1話 逃げ場なき監獄
黄金海流の脇道、天を突くような切り立った海溝の狭間。
そこは、管理者の居城《静謐の宮》へと続く最短ルートであり、同時に、アストレアが「招かれざる客」を葬るために用意した、巨大な水圧の断頭台でもあった。
リナの隠れ家を発ち、決意を胸に前進を続けていたレオンだったが、その歩みは唐突に訪れた「物理の変質」によって遮られた。
「……っ、が……は……ッ!?」
レオンの肺から、強制的に酸素が絞り出された。
それは、深海特有の緩やかな水圧ではない。
周囲を流れる海水そのものが、一瞬にしてその「本質」を書き換えられたのだ。
これまで肌を優しく撫で、呼吸を許していた自由な流体は、突如としてコンクリートのように硬質化し、四方八方からレオンの肉体を締め上げる「壁」へと変貌した。
メキメキ。メキッ。
嫌な音が、肉を突き抜けて骨の芯から響く。
肋骨は内側へ無慈悲に押し込まれ、肺は空気を求めて激しく痙攣するが、重質化した水はエラの隙間に入り込むことさえ拒絶する。
指先一つ動かそうとするだけで、周囲の水分子がヤスリとなって鱗を削り、皮膚を裂き、筋肉をズタズタに引き千切ろうとする。
「……っ、リナ……逃げ……っ」
「無理……。影が……動かない……っ!」
傍らに立つリナの顔から、余裕が消えていた。
彼女の足元に蠢いていたはずの「影」は、異常な重力に縫い付けられたように海底へと這いつくばり、物質的な重圧に押し潰されて霧散しかけている。
海溝の奥、光さえも屈折を諦め、闇が鉛のような質量を持って滞留する場所。
そこから、一人の巨漢が「歩いて」きた。
海水を切り裂くことも、魚人のようにしなやかに泳ぐこともない。
ただ一歩ずつ、海底の岩盤を粉砕しながら、重力そのものを体現するように近づいてくる影。
全身を鈍色の重装甲で固めた、生ける岩塊。
その背には、一対の巨大な《盾》が、守護者の翼を畳んだかのように背負われていた。
「管理者アストレア様より、海域の不純物を排除せよとの命を受けた」
男の口から漏れる声は、水の振動ではない。
それは地殻が軋むような、地鳴りそのものの重低音となってレオンの全身を打ち据えた。
「……四天王が一人、『重壁』のヴァルガスである」
ヴァルガスが、背中の二枚の盾を静かに引き抜いた。
装甲と盾が擦れ合い、鈍い火花が水中に散る。
彼がその巨盾を体の正面でガチリと合わせた瞬間――海溝全体の「理」が、完全にヴァルガスの意のままに再構築された。
「無駄だ。俺の周囲一キロ、海水はその『粘度』と『圧力』を俺の制御下に置く。お前は今、水の中にいるのではない。底なしの泥濘か、あるいは鉄の檻の中にいるも同然だ」
ヴァルガスが盾を左右に微かに動かす。
それだけで、周囲の水がゴムのように伸び、戻り、レオンの手足を絡め取った。
どれほど速く動こうとしても、周囲の媒体が「固体」へと変質していれば、それは壁に激突し続けるのと同義だ。
魔力を練ろうとしても、粒子の一つ一つが重く、泥の中に沈むように濁っていく。
ズン。
ヴァルガスが重い一歩を踏み出す。
その足跡には巨大な亀裂が走り、周囲の砂は舞い上がることさえ許されず海底に叩きつけられる。
それは、回避不能な「物理的な死」そのものが迫ってくるような、圧倒的な暴力。
「秩序とは重さだ、バグ。浮き上がることを許さぬ、絶対的な重力の統治である」
ヴァルガスは感情を排した瞳で、苦悶に歪むレオンを見下ろした。
「自由とは乱れであり、軽薄さは腐敗を招く。アストレア様が望まれるのは、すべてが静止し、配置され、動かぬ完璧な美。貴様のような浮ついた存在は、この深淵の底で圧し潰され、情報の塵となるのが相応しい」
「ハッ……静止……だと……?」
レオンは血の混じった泡を吐きながら、無理やり口角を吊り上げた。
目の前が真っ赤に染まり、血管が浮き上がり、意識の縁が欠けていく。
リセ村でのルナの最期。あの時の無力感。
「俺の……俺たちの命は……静止するためにあるんじゃ……ねえッ!!」
レオンは焼けつく肺を強引に動かし、魂の底から瑠璃色の魔力を絞り出す。
しかし、この重質化した空間では、彼の「逆流」さえも発動が遅れ、光の粒子が粘つく泥に捕らえられて消えていく。
「砕け散れ」
ヴァルガスが盾を構え、その巨体からは想像もつかない重圧を伴った突進を開始する。
それは「速度」を奪われた者が、いかにして「絶対的な質量」を凌駕するかという、絶望的な試練の始まり。
(――まだだ。まだ、終わらせない)
この監獄を内側から食い破る方法は、必ずある。
レオンの瞳に宿る瑠璃色の炎は、極限の圧力の中で、より一層不気味な輝きを放ち始めていた。




