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パトリシアに従い、リロイとサムソンは屋敷の廊下を歩く。レンガのような細長い石が敷きつめられた廊下には、大きな壷や鎧が飾られている。
美術品がならぶ廊下を歩いて、奥の一室に案内された。学校の教室ぐらいの広い寝室の窓際に、ピンク色の天蓋がついたベッドが置かれている。
ベッドのわきで膝をついている男性がいた。茶色のベルベット風の上着をはおる男性は、ベッドに向かって必死に懇願している。入室したリロイたちに気づかないまま、男性は丸い背中をリロイに向けていた。
「あれが主人のエドワードよ」
パトリシアは息を吐いて、主人のエドワードのとなりに近づく。肩に手を置くと、金色の長い髪を結んでいるエドワードが顔を上げた。
「カーシャの具合はどう?」
「ああ、パトリシアか。……だめだ。カーシャは今日も苦しそうにしているよ」
エドワードは泣き出しそうな顔でうつむく。娘を心の底から心配しているのがすごく伝わってくる。
――あの人が剣聖さんの知り合いのチェストレインさんね。悪い人じゃなさそうだけど、どうやって聞き出したらいいのかしら。
リロイは口に手をあてて考える。パトリシアがリロイにふり向いて、「お客様よ」とエドワードに言った。
力なく立ち上がるエドワードに、リロイとサムソンは頭を下げた。
「いきなり訪問してすみません。あたしは、あの、リロイ・ウィシャードと言います」
「リロイ・ウィシャードさん……? ウィシャードさんって、あの迅雷の異名で有名なウィシャードさん、の娘様ですか」
「あ、はい。そうです」
リロイが間の抜けた返事をすると、エドワードは不思議そうな顔をした。同様に首をかしげるパトリシアに、エドワードはリロイの父ブレオベリスの説明をした。
エドワードはゆっくりと頭を下げて、ずれ落ちた眼鏡の位置をひとさし指で戻す。
「有名なお方のご息女様がいらしているとは知らず、失礼しました。私は当主のエドワード・チェストレインです。それで、さっそくですが私にご用とは何でしょうか。いや、あの、私は迅雷様と接点なんて持っていない人間でして……」
エドワードは語尾をにごしながら、ぽりぽりと頭を掻く。リロイも両手を出しておどおどした。
「い、いえ、その、大した用ではないんです。えっと、ちょっとお尋ねしたいことがありまして」
「お尋ねしたいこと?」
「は、はい。あの、実はですね。ぼろ宿の店主から剣聖さんの情報を――」
サムソンが突然にリロイの口をふさぐ。肩に手をまわして、部屋の出口までリロイを引っ張っていった。
いぶかしい視線を送るチェストレイン夫妻を背に、サムソンがリロイに顔を近づける。
「お前、大事な娘さんがご病気だってのに、『剣聖さんのこと教えて~』とか言うつもりかよ。ちょっとは空気読めよ」
「だって、しょうがないじゃん。あたしは剣聖さんのことを聞きに来たんだから、そうするしかないでしょ」
「あのなあ。ここで不躾な態度をとって、主人の機嫌を損ねたらどうすんだよ! ここは主人にごまをすって、まずは好感度をあげようぜ」
「あんたって、けっこうずる賢いのね」
リロイは目を点にしながらサムソンを見つめる。サムソンはにこやかにふり返って、エドワードの前でごますりする。
「いやあ、本日はお日柄もよく、春の日もうららかに晴れて、ご主人と奥様のご多幸と健康を神が祝福していますよ」
「は、はあ」
「風のうわさで聞いたんですが、何でも大事なだいーじな娘様がご病気のようで、困ってらっしゃるとか。よろしければ、このサムソンにご相談いただけないでしょうか。もちろん、無償というわけでは――」
「ああ! あなたも娘の病気を聞いて駆けつけてくれた方でしたか。娘は原因不明の病魔に侵されて、治療もままならない状態なんですよ」
エドワードはサムソンの言葉をさえぎって破顔する。「ささ、こちらへ」と言いながら、リロイとサムソンをベッドの前に手招きする。ふたりはエドワードのとなりに寄って、ベッドの上をそっとのぞきこんだ。
そこで、サムソンの動きがぴたりと止まった。
ベッドの上には、うすいピンク色がかかった、不思議な銀色の髪を伸ばした少女が横になっていた。軽いウェーブがかかった髪のまん中にある顔は、とても小さくて白い。
「この子が娘のカーシャです。カーシャは生まれつき病弱なんだけど、最近は特に調子が悪くて、一日中うなされているときもあるのよ」
パトリシアは悲痛な様子でつぶやく。ベッドの上の少女は、顔にたくさんの寝汗をかいている。苦痛に顔をゆがませて、うすい掛け布団の端を強い力でにぎっていた。パトリシアは白いハンカチを出して、少女の汗をぬぐった。
エドワードはベッドのとなりにしゃがんで、おろおろとカーシャの手をにぎる。リロイもとなりで床に膝をついた。
「カーシャさんは何の病気なんですか?」
「それが、実はよくわかっていないんです。お医者様の診断によると、娘は肺炎を患っているそうなんですが、いくら薬を飲ませてもよくならないんです」
「肺炎を患うと、高熱が出たりするものなんですか? 肺の病気だから、呼吸が苦しくなったりはしそうだけど」
「さあ、どうなんでしょう。私は医学にくわしくないので、よくわかりませんが」
エドワードは苦汁を飲むような表情でリロイを見つめる。眼鏡の奥の両目をうるうるさせて、大事なおもちゃをとり上げられた子供のような顔をしていた。
――剣聖さんの情報を聞き出すには、この女の子を治してあげないとだめってわけね。でも、あたしも医学なんてさっぱりだし、どうしたらいいんだろう。
リロイはとなりで立ち尽くすサムソンを見あげた。
「ねえ、サム。あんたの師匠のボア様から、肺炎について何か聞いてない?」
サムソンは顔の向きを変えず、じっと少女を見つめている。樫の杖をにぎりしめたまま、教会の前に置かれた石像みたいに身体を硬直させていた。
「ちょっと、サム。聞いてるの?」
リロイはベッドに手をついて起き上がり、サムソンの左肩をゆすった。サムソンがはっとわれに返って、「な、何だよ」と言った。
「何だよじゃなくて、この子は肺炎なんだって」
「あ、ああ。そうなのか?」
「もう、お客さんの前でぼけぼけしないでよ。で、あんたの師匠のボア様は、肺炎のこととか教えてくれちゃったりしてない?」
「へっ、お、おれの師匠が、そんなこと言ってたのか?」
サムソンはリロイと視線を合わせずに、なぜか頬を赤く染めている。いつもと様子がおかしいサムソンに、リロイは首をかしげた。
すると、後ろの扉ががちゃっと開いて、
「ああ、旦那様。それに奥様もごいっしょでしたか」
メイドのドロシーといっしょに、純白の白衣を着た男性が入室してきた。その白くて端整な顔を見るなり、エドワードは喜色満面で立ち上がった。
「ああ、レスターさん。娘を、娘のカーシャを早く診てください。今朝からずっと苦しそうで、私にはもうどうしたらいいのか……」
「旦那様。お静かに。旦那様が落ち着きなくされておりますと、病魔がますます調子づいてしまいます」
銀色のストレートヘアを後ろで留めている男は、ゆっくりとベッドに近づく。うなされるカーシャの右手を出して、細い手首に親指をあてる。カーシャの額に左手をあてて、レスターという医者は目をつむった。
固唾を呑んで見守る一同の視線を集めながら、レスターは無言で何度かうなずく。苦しそうなカーシャの顔が、少しやわらいだような気がした。
レスターはゆっくりと立ち上がった。
「熱は出ていますが、容態は落ち着いているのでだいじょうぶです。後は私が診ますので、旦那様と奥様はお休みください」
「ああ、そうですか。よかった。レスターさんがいなかったらと思うと、娘の命はどうなっていたやら」
エドワードはパトリシアと顔を見合わせて、ほっと息を吐いた。優しく微笑むレスターが、リロイに気づいて首をかしげた。
「旦那様。このおふた方は?」
「こちらはリロイ・ウィシャードさんとサムソン・ガリフッドさんです」
「リロイ……ウィシャードさん?」
エドワードの声に、レスターの眉がぴくりと動く。細い目をさらに細めて、レスターはリロイを見下ろす。
エドワードは頭の後ろに手をあてて微笑んだ。
「このおふたりも娘の病気を聞いていらしてくれたんです。みなさんに身体を気遣っていただけて、この子は幸せ者です」
「ええ。そうですね」
レスターはリロイに向き直って、左手を差し出す。
「私は町医者のレスターです。よろしく。可愛いお嬢さん」
「……よろしくお願いします」
リロイも左手を出して、レスターと握手する。レスターがにこっと白い歯を出す。
「つまらないことをお尋ねしますが、あなた様は迅雷ことオーブ伯のブレオベリス・ウィシャード様のご息女様ですか?」
「ええ。そうですけど」
「ああやっぱり! まさか、このようなところで希代の英雄のご息女様にお会いできるなんて、夢にも思わなかった」
「はあ、そうですか」
「うん。よく見ると、あなたのまわりにうっすらとオーラのようなものが見える。英雄の血を引くお方は、身体にまとう気からわれわれと違う。いやあ、実にすごい」
レスターは手を打って喜ぶ。その子供のような無邪気な様子に、エドワードとパトリシアはそろって苦笑する。
ほどよい陽気に包まれる寝室のまん中で、リロイの背中からぞくぞくと鳥肌が立った。