10
「……それで、洞窟からおめおめと逃げ帰ってきたんですか」
ヘベス村の中央広場で、村長のアルバが冷たい表情で言い放った。リロイとサムソンは、はあはあと息を切らせながらアルバに泣きついた。
「だって、焼き魚があんなに大軍だっただなんて、聞いてなかったもん!」
「そうそう! それを見習いふたりで退治しろだなんて、無理にもほどがあるってもんだ」
「ほんとほんと! あんなののボスを倒すのなんて無理無理。やっぱり領主にお願いしようよ」
「おっ! それ名案! っつうわけで、おれらはこの辺で」
アルバはしばらくじっとしていたが、眉間に手をあてて「はあ」とため息をついた。
「この人、貴族の娘に向かってため息ついたよ」
「だから、あれほど申しあげたのに。あんたたちは……」
「あんたって言ったよ。この人、貴族の息子に向かってあんたって言ったよ」
そんなやりとりをしていると、まわりから笑い声が聞こえてきた。頭のてっぺんで髪を結んでいる女の子なんて、リロイのとなりできゃっきゃと笑っている。
広場の後方でリロイたちを見ていたおばさんが、にこにこしながら歩いてきた。
「リロイ様とサムソン様がいると、村がなごむねえ」
「いや、あの、別に笑いをとりたいわけじゃないんですけど」
リロイがしゅんとすると、後ろで髪を結んでいるおばさんは、「あらっ、そうなのかい」ととても不思議そうな顔をしていた。
――焼き魚めえ~! おんどりゃーのせいで大恥かいちまったじゃねえか。
リロイが腕を小きざみにふるわせると、身体のまわりからどす黒い気が発せられた。後ろにいたアルバがびくっと身をのけ反らせていた。
おばさんは黒いオーラに気づかず、笑顔で右手を差し出した。
「あたいの名はシーラ。よろしくね。未来の領主様」
「は、はあ」
リロイは頭から湯気を立ち上らせながら、シーラと握手した。
「やつらはたくさんいるからねえ。正面からじゃ勝てっこないわよ」
「でも、洞窟の奥に焼き魚のボスがいるんでしょ? 焼き魚を倒さなきゃ、ボスがいるところまでたどり着けないわ」
「それじゃ、村の人間を結集させて、焼き……サハギンを倒すかい? あんな狭い洞窟じゃ、武器なんて使えないんじゃないかい?」
リロイは腕を組んで、シーラの言葉を整理してみる。サハギンを駆逐できないのならば、どうやって洞窟の奥に行けばいいのか。
「サハギンをおびき出すしかねえんじゃねえの」
サムソンが、となりの幼女の手をとっていた。
「おびき出すって、陽動作戦ってこと?」
「そんな堅苦しいもんじゃねえけど、やつらの好物で注意を引きつけて、その間に洞窟を抜けるとか、単純な作戦だよ」
「やつらの好物って、サム、あんた知ってるの?」
「ああ、知ってるぜ」
「えっ、うそ! 何よ。もったいぶらないで早く教えなさいよ」
「お前」
真顔で指さすサムソンの頭を殴って、リロイはシーラの顔を見つめた。
「ねえ、おばさん。焼き魚の好物って何か知ってる?」
「そんなこと、急に言われてもねえ」
シーラはかさかさした頬に手をあてて、少しうめいた。
お昼すぎにリロイはまたサムソンを連れて、湖畔の洞窟に向かった。
「なあ、本当にこの作戦でいくのかよ。他の作戦のほうがいいんじゃねえの」
「もう、さっきから何よ。この作戦でいくって決めたばっかでしょ」
肩を張りながら闊歩するリロイの後ろで、サムソンは何度も小言を漏らした。
エイセル湖に沿って歩いていくと、すぐに洞窟の入り口が見えてきた。洞内をのぞいてみると、今朝と変わらずにひんやりしている。
その静かな洞内をじっとながめてから、リロイは右手に持つガラスの瓶をサムソンにわたした。中には無色透明の液体が入っている。
「おばさんの話だと、焼き魚はハーブの香りに反応するらしいのよ」
「だから、ハーブを抽出してつくったこの香料で、サハギンをおびき出すってのか。話が単純すぎるぜ」
「でも、村の人たちはハーブの香りをつかって、焼き魚を追っ払ってるって言ってたわよ。風の魔術でハーブの香りを送りこめば、焼き魚が浮かれて出てくるんじゃないかしら」
「そう単純に話が進みますかねえ」
「さっきからぶつぶつうるさいわね。いいから言われた通りにやりなさいよ」
「けっ。人ごとだと思って好き勝手に言いやがって」
サムソンはぶつぶつと文句を言いながら、しぶしぶガラス瓶を受けとった。瓶の中の抽出液をじっと見つめて顔をしかめていたが、観念して瓶の蓋をあけた。森の穏やかな風を伝って、ハーブの甘い香りが充満する。
サムソンはげんなりした表情を向けてきた。
「ほ、本当にやらなきゃだめか?」
「もう、さっきから何よ。ちょちょいと呪文をとなえるだけでしょ。簡単じゃない」
サムソンはがっくりとうなだれてから、洞窟の前であぐらをかいた。ガラス瓶を持たない左手で瓶の口をゆっくりなぞりながら、呪文をとなえた。
「オムス、アエテ、デス、クゥイ、トータム、イン、クレアトーラム、エド、コンディスティ……」
厳かにとなえるサムソンの声に、あたりの空気がぴたりと止まる。
「ち、地上の風を司る精霊よ。われに力を貸したまえ」
サムソンはおどおどしながら詠唱し、ゆっくりと目を開いた。厳かな呪文が森の静寂にひびいて、あたりから突風が吹――
「あれ、おかしいな。呪文を間違えちったかな」
サムソンはまた目をつむって、瓶の口をなぞりながら呪文をとなえる。
「地上の風を司る精霊よ。われに力を貸したまええ!」
サムソンの裏返った声がむなしくひびく。リロイは後ろの木の幹によりかかって、ため息をついた。
「ちょっと、何してんのよ」
「えっと、われに忠義を示したまえ、だったっけ。……地上の風を司る精霊よ。われに忠義を示したまえぇ!」
サムソンがあたふたしながら呪文をとなえるが、風は一向に吹いてくれない。やがてサムソンは立ち上がって、力みながら腕を前に突き出した。
「われに忠義を示したまえ! なるべく早く起きたまええ! いいから早く起きたまえぇぇ!」
サムソンは何度も腕を引いて、突き出してを繰り返す。だが、いくらがんばっても風は起きてくれなかった。
「あんたって、もしかして風の魔術が苦手?」
「うっ」
サムソンの挙動がぴたりと止まる。ゆっくりとふり向いた顔はまっ赤に染まっている。
「だから、さっきからぶつぶつ文句言って、呪文となえるのをしぶってたんだ」
「えっ、ち、ちがっ」
「同い年のプリシラが宮廷魔術師になれたのに、あんたは何で見習いのままなのか不思議に思ってたけど……そういうことお」
「な、何にやにやしてンだよ! プリシラは別に関係ねえだろ」
リロイがあきれた表情を向けると、サムソンは必死になって身体をゆすってきた。その表情にはいつもの余裕が微塵もない。
リロイは半笑いで、両手の平を返した。
「魔術師見習いじゃ、風の魔術が使えなくてもしょうがないよねえ」
「て、てめえ! おれの弱みをにぎったからって、余裕ぶってンじゃねえよ! てめえだって武術大会で大恥かいた見習いだろうが」
「はいはい。次回またがんばりましょうね。風を起こせないチビの魔術師見習いさん」
「チビって言うなー!」
風を起こすことができなかったため、ハーブの香料が入ったガラス瓶を洞窟の前で置いたまま、ずっと待機することになってしまった。リロイが洞窟の入り口をじっと見つめるとなりで、サムソンは縮こまって「お前のせいで、お前のせいで」と恨み募っていた。
満天にのぼっていた太陽が西の山に落ちようとしていたころ、洞窟の中からぴちゃぴちゃと音が聞こえてきた。
「来た!」
リロイが心躍らせる向こうから、サハギンたちがぞろぞろと洞窟から出てきた。サハギンたちはハーブの香りにつられて、洞窟の前でたむろしだした。静かだった森の中が、サハギンたちの紺色であふれ返っている。
――こんなにたくさんいたんじゃ、あたしとサムだけじゃ相手できないわね。
リロイは今朝の突撃が無謀だったと思い知りながら、となりでうずくまっているサムソンの襟をつかんだ。