3話 深淵の介入
二人の意思が拮抗し、瑠璃色と白銀の火花が散る。
鍔迫り合いの緊張が極限に達し、海流そのものが悲鳴を上げていた、その瞬間。
突如として、沸騰していた海流の温度が、刺すような冷気と共に凍りついた。
いや、凍りついたのではない。
リナの登場と同時に、周囲の海流の粒子が小さな竜巻のように逆巻き、アストレアが定義した流体運動が物理的に「ねじ曲げられた」のだ。
「やれやれ。熱いねぇ、二人とも」
頭上から、場にそぐわないほど軽薄で、だが鼓膜を直接震わせるような重苦しい圧を孕んだ女性の声が降ってきた。
「せっかくのアストレア様自慢の綺麗な黄金海流が、男臭い思想のぶつけ合いで台無しだよ。見てなよ、計算式の文字が焦げ付いてるじゃないか」
見上げた先にあったのは、巨大なメンダコの影――ではない。
それを模した、深海のような濃紺の法衣を纏う小柄な少女。
名を、リナという。
彼女がそこに浮遊しているだけで、周囲の黄金の光は吸い込まれるように屈折し、不自然な闇が戦場を侵食していく。
リナが細い指先で空中に円を描く。
すると、彼女の足元から墨のような黒い「淀み」が滲み出し、レオンとカイルの間に絶対的な断絶の壁を作り上げた。
「何者だ。深海族の残党か!」
カイルは瞬時に間合いを取り、鋭く問う。
彼の白銀の剣が、リナが放つ不浄な気配に反応して激しく鳴動していた。
秩序の騎士にとって、その少女が纏う「影」は生理的な嫌悪感を呼び起こすだけでなく、直感的な「死」を予感させるほどに強大だった。
「ただの通りすがりの“ゴミ拾い”さ。あるいは、システムから溢れたゴミ(バグ)の保護者、とでも呼んでくれるかい?」
リナは肩をすくめ、楽しげに言った。
彼女の瞳は、深海の熱水噴出孔のように妖しく赤く光っている。
「……ねえ、騎士様。そのボロボロのバグ君をいじめるのは、そこまでにしなよ。彼、もうエラが半分焼き切れてる。これ以上やったら、アストレア様が欲しがってる『データ』が壊れちゃうよ?」
「貴様に何が解る」
「解るさ。あんたよりも、ね」
リナが、不敵な笑みを浮かべて海域の深層を指差した。
「ほら。あんたが命懸けで守ってるその『綺麗な世界』。……向こう側で、少し“濁り”始めてるよ。あんたたちの言う『秩序』の重みに、海が耐えかねてる」
その言葉と同時に、黄金海流の遥か深層――光すら届かないはずの奈落から、不気味な地響きのような振動が伝わってきた。
それは生物の咆哮でも、機械の駆動音でもない。
黄金海流の純度が限界を超え、蓄積された「排熱」と「矛盾」が異常流となって噴き出し始めた、破滅への胎動。
アストレアの完璧な統治すら及ばない、混沌の侵食がそこにいた。
「……ッ、深層の侵食が、この周期で始まるというのか」
カイルの顔が、初めて青ざめた。
レオンという一人のバグを処理することよりも、遥かに優先すべき「世界の崩壊」が始まろうとしている。
彼は苦々しげに舌打ちし、揺るぎない秩序の象徴であった剣を、鞘へと収めた。
「秩序を乱す者は、いずれ必ず法の下に裁く。……それが、この世界の絶対の理だ」
カイルは、意識が朦朧としているレオンを真っ直ぐに見据えた。
「レオン……だったな。お前という誤差が、この海の濁りを招いたのか、あるいは……。次に会う時は、お前というバグを完全に消去してやる。それが私の、この海への責任だ」
白銀の騎士は、部下を率いて異常流の源流へと向かい、黄金の奔流の中へと消えていった。
後に残されたのは、激痛と酸素欠乏で意識の境界に立つレオンと、不敵に微笑むリナだけだった。
戦いが終わった途端、レオンを支えていたアドレナリンが引いていく。
肺は焼け、ヒレの感覚はとうに消え、エラは水を吸い込むたびに鋭いガラス片を飲み込むような痛みに悲鳴を上げていた。
傷口から漏れ出す瑠璃色の光も、今は消え入りそうなほどに淡い。
「さて。ようやく二人きりだね、バグの少年」
リナは、沈んでいくレオンの身体を影の腕で優しく受け止めた。
「……あたしの隠れ家まで、自力で泳げるかい? それとも、ここで海の塵になるのを選ぶ?」
レオンは答えようとしたが、唇から漏れたのはただの赤い泡だった。
視界が静かに暗転していく。
遠ざかる意識の中で、彼はリセ村の静寂と、冷たくなったルナの指先を思い出していた。
(……まだ、だ……。俺は、泳ぎ切って……見せる……)
遠く深層で、光の届かぬ場所がうごめき、やがて海全体を覆うほどの濁流が蠢き始めていた。
これは、アストレアもカイルも知らない、全く新しい「秩序の崩壊」の予兆。
自らの意志で泳ぎきった代償は重い。
だが、その暗闇の先には、確かに新しい「道」が拓かれようとしていた。
リナが口ずさむ奇妙な鼻歌を子守唄に、反逆のバグは、深い眠りの中へと落ちていった。




