12
ブーツの中に、エイセル湖の冷たい水が入ってくる。
――冷たっ!
クラーケンの足はリロイの右足を強引に引いてくる。リロイの腰や胸が水につかる。リロイは左手で鼻と口をおさえながら、あわてて目をつむった。
何も見えないリロイの身体を冷たい水が包む。岩石の落ちる音が、外からぼやけて聞こえる。水の流れる音だけが鮮明に聞こえて、とてもうるさい。身体もふわふわと水中を浮遊して、あまり落ち着かない。
――て、そんなことはいいから、早く陸にあがらなきゃ。
右手から、スキアヴォーナの柄をにぎる感触が伝わる。リロイは左手をかたくにぎりしめながら、ゆっくりと目を開いた。
リロイの目の前には、赤黒い岩がそびえている。それはリロイが住む別荘よりも大きい。レイリアの子爵あたりが住む小さな城にも匹敵する大きさかもしれない。
城のように大きな岩が、洞窟の湖のまん中に浮いている。岩――クラーケンは、充血のために赤く染まった目でリロイをにらみつけている。陸に出していた長い足を水の中に入れて、リロイのまわりでくねくねとくねらせる。
――こいつ、本当に切れてるわ。早く逃げないと、まじで食われちゃうかも。
リロイは、スキアヴォーナでクラーケンの足をひと突きに刺した。右足にからみついているクラーケンの足の力が弱まって、リロイは左手ですぐにそれをふりほどいた。
踵を返すリロイの後を、八本の長い足が追ってくる。リロイは両足をばたつかせて水中を蹴るが、足首を隠す長いアンダースカートがまとわりついてしまう。
クラーケンの足に追いつかれて、リロイは水中で剣を斬り払った。だが、右腕や肘にも袖がからみついて、剣の動きがにぶる。剣も水の抵抗を受けて、刀身がとても重い。
――剣がすごく重い。いつもはこんなに重くないのに、どうして……!?
だんだんと息も苦しくなってきて、リロイの頭が混乱しはじめる。リロイは重い剣を両手でふりながら、クラーケンの足を追い払う。そこで息が続かなくなって、リロイは水から顔を出した。
「サム!」
「ロイ! こっちだ。早く……!」
サムソンが湖の際にかがんで、樫の杖をぎりぎりまでのばしてくれる。リロイも腕をのばして杖をつかもうとしたが、わずかにとどかない。
「あと、もうちょっと……!」
リロイは湖の水を飲みながら、必死に腕をのばす。肩と脇が悲鳴をあげて、腕がはずれてしまいそうだった。しかし、杖の先端はとどきそうで、なかなかとどいてくれない。
杖をつかんだ瞬間、右足がすごい力で下に引きこまれる。顔が水の中に沈んで、リロイはおぼれそうになる。スキアヴォーナでクラーケンの足をつついて、リロイは急いで陸にあがった。
怒り狂うクラーケンが、八本の足を突き出してくる。するどく尖った足はリロイの肩をかすって、後ろの壁にめりこむ。壁は大きな蜂の巣のようになった。
「サム、目よ! 火の玉であいつの目をねらって!」
「な、何だって!?」
サムソンも左右に動きながら、クラーケンの足を必死によける。
「そんなん、急に言われたってできねえよ」
「もう。あのでかい目に一発放つだけでしょ。簡単じゃない」
「簡単ってなあ、人ごとだと思ってお前はいつもいつも……」
「いいから、四の五の言わずに呪文となえなさいよ!」
「わっ、わあーったよ」
顔にたくさん汗をかきながら、サムソンはそそくさと洞窟の隅に逃げる。はあはあと息を切らせながら、口早に呪文をとなえて火の玉を放った。だが、あわててとなえた火の玉は、弾道がクラーケンのわずかに左側を向いている。
リロイはスキアヴォーナを上段にかまえて、クラーケンの左目を目がけて跳躍した。サムソンの放った火の玉がスキアヴォーナの刀身に当たって、紅蓮の柱が洞窟のまん中に立ち上る――!
「でやああぁぁぁ――!」
リロイは炎の剣を力強くふり下ろす。剣はクラーケンの赤い目をまっ二つ裂いて、その上から炎がごう然と燃え上がる。
後先考えずに飛びこんだリロイは、湖の中に落ちてしまった。暗い水の音がリロイの耳を刺激する。
あわてて顔を出すと、目の前のクラーケンが荒れ狂っている。左目から火炎を立ち上らせながら、長い足をしきりにばたつかせていた。クラーケンが湖に沈むと、水面が大きく盛り上がった。
大きな波にゆられながら、リロイは洞窟の奥の暗闇を茫然と見つめた。荒れる水面をよそに、洞窟は静まり返っている。
「もしかして、勝った……の?」
リロイとサムソンは全身びしょ濡れのまま、ヘベス村に帰った。陽は西の山陰に隠れて、空が橙色に染まっている。
「本当にクラーケンを倒したのかい」
村の広場でシーラが血相を変える。彼女はリロイの肩をつかんで、上下にはげしくゆすった。
「あんたたち、どこかで頭を強く打ったりしなかったかい。何かの間違いなんじゃないのかい!?」
「ちょ! おばさん、痛いってば」
「あら、そうかい。ごめんよ」
シーラの後ろで村人たちも顔をしかめている。腕を組んだり、何度も首をひねっている。シーラが村長のアルバに目配せすると、アルバも「うーん」とうなり声をあげた。
「にわかに信じられませんな。クラーケンは、村の剛の者を集めても勝てなかった相手。それを、リロイ様とサムソン様たったお二人だけで倒されてしまうだなんて……」
「うそだと思うんだったら、洞窟の中を確認してきなよ」
サムソンはくしゃみをしながら、ゆっくりとリロイの前に出た。
「おれは、クラーケンが湖の中に沈んでいくのをこの目で見たから、うそはついてねえって断言できる。おれの魔術とロイの剣で、クラーケンは確かに倒した。……まあ、おっさんたちが信じられねえのは仕方ねえと思うけどな」
「そういうことよ! あたしたちが本気になれば、焼き魚だって蛸だって楽勝なんだからね。まったくだれよ。あたしに魔物退治はまかせられないって言ったやつは」
「村の総意じゃねえの?」
「そうそう。村の人全員があたしの実力を疑って……て、こらあ!」
リロイがサムソンの頭にげん骨を落とすと、村人全員がどっと沸いた。たくさんの笑い声が夕暮れの空にひびきわたる。
「何だかよくわからないけど、あたいらは助けてもらっちゃったのかね!?」
シーラのうれしそうな声に、後ろの村人たちが一斉にうなずく。みんな両手をあげて、白い歯を見せた。破顔一笑する人たちをながめながら、リロイの心も温かくなった。
「いやはや、リロイ様には感服いたしました。村の代表として、私からも心からお礼を申し上げさせてくだされ」
アルバは背筋をのばして、堅い言葉をならべる。リロイはずぶ濡れになった身体で胸を張った。
「わかればいいのよ。そ、それと、あたしは村長さんにばかにされたから、意地になってたわけじゃないからね。そこんところ、よろしくね」
「ははっ。わかっておりますって。率先してわれらを助けてくれたリロイ様は、騎士の鑑ですなー。いよっ、レイリア一!」
「えへへ。あたし、リロイ・ウィシャード様にまかせれば、焼き魚なんていちころよ。本当の騎士道というものを、ぽんこつ領主に替わって教えてあげるわ」
リロイが腰に手をあてて高笑いする向かいで、アルバが表情を変える。
「リロイ……ウィシャード様?」
「へっ……?」
「あなた様はまさか、ブレオベリス・ウィシャード様の娘様なのですか!?」
「ブレオベリスって、村長さんがどうしてお父様の名前を知ってるの」
「ああ! やっぱり」
アルバは狂喜して、シーラや村人たちに叫んだ。わいわいと騒いでいた村人たちも笑みを止めて、リロイとサムソンに集まりだした。彼らは一様に「あのオーブ伯の」と声をもらしている。
「な、何、何……!?」
「リロイ様があのオーブ伯のご息女だったなんて、われらは何て幸運なんだ。オーブ伯のご息女ならば、クラーケンなんて目じゃないはずだ」
「ちょ、ちょっと! オーブって、あたしが住んでる国よ。どうしてあたしの国まで知ってるのよ」
「どうしてって、レイリアであなたのお父様を知らない人間なんておりませんよ。オーブ伯といえば、数々の反乱を鎮めてきた英雄。怒涛の突撃で敵陣中央を一気に切り崩し、王国に絶対の勝利を収める、まことのレイリア一の騎士様でございます。ひと呼んでレイリアの迅雷」
「じ、迅雷いィィ!?」
リロイは嫌な顔をしながら、サムソンにふりむく。サムソンも目を丸めながら、リロイを見ている。
「赤ひげこと、ゲント伯のバルバロッサ・ハイラル様とならぶレイリアの英雄です。いやあ、まさかリロイ様がオーブ伯の娘様だっただなんて、夢にも思……」
「バルバロッサって、あたしの家に遊びにくるバルバロッサのおじ様のこと?」
「な、何と! ゲント伯ともお知り合いなのですか。それはすごい」
アルバは目まいを起こして、その場に倒れこんでしまった。まわりの村人たちがあわててアルバの脇をかかえた。他の村人たちも「リロイ様」と顔を赤くしている。
「お前たち! 村を救っていただいたリロイ様を丁重におもてなしするのだ」
「おおーっ!」
アルバが右拳をふりあげると、村人たちも一斉に腕をあげた。そのまま、それぞれの持ち場に戻っていく。
あれほどうるさかった中央広場が、とたんに静かになる。リロイとサムソンはとり残されたまま、だれの家に行こうか困った。
「お前の親父さんって有名人だったんだな」
「家にいるときは、ただの屁の臭い親父なんだけどね」
後ろに季節はずれの北風がふいた。