3話 誰がための意志か
「お前は『自由』を説き、無知な人々を惑わす。だがな、レオン。その罪は重いぞ」
ヴァルガスが、一歩ずつ、確実に距離を詰めてくる。
彼が踏みしめる海底の岩盤は、その質量の奔流に耐えかねて蜘蛛の巣状にひび割れ、砕けた破片は舞い上がることさえ許されず海底へ吸い込まれていく。
その一歩ごとに、レオンにかかる圧力は指数関数的に増大していた。
内臓が喉元まで押し上げられ、眼球の奥で何かが軋む。
視界は赤黒いノイズに侵食され、意識の輪郭さえもが薄れていった。
「私はな、レオン。民が壊れる姿を、何度も見てきた。守るべき重圧を失い、内側から弾け飛んだ無数の死骸をな。そのたびに思った――自由など、与えるべきではなかったと」
ヴァルガスの声は、もはや教えを説く聖職者のように厳かで、それゆえに救いようがないほど冷酷だった。
「人は、重圧がなければ形を保てない。秩序という名の殻こそが、彼らを生かしている唯一の慈悲なのだ。貴様は救いと称して、彼らに破滅を、あるいは自己崩壊を強いているに過ぎない」
「……黙れ、よ……!」
レオンは喉の奥まで逆流してきた血を吐き出し、剣を杖代わりに立ち上がった。
全身の毛細血管が弾け、鱗の隙間から滲む血が瑠璃色の光に照らされて、幻想的でさえある残酷な輝きを放っている。
「形を保てない? 殻が必要? ……笑わせるな」
レオンは、震える手で剣を握り直した。
だが、彼はそれをヴァルガスに向けない。
逆に、その錆びた大剣を自らの足元――海底の地面へと、魂を込めて深く突き立てた。
「外からの重り(ルール)に頼らないと壊れるってんなら、足りない分は、歯を食いしばって踏ん張れ。それでも崩れるなら、心で支えろ。人は――それが出来る生き物だろッ!!」
レオンの咆哮が、重質な海水を震わせた。
その瞳に宿る、全てを焼き尽くすような瑠璃色の炎。
リナはその覚悟に圧され、悲鳴のような詠唱と共に、影の権能を全開放した。
「リナ、やれッ!!」
「――暗界の真空ッ!!」
時間が、引き延ばされた。
一秒にも満たないはずの、完全なる無圧。
レオンを鉄の檻のように縛り付けていた絶対的な重力が消失したその瞬間。
均衡を失ったレオンの肉体は、内側からの圧力に耐えかねて悲鳴を上げ、皮膚の各所から血飛沫が爆ぜる。
だが、彼はその「崩壊への爆発力」を、全て推進力へと書き換えた(オーバーライト)。
抵抗のなくなった空間。
「逆流」の全魔力を足に込め、レオンは地面に突き立てた剣を支点に、世界を蹴った。
ドォォォォォォンッ!!
音速を超えた、瑠璃色の衝撃。
ヴァルガスが、その巨盾を防御の型に組み直すよりも早く。
レオンは**大剣ではなく、血に染まった「拳」**を、盾の裏側――ヴァルガスの肘関節を支える「理の継ぎ目」へと叩き込んだ。
「盾が壊せないなら……お前の『腕』を、その歪んだ正義ごとへし折るだけだッ!!」
メキィッ!!
水中に、鈍く嫌な骨折音が響き渡った。
ヴァルガスの重装甲が内側から弾け飛び、鋼鉄のような筋肉が、レオンの放った《逆流》の衝撃に耐えきれず千切れる。
ヴァルガスの巨体が、初めて後方へと吹き飛ぶ。
レオンはまだ、立っていた。
ただ一人の人間が、「押し潰されない」という事実を、この暗黒の深海に刻んだ。
それだけで――アストレアが敷いた完璧なはずの理は、音を立てて揺らいでいた。




