2話 価値観の衝突
「命を計算することの、何が悪い」
カイルが静かに一歩、踏み出す。
その極めて自然な動作一つで、周囲の海流が意志を持ったかのようにうねりを上げた。
本流を流れる莫大なエネルギーがカイルの周囲で渦を巻き、目に見えるほどの高密度な圧力となって、逃げ場のないレオンを四方から押し潰そうとする。
「アストレア様が海流を制御し、最適化しているからこそ、この海域の九割の民は、明日の酸素を心配することなく、飢えも窒息も知らずに眠れる。それがこの数千年の間、一度の狂いもなく維持されてきた平和の形だ」
カイルの声は、どこまでも澄み渡っていた。
そこには一点の私欲も、欺瞞もない。
「だがな――」
白銀の剣先が、レオンの喉元を正確に指し示す。
「お前のような一握りのイレギュラーを生かすために、残りの九割の安定をリスクに晒すわけにはいかない。一人の命を優先し、全体の海流を乱せば、結果として数万の民が酸素不足に陥る。それはもはや、慈悲ではなく罪だ」
一瞬。カイルの胸の奥で、かつて自身の裁定によって記録から消去した「ある名前」が、微かに疼いた。
だが、それを思考の表層に浮かべること自体が、騎士としての彼には許されない禁忌だ。
彼はその疼きを冷徹な理性の底へ沈め、再び無機質な執行者へと戻る。
「その“一握り”の中に――」
レオンの喉の奥から、煮え繰り返るような熱がせり上がってきた。
視界の端に、灰色に染まったリセ村の静寂がよぎる。
祈りを捧げたまま力尽きた老人たち。
彼らはカイルの言う「全体」を救うための、最初から計算式から除外されていた余剰だった。
「俺の家族がいたんだよッ!! 名も知らない数万の平和のために、俺の妹が……あいつらの命が、踏み台にされていい道理がどこにある!!」
(――お兄ちゃん。もう、苦しくないよ)
脳裏に、幻聴とも記憶ともつかない声が響いた。
ルナ。
その声が、力尽きかけていたレオンの心臓を再び激しく叩き起こす。
海底を、爆発的に蹴る。
黄金海流の凄まじい逆圧を真正面から受けながら、レオンの肉体から溢れ出す瑠璃色の魔力が、周囲の物理法則を強引に上書きし、水の壁を真っ二つに割り振った。
ありえない加速。流体学的な正解をすべて踏み潰すような突進。
「何……!? 海流を無視して、加速しただと……!?」
カイルの顔に、初めて明確な驚愕が走った。
通常、魚人は海流に“乗って”戦う。
それがこの世界の武の常識だ。
流れに逆らうことは、すなわち己の体力を浪費し、自壊を待つ愚策でしかない。
だが、レオンは違う。
彼は「流れ」そのものを拒絶し、己の憤怒を推進力に変えて、力ずくで空間を切り裂いてきた。
ガギィィィンッ!!
白銀の細剣と、錆びた守り刀が激突し、水中に衝撃波が走る。
二人の間に生じた高圧の気泡が爆ぜ、黄金の奔流が乱れ飛ぶ。
「答えろ、騎士! 九割を救えば、残りの一割は殺していいと教わったのか!」
「そうだ。それが“正解”だ!」
カイルの剣が閃く。
海流を味方につけたその刺突は、物理的な速度を超え、レオンの肩を掠めて鮮血を舞わせた。
「感情で海を揺らせば、海流は乱れ、世界は腐敗する。秩序とは――痛みを伴って維持されるものだ!」
激突する二つの意思。
錆びた刃に宿る瑠璃色の光は、傷を負うたびにより深く、より鋭く、黄金の本流を切り裂いていく。
それは、アストレアが敷いた「九割の平和」を維持するルールに対する、たった一人の宣戦布告だった。
そして同時に――管理者の計算領域に、初めて刻まれた“致命的な誤差”でもあった。
その瞬間、黄金海流のどこかで、まだ誰にも観測されない歪みが生まれた。
世界はまだ、それが破滅の始まりだとは知らない。




