39
暗闇から意識が戻って、リロイはゆっくりと目を開いた。
――いけない。あたしったら、いつの間に寝ちゃったんだろ。
白い床に寝そべっていることに気づいて、リロイは床に手の平をつける。上からだれかが乗っかっているのか、身体がとても重い。リロイは腕に力をこめて、気だるい身体を起こした。
床にお尻をつけて、リロイは茫然と部屋を見わたす。天蓋がついたベッドのとなりで、サムソンが横に倒れている。リロイはサムソンの肩をゆすった。
「ねえ、サム。起きて」
「う……うーん」
サムソンがゆっくりと瞼を開ける。ごろんと寝返りを打って、サムソンは首だけを起こした。
「あ、あれ。……ロイ、お前、こんなとこで何してンだ?」
「ちょ、ちょっと! 寝ぼけないでよ。カーシャちゃんを看病してたんでしょ」
「あ! そうだっ――」
目を見開いた瞬間、サムソンは後頭部を床にぶつけた。ごっ、と鈍い音がして、サムソンが後頭部をおさえた。
「んもう。何してんのよ」
「い、いったあ。……あ、すまねえ」
リロイはサムソンの背中に手をまわして、身体を起こした。サムソンは「やれやれ」とぼやきながら、膝に手をついて立ち上がった。差し伸べられたサムソンの手をつかんで、リロイもゆっくりと立ち上がった。
――あれ。部屋の中ってこんな感じだったっけ?
違和感に気づいて、リロイは室内をまた見わたす。なぜかわからないが、室内を流れる空気がさっきと違う。少し肌寒かった空気に、もわっと湿り気がまざっている。
窓際に置かれた大きなベッドに、部屋中央にある丸いテーブル。右の隅には木製の机が置かれて、椅子が少し後ろに引かれている。別段に変わらない、カーシャの寝室の風景。
「ロイ! た、た、た大変だ!」
強引に肩をつかまれて、リロイはサムソンに向き直る。ベッドを見ているサムソンの視線の先、そこにいるはずのカーシャの姿が――
「いない!? カーシャちゃんがいないわ!」
「ど、ど、どうなってんだ!?」
サムソンは空になった掛け布団を持ち上げて、がばっとめくりあげる。ぐっしょりと濡れているはずのシーツは、からからに乾き切っていた。
「どういうことなの? 重病で身体も起こせなかったカーシャちゃんが……」
「と、とにかく、エドワードさんを呼ぼう」
サムソンはばたばたと走って、後ろの扉を開ける。リロイもあわてて、まっ暗な戸口に飛びこ――
「きゃ、きゃあああぁぁああ!」
扉の向こうにあるはずの廊下がない。替わりにあるのはまっ暗な空間。ものすごい速さで落下しながら、リロイはめくれあがるスカートをおさえた。
奈落の底にお尻を打ちつけて、リロイは「いったあ」と声を漏らした。
――だいぶ落ちてきたけど、お尻の痛みだけでよく済んだな~
リロイはお尻をさすりながら天井を見上げる。黒い霧のような空気に、藍色や殷紅色が混ざっている。幻想画家が描くような、神秘的でいて少し気味の悪い絵画のような色だった。
「ロイ。どこにいるんだ?」
サムソンの声が聞こえたと思うと、幻想的な空間がぐにゃっとゆがみ始める。視界のまん中から白い光があふれて、リロイは右腕で顔を隠した。
――えっ。
右手を降ろして、リロイは唖然と言葉を失った。気味悪い暗闇が、青々と茂る草原に変わっている。視線のはるか向こうの地平線が、青い空と緑を水平に分断している。あたりからも鳥のさえずりが聞こえてくる。
「ここは一体どこなんだ……?」
サムソンが後ろから歩いてきて、遠くの地平線を茫然と見つめる。サムソンの無事がわかって、リロイはひとまず安堵した。
「わからないわ。あたしたち、どこに迷いこんじゃったのかしら」
「おれたちは、さっきまで屋敷の寝室にいたんだぜ。どうしてこんなところに……ていうか、この牧場みたいな場所はどこなんだよ」
サムソンの言葉にリロイは閉口する。サムソンのとなりに立ち上がって、無限に広がる草原を見わたす。右側に視線を向けると、遠い向こうでうす紫色のパジャマを着ている人影が見あたった。
リロイとサムソンは人影に向かって走り出す。近づいていくと、パジャマを着た女の子が小さな顔を上げた。
「お姉ちゃんはだれ?」
「あ、あたしはリロイ――って、カ、カ、カ、カーシャちゃん?」
可愛らしく首をかしげるその顔は、さきほどまでベッドで苦しんでいたカーシャだった。目の前にいるカーシャは、汗ひとつ流していない。
「知らないお姉ちゃんが、どうしてあたしを知ってるの?」
「どうしてって、あたしたちはこの間からカーシャちゃんを看病してるのよ。知らない?」
「ううん、知らない」
素直なひと言に、リロイとサムソンががっくりとうなだれた。リロイは気をとり直して、カーシャの小さな肩をつかんだ。
「カ、カーシャちゃん。ここはどこなの? わかる?」
「う、うん」
カーシャは眉尻を下げてうつむく。
「ここは……あたしの夢なの」
「ゆ、夢?」
「うん」
カーシャの悲痛な面持ちを見下ろして、リロイはしばらく考える。
「夢って、将来に持つ夢じゃなくて、夜に目をつむったときに見る夢のこと……?」
「うん」
「それじゃ、ここはカーシャちゃんが見てる夢の中なの?」
「……うん」
リロイは後ろのサムソンと顔を見合わせて絶句する。カーシャの言葉は信じがたいが、現状を妙に納得させる呪文のようなひびきがあった。
カーシャが人形のような可愛い顔で見上げた。
「お姉ちゃんが、どうしてあたしの夢の中にいるの?」
「う、うーん。どうしてなんだろうね」
「早く逃げないと、あいつがやってきちゃうよ」
「あいつ……?」
リロイが眉根を寄せると、あたりの草原と空がぐにゃっとゆがみ始めた。ドレスにしがみつくカーシャを引き寄せて、リロイは腰を落としてみがまえた。
リロイたちのまわりには、白い空間が広がっていた。学校の教室が三つか四つ入りそうなだだっ広い空間に、白い床。遠くの壁もまっ白で、四角い扉がたくさんならんでいる。
左の壁も、右の壁にも黒い扉がたくさんついている。リロイを怖がらせるには充分すぎるほどの、異様な景色。天井のない純白の空には、大小さまざまな時計が浮かび上がっている。こちこちと秒針をまわすものがあれば、ぴくりとも動かない時計もあった。
「おや、今日は変なのが混ざってるねえ」
艶めかしい声が聞こえて、リロイとサムソンは後ろをふり返る。こつ、こつっと音を立てながら、黒のドレスを着た女性がゆっくりと歩いてくる。黒く長い髪を伸ばす女性の胸もとはぱっくりと割れていて、豊満な胸が左右にゆれていた。
リロイは固唾を呑んだ。
「あ、あなたはだれ?」
「あたいかい? あたいは夢魔だよ」
「夢魔!?」
サムソンが目を大きく見開く。樫の杖を前に出して、サムソンが静かにみがまえた。
「夢魔ってことは、お前はサキュバスか何かなのか」
「サキュバスう……? おやおや、あんな淫魔といっしょにしないでおくれよ。あたいはナイトメアの仲間だよ」
「ナイトメアだって!? うそつくんじゃねえ! ナイトメアって馬の化け物だろ。お前は全然馬っぽくねえじゃねえか」
「あーあ。いちいちうるさいガキだねえ。ナイトメアが馬の形をしてるってのは、お前らの偏見だろ。ひとえにナイトメアって言っても、いろんなやつがいるんだよ」
ナイトメアだと名乗った夢魔は、面倒くさそうに耳の穴をほじくっている。リロイは興奮するサムソンを手で制して、一歩を踏み出した。
「あたしたちをここに連れこんだのは、あなたなの?」
「あれまあ。そこのカーシャと同じで、お前たちも何にも知らないで入ってきちゃったのね。いちいち説明するのが面倒くさいってのにねえ」
名前を呼ばれたカーシャがびくっと反応する。リロイの腰に抱きつきながら、がたがたと身体をふるわせているのを見て、夢魔は口もとをゆがませた。
「お前たち、悪夢の薬って知ってる?」
「いいえ」
「そう。……悪夢の薬は悪い魔術師がつくった劇薬でねえ。ひと口飲むと、すてんと眠りに落ちるのさ。それで、あたいといっしょに、自分の夢の中に閉じこめられて――一生出られなくなっちゃうのさ!」
夢魔は両手をふり上げて、細長い何かを回転させる。しっかりとにぎられたそれはハンガー(片手剣)のような剣で、夢魔は奇声を発しながらリロイに飛びかかってきた。
リロイはカーシャをサムソンにあずけて、スキアヴォーナを抜き放つ。夢魔の鋭い剣さばきを受けながら、リロイはじりじりと後退した。
「ここに閉じこめられたお前たちは、あたいに何度も斬り刻まれて、一生の地獄を見るのさ。何せ、ここは夢の中だからねえ。手足を斬り落としたって、何度でも生えてくるのさ。……まあ、死ぬほど痛いのは、そこのカーシャがよく知ってるよ」
「……腐ってるわね。あんた」
「あっはっはっは! 何度でも生で斬れる生きた玩具なのよ。最高じゃないか」
夢魔は嘲弄しながら、二本のハンガーを素早く斬り払う。リロイの頬と二の腕に浅い斬り傷がついた。
「お前たちがどうしてカーシャの夢に入ってこれたのか知らないが、せっかく来たんだ。あたいの玩具になっておくれよ! さア、さア!」
夢魔は裂けるほどに口を大きく広げながら、リロイにまた飛びかかった。