22
「何だよ今の」
サムソンは顔を青くしながら、大通りのわきを見つめる。ふいによぎった白い影は、ふわふわと浮遊しながら建物の間に入っていった。
リロイはプリシラの頭をゆっくりと下ろして、サムソンの前に立ち上がった。
「どうしたの?」
「いや、よくわからねえんだけど、変なのが前をよぎったんだ」
サムソンはふるえる右手を出して、三階建ての建物の間を差す。その先はまっ暗で、何がいるのかわからない。
無言のまま立ちすくんでいると、暗闇の向こうから絶叫がひびいてきた。リロイはサムソンに抱きついた。
サムソンは青い顔のまま、ひとさし指で裏通りをつんつんと差した。リロイはサムソンの腕をしっかりとつかんで、じっと彼を見つめる。サムソンも顔からたくさんの汗を流して、じっとリロイの様子をうかがっている。
ふたりは裏通りに視線を戻すと、抱き合った状態のままゆっくりと前に歩いていった。
夜の裏通りは明かりがなくて暗い。明かりは夜空に浮かぶ三日月だけ。月の弱い光は足もとまで照らしてくれない。頭上にはたくさんの蝙蝠が飛んでいた。
リロイとサムソンがびくびくしながら歩いていると、足もとで「パキ」と小枝の折れる音がした。
「きゃあ!」
ふたりは同時にのけ反って、急いで後ろに下がった。ばくばくする胸をおさえながら、あたりをゆっくりと見わたしてみるが、何かがいる気配はない。
「お、お前、急に変な声出すなよ」
「あんたが木の枝なんか踏むからでしょ!」
ふたりはしばらくにらみ合ったが、互いの袖をしっかりとつかみ直して前を進んでいった。
ごみ箱が左右に散漫しているところで、足のつま先からごつっと固い感触が伝わってきた。しゃがんでみると、足もとにひとりの男性が倒れていた。
――さっき悲鳴をあげてたのって、この人かしら。
リロイはひとさし指を出して、男性の腹をつついてみる。が、昏睡する男性は少しも反応しない。
リロイが消沈していると、サムソンが背中をしつこく引っ張ってきた。
「ちょっと、ドレスをあんまり引っ張らないでよ」
「……ロ、ロ、ロ……あ、あ、あ、あれ」
「全然呂律が回ってないじゃない。それじゃ、何言ってるのかわか――」
がたがたとふるえるサムソンが指差す先を見返して、リロイも言葉を失った。
ふたりの前に白いローブが浮いている。それはフードをしっかりとかぶっていて、腕よりも長い袖を広げて、悠然とたたずんでいる。ローブは少し透けていて、裏通りの向こうがうっすらと見えた。
ローブをかぶった何かが、ゆっくりとこちらにふり向く。フードの中はまっ暗で、赤い点がふたつだけ不自然に浮いている。それがぎょろりとにらむように鋭く光った。
「で、で、で、出たア――!」
リロイとサムソンはわれ先にと逃げる。その後を白い悪霊がすごい速さで迫ってくる。大通りまで戻り、わき目もふらずに走るが、恐怖の悪霊との距離は少しずつ狭まってくる。
「ロ、ロイ! このままだと追いつかれちまうぞ!」
「そんなこと言ったってえ!」
リロイは息を切らせながら、夜空に向かってさけんだ。胸はばくばくと鼓動が荒く、今にもはち切れそうだった。だが、後ろの悪霊は表情ひとつ変えず、長い裾をひらひらとなびかせている。
――あんなのに捕まったら、あたしの魂なんてすぐに持ってかれちゃうわ!
リロイは走りながら、あたりをきょろきょろと見わたす。うす暗い夜道の向こうに、煌々と光る街灯が目についた。
「サム、あれよ! お化けって明るいものに弱いんでしょ」
「おお! 街灯か。それナイスアイデア」
悪霊が大きな袖口を広げて、リロイの身体をとらえる――その寸前でリロイはサムソンといっしょに前に飛びこんだ。ざざざと身体を地面に擦りながら、街灯の下にすべりこんだ。
胸やお腹についた砂を払って、リロイは後ろをふり返る。視線の先にはカジャールの夜道しか映らない。
「レイスに何とか捕まらずに済んだな。一時はどうなるかと思ったぜ」
サムソンはケープの胸もとをばたばたさせている。額の汗を袖でごしごしとぬぐいながら、「間違いなくあいつの仕業だな」と言った。
リロイは立ち上がって腕を組んだ。
「あのお化けはレイスって言うの?」
「言うのっつうか、レイスっていうのは浮遊霊の呼び名なんだよ。ゴーストとかスペクターって呼んだりもするけどな」
「ふーん。……で、プリシラや街の人を気絶させてるのって、やっぱりあいつのせいなの?」
「まあ、そうだと思うんだけどなあ」
サムソンはあいまいな言葉を返してから、わしわしと頭を掻いた。ぬれた頭から汗が飛び散って、何滴かがリロイの顔に飛んできた。
――プリシラを助けてあげたいけど、お化けなんてどうやって相手したらいいのよ。
リロイは腕を組んだまま、黙々と考えてみる。初めて見るお化けは想像以上に怖くて、とても相手にできそうもない。だが、逃げてばかりではプリシラは助けられない。
あれやこれやと悩んでいるリロイの背中を、またしつこく引っ張ってきた。
「サムってば、ドレスを引っ張んないでって言ってるでしょ」
「おれは引っ張ってねえよ」
正面に立つサムソンは両手を出して、リロイの前でひらひらとさせる。だが、リロイの背中はしつこく引っ張られ続けている。リロイの額と背筋に大量の冷や汗が流れた。
リロイは唾を呑んでから、恐る恐るふり返る。レンガの壁から白い影が生えていて、それがくすりと笑った。
「ぎゃあああぁぁ!」
リロイとサムソンは絶叫しながら、カジャールの大通りまた走った。後ろからレイスが赤い目を光らせて、すごい速さで追ってくる。大通りから裏道を曲がると、レイスも同じように裏道に入ってきた。
「お化けは明るいものに弱いんじゃなかったのかよ!」
「そんなの知らないわよお!」
サムソンに怒鳴っていると、正面の暗闇がもやもやと白くなってきた。不自然な靄は宙の一点に集まると、白いレイスに変化した。
「ぎゃああ!」
「こ、こっちにもいるう!」
ふたりは慌てて横の細い道に逃げた。その後を二体のレイスが追いかけてくる。建物の上からも三体のレイスがあらわれて、リロイとサムソンを包囲しにかかる。
そこで、サムソンが足をつまずいてしまった。
「サム!」
地面に倒れるサムソンの上から、五体のレイスが覆いかぶさろうとする――! リロイは左手で腰の鞘をにぎって、スキアヴォーナを抜き放った。
「この! サムから離れてよ!」
リロイはスキアヴォーナをむちゃくちゃにふるう。ふわふわと浮かぶレイスを鋭い剣先がとらえ、やわらかい身体を分断する。
――何、この手ごたえのなさは。
リロイのこめかみに一滴の汗が伝う。斬られたレイスたちはゆっくりと輪舞して、夜空に溶けこんでいった。
「や、やったのか?」
サムソンは壁に右手をついて立ち上がる。リロイは首を横にふった。
「だめ。あいつらはやられてないわ。だって、斬った感触が全然なかったもの」
「そりゃ、幽霊なんだからしょうがないだろ。それよりも、レイスなんてよく追っ払えたな」
「ああでもしなきゃ、あんたの魂が抜かれてたでしょ。もう必死だったわよ」
「でもまあ、これでお前は脳みそ筋肉女から、徐霊大好きエクソシスト女に昇格――」
サムソンはふいに言葉を止めて、リロイを指差した。
「ロイ!」
「えっ――」
後ろの壁からレイスたちがたくさんあらわれて、リロイの身体にまとわりついてくる。レイスは吸いこまれるように吸着して、リロイの腕や胸を縛った。
――やばっ。
レイスのフードが、リロイの頭をすっぽりとつつむ。まるで冷たい布にくるまれているようで、重さが少しも感じられない。やわらかい布はリロイの顔面にぴたりとくっついて、口と鼻をふさぐ。
リロイはレイスをはがそうとするが、両手からだんだんと力が抜けてくる。息を吸うことができなくて、胸の後ろと頭が内側から圧迫されはじめた。
「へ、ヘルファイア!」
サムソンの怒声とともに、リロイの左側が熱くなってくる。レイスたちが「ぎゃあ!」と壮絶な悲鳴をあげると、身体の拘束がゆるくなった。
レイスたちを引っぺがして、リロイはサムソンの腕に抱きついた。紅蓮の炎は轟音を発して、レイスたちを焼き尽くす。夜空にレイスたちの悲鳴がひびいた。
最後のレイスを焼殺すると、炎は夜空の中に消えていった。