1話 白銀の壁
黄金海流の本流。
そこは、リセ村の澱んだ沈黙が嘘のような、猛烈な光と情報の奔流だった。
死の海域を泳ぎ抜き、ようやくその境界線に指をかけたレオンを待っていたのは、祝福ではなく、冷徹なまでの「拒絶」だった。
本流を満たす水は、もはや液体ではない。
それはアストレアの膨大な演算、都市運営のログ、そして高密度の魔力が編み込まれた「意思の濁流」だ。
その光の渦に触れるたび、レオンの皮膚には無数の針で刺されるような鋭い痛みが走り、耳の奥では情報のノイズが絶え間なく鳴り響く。
エラを通り抜ける水の一滴一滴が、あまりのエネルギー量に熱を帯び、傷ついたレオンの肺を内側から焼き焦がしていく。
だが、レオンは止まらなかった。瑠璃色の光を帯びた彼の意志が、世界の拒絶を強引にこじ開けていた。
その「歪み」を、世界の免疫システムが見逃すはずもなかった。
「――止まれ。それ以上の遊泳は、海域法第百二十条により禁じられている」
水の振動を切り裂くような、鋭利な声。
視界を焼き切らんばかりの黄金のカーテンを割り、泡一つ立てずに現れたのは、白銀の甲冑に身を包んだ一団だった。
海域連盟直属、第一白銀騎士団。
カジキの吻を模した槍を一斉に突きつけるその動作は、まるで一つの巨大な機械が作動したかのような、寒気のするほどの精密さを誇っていた。
その隊列の中央。
一際輝くマントを翻し、水の抵抗を完全に無視した所作で抜刀した男がいた。
カイル・ヴァン・オーシャン。
管理者アストレアが敷いた「秩序」を、最も忠実に体現する騎士。
彼が手にする細身の長剣は、触れるものすべてを「法則」の名の下に切り裂く、法治の刃だ。
「……信じ難いな。リセ村の廃棄裁定から七十二時間。生存者が現れるなど、アストレア様の計算には存在しない。ましてや、その状態から本流まで泳ぎ着くなど」
カイルの青い瞳が、レオンを射抜く。
その眼差しに憎しみはない。
ただ、完璧に整えられた数式の中に紛れ込んだ、醜い“不要な記号”をどう処理すべきか検討するような、無機質な困惑だけがあった。
「漂流者よ。君の存在は、現在の海域バランスにおいてマイナス四・二パーセントの負荷となる。秩序維持のため、速やかにその身を法に差し出せ」
「……計算だと?」
レオンの声が、喉の奥から這い出す。
脳裏に、最期の瞬間に微笑んだルナの、あの小さく冷たくなってしまった顔がフラッシュバックする。あの温もりは、もう二度と戻らない。
悲しみは、とっくに焼き切れて怒りという名の劇薬に変わっていた。
「俺たちの命は……。あの泥のような闇の中で、一秒ごとにすり減っていった俺たちの時間は……! お前たちにとって、たった数行の計算式の結果に過ぎないのか!」
「そうだ。それが最も効率的であり、最も多くの命を救う『正解』だからだ」
カイルは淡々と答えた。
その声には、一切の迷いがない。
「君一人が死ねば、その分の酸素で別の村の三人が救われる。アストレア様の裁定は、常に全体への慈愛に基づいている。君の怒りは、単なる統計上のノイズだ」
「……ノイズか。なら、そのノイズでお前の綺麗な数式を、根底からぶち壊してやる!」
レオンは、錆びた守り刀を正眼に構えた。
体外へ漏れ出す瑠璃色の魔力は、激しさを増し、周囲の黄金の本流を力ずくで蒼く塗り変えていく。
「理解不能な判断だ。生存本能すら欠如しているのか」
カイルが冷酷に命を下した瞬間、白銀の騎士たちが一斉に突き進んだ。
それは戦いというより、不要な塵を掃き清める掃除に近い。
だが、その初撃がレオンに届く寸前――
――キィィィィィィンッ!!
錆びたはずの刀が、アストレアの加護を受けた白銀の槍を、紙屑のように弾き飛ばした。
本流の「正しい流れ」を無視し、あり得ない角度から振り抜かれた一撃。
「何……!?」
初めて、カイルの瞳が大きく揺れた。
計算通りではない光景。論理を越えた力の奔流。
秩序の体現者である彼にとって、それは生理的な嫌悪に近い驚愕だった。
だが、彼はすぐに冷たい理性で自分を鎮め、剣を構え直す。
レオンの周囲だけが、世界の法則から切り離された独立した戦場と化していた。
「俺は、泳ぐ。……ルナとの約束を果たすまで、お前たちの正義に、沈められてたまるかッ!!」
レオンの咆哮とともに、瑠璃色の奔流が爆発した。
黄金の本流に深く刻まれた、レオンの逆流。
その波紋は、まだ誰も見ぬ「秩序の崩壊」を予告し、海底を、そして静謐の宮をも震撼させようとしていた。




