2話 錆びた大剣 vs 絶対の盾
海溝の底は、もはや液体の中ではない。
四方を切り立った岩壁に囲まれたその狭間は、ヴァルガスの権能によって分子レベルで圧縮された「暗黒の牢獄」と化していた。
耳に届く音は水の揺らぎではなく、骨の芯を直接揺さぶる不気味な軋み。
視界の端では、水中に漂う微細な岩片さえもが異常な重力に捕らえられ、海底へと叩きつけられては粉々に砕け散っている。
レオンは折れそうな歯を食いしばり、背中に背負った錆びた大剣を引き抜いた。
リセ村の祭壇に祀られ、今は亡きルナの祈りと、見捨てられた村人たちの無念を吸い込んだ鈍色の刃。
指先が柄に触れた瞬間、掌に伝わる冷たい鉄の感触だけが、混濁しそうな意識を現実に繋ぎ止めていた。
(……魔法で突破できない。理屈じゃ勝てない……。それでも俺は、ルナの最期の笑顔を、あいつらの声を……こんなところで終わらせるわけにはいかないんだ!)
「……檻だと? 笑わせるな」
レオンの喉の奥から、血混じりの咆哮が漏れる。
「……俺は、その檻を壊すために、その先に待つ太陽を見るために……泳いでるんだッ!」
ドォォォォォンッ!!
レオンの全身から、瑠璃色の奔流――《逆流》のオーラが爆発的に噴き出した。
粘着し、凝固し、彼を拘束していた「水の壁」を力ずくで引き剥がす。
物理法則が「静止」を命じる空間で、彼の意志だけが「躍動」を強制的に書き込む。
一歩。
一掻きごとに全身の筋肉が断裂の悲鳴を上げるが、レオンは一気にヴァルガスの懐へと跳んだ。
因果を無視した加速が、圧縮された海水の抵抗を強引にこじ開ける。
「――『逆流』ッ!!」
渾身の力が込められた大剣が、半円を描いてヴァルガスの盾に叩きつけられる。
かつて白銀の騎士カイルが放った「魔力の術式」さえも情報の塵に変えた、概念を切り裂く異能の一撃。
だが――。
ガギィィィィィィンッ!!
耳を劈くような金属音が響き渡り、瑠璃色の火花が水中に散った。
レオンの両腕に返ってきたのは、まるで巨大な大陸そのものを叩いたかのような、凄まじい反動。
盾は、傷一つ付いていない。
「……なに……っ!?」
レオンの瞳が驚愕に揺れる。
刃は確かに「そこ」にある盾を捉えていた。
しかし、消すべき魔力が、壊すべき術式が存在しない。
「……フン。無知なバグめ」
ヴァルガスの鈍色の鎧の隙間から、地鳴りのような嘲笑が漏れる。
「カイルの魔力的な秩序は、お前の異能で上書きできたろう。だが、この盾は術式など介さぬ、ただの超高密度の鋼。そして、今俺が操っているのは魔法ではない。海水の『物理的な重さ』そのものだ」
ヴァルガスが僅かに盾を前に突き出す。
「魔法なら消せよう。だが、そこにある『重さ』という事実はどうやって消す? 質量とは、この宇宙に残された最も単純で、最も抗い難い『正解』なのだ」
盾が動いた瞬間、レオンの目の前の空間が膨張した。
海流ではなく、凝固した「水の質量」がヴァルガスの盾に押し出され、目に見えるほどの物理的な衝撃波となってレオンの全身を正面から打ち据えたのだ。
「ぐはぁっ……!!」
全身を巨大な鉄槌で殴られたような衝撃。
肺に残っていた僅かな酸素が強制的に絞り出され、レオンの身体は木の葉のように吹き飛ばされた。
数百メートル後方の海溝の岩壁に、弾丸のような速度で激突する。
ドォォォォォォンッ!!
岩壁が大きく陥没し、レオンの背中の骨が悲鳴を上げた。
「カハッ、……あ、が……」
口から鮮血が漏れ、水中に紅い霧が広がる。
視界が点滅する。
腕の感覚が麻痺し、握っていた大剣が手から滑り落ちそうになる。
「これが物理だ。感情でどれほど吠えようと、一トンの岩の重さを変えることはできん」
ヴァルガスは再び、海底の砂岩を粉々に砕きながら一歩ずつ近づいてくる。
盾を構え直すその姿は、迫りくる絶壁そのもの。
レオンは霞む視界の中で、海底に突き刺さった自分の剣を見つめ、必死に思考を巡らせた。
(……消せない……。魔力の秩序は上書きできても、物理の秩序は無視できない……それが、俺の限界なのか……?)
いや、違う。
水圧。
重さ。
流れ。
ヴァルガスが「支配」しているということは、そこにはまだ、俺が干渉できる「歪み」があるはずだ。
この絶対的な圧力さえも、俺の意思で逆転させる方法は――。
レオンの瞳の奥で、消えかかっていた瑠璃色の光が、今度は不気味なまでに静かに、より深く輝き始めていた。




