ、そのとき、
「ヘルファイア!」
右から炎の柱が突き抜けて、蜘蛛の糸を燃え上がらせる。糸は『じゅう』と言いながら、炎の熱に解けていく。解けた端から踊りながら縮んでいき、リロイと夢魔をつなぐ一本はすぐにちぎれた。
「力でだめなら、炎で焼いてみろってな」
「て、てめえ!」
得意満面ににやりとするサムソンに、夢魔が地団駄を踏む。夢魔が身体の向きを変えて、サムソンに標的をあわせたが――
「あんたの相手はあたしよ」
リロイは後ろにまわり、スキアヴォーナを斬りあげる。ぶしゅっと夢魔の腹を斬り裂いて、青紫色の血が黒い床に流れた。
リロイとサムソンは夢魔を前後にとり囲み、少しずつ勢いを盛り返していく。夢魔の表情からは余裕が消えて、焦燥と苛立ちが目に見えるようになってきた。
手荒くなる夢魔の攻撃をかわしながら、リロイとサムソンは反撃を強めていく。
「ファイアストーム!」
叫びながら、サムソンは描いた魔法円の中央を押しつぶす。その瞬間、あたり一面から巨大な炎の柱が立ち上り、黒い床と蜘蛛の巣が焦土に変わる。
「このくそガキがアア……!」
夢魔は目を血走らせてサムソンに体当たりする。呪文をとなえすぎたサムソンは、立ち上がった身体をふらりとよろめかせる。
激突する寸前、リロイが助走をつけて跳躍――横から夢魔の腹を蹴り飛ばした。
「あんたの相手はあたしだって言ったでしょ!」
「こ、この……!」
夢魔は尻を向け、リロイにたくさんの糸を吐き出す。リロイはスキアヴォーナを持ち直し、
「はっ!」
また高く跳躍、放出される糸を飛び越えて、夢魔の腹の上に着地した。
リロイはスキアヴォーナを高くかかげて、夢魔の腹に突き刺す。刃は腹の奥深くまで入りこみ、神経や血管をぶちぶちと引きちぎる。
「どゅぅるうぅああアアア!」
絶叫する夢魔の身体が、少しずつしぼんでいく。リロイはスキアヴォーナを抜いて退避――杖をつくサムソンのとなりに降り立った。
夢魔の身体はぱらぱらとくずれ、黒い灰が舞い上がる。それは風に舞う砂塵のように上空を踊り、終わりのない暗闇に消えていく。
床に倒れる夢魔の腹や足はぼろぼろにくずれて、全て灰と化していく。強大な夢魔の身体はひとつとして残ることなく、カーシャの夢から消え去った。
――ああ、とリロイは感慨にふける。スキアヴォーナによって命を奪った瞬間。苦戦を強いられていたときにはわからなかった、剣をふるうという行為。勝利したのに素直に喜べないこの気持ちは何なのだろうと、リロイは思う。
――そうか。これが『死』なんだ。
「お、おれたち、勝ったんだよ……な」
精根尽きたサムソンが床に倒れる。リロイの身体からも緊張が途切れて、手からスキアヴォーナが落ちた。
突然の安堵感がリロイをつつむ。支えを失った膝がくずれて、リロイはばたりと床に倒れた。