3話 逆流の獅子
さらに、時は流れた。
かつて管理者の演算によって、一分の狂いもなく統制されていたロータス海域。
そこには今、小さく不格好な、しかし力強い無数の航路が生まれ始めていた。
黄金海流という名の「動く歩道」を失った魚人たちは、自分たちのヒレで、自分たちの行きたい場所へと泳ぐ道を、泥を啜るような試行錯誤の中で作り上げていた。
カイルは、白銀の鎧を脱ぎ捨て、より実戦的で無骨な装備に身を包んでいた。
彼はもはや神の代弁者ではない。
人々が自立して生きるための、最低限の秩序を保つための「護り」の法を編み、自ら現場で汗を流す一人の執行者として、新たな海を支えていた。
リナは、都の最下層にある、かつては禁忌とされていた古の書庫に拠点を構えた。
彼女はそこで、アストレアという管理者の孤独と、レオンという一人の少年の狂気、そして世界が「バグ」によって救われたあの日々の物語を、後世に遺すために書き記し続けている。
そして――。
かつてリセ村があった、静かな砂底。
すべてが始まり、ルナが冷たい砂に還ったあの場所で、レオンは一人、水平線の向こうを見つめていた。
村の残骸は、長い年月の間に海藻に覆われ、静かに海の一部へと戻りつつあった。
アストレアが死に、海流が止まったことで、この場所もまた、かつてのような「管理された僻地」ではなく、ただの不自由で静かな、美しい辺境へと還ったのだ。
「……さて」
レオンは、腰に差した唯一の武器である守り刀の柄を確かめ、小さく呟いた。
背中を力強く押してくれる黄金の海流は、もうどこにもない。
かつては当然だと思っていたその「不自然な追い風」が、いかに不自由なものだったか。
今、自分のヒレだけで水を掻くその確かな重みの感触が、何よりも彼に「生きている」ことを実感させていた。
ふと背後で、水を掻く、不器用で必死な音が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の幼い魚人の姿があった。
まだヒレの筋肉も未発達なその子は、激しく乱れる潮目に翻弄され、何度も沈みかけながら、それでも前へ、前へと進もうとしていた。
アストレアの時代なら、そもそもこんな危険な潮流の場所に子供が立ち入ることさえ許されなかっただろう。
子供は、立ち尽くすレオンに気づくと、一瞬だけ恐怖に顔を歪めた。
だが、その瞳には「助けてくれ」という依存の色はなかった。
ただ、目の前に立つ大人の男を「壁」ではなく「目標」とするような、強い意志の光が宿っていた。
レオンは、何も言わなかった。
手を貸すことも、励ましの言葉をかけることもない。
ただ一度だけ、深く、力強く頷いた。
――自由は過酷だ。
アストレアの予言通り、選んだ者から、挑んだ者から、先に脱落し、先に死ぬ。
けれど、それでも自らの意志で水を掻くその姿こそが、自分が死に物狂いで神から奪い取った「明日」の正体なのだ。
レオンは、再び前を向いた。
冷たい砂を蹴った瞬間、かつてその下に沈んだ妹の、あの小さくて柔らかな体温を、幻のように思い出した。
その温もりを、二度と誰にも管理させない。
その不器用な生の輝きを、誰の計算式にも、もう当てはめさせはしない。
レオンは力強く、かつて絶望に沈んだその海底を蹴った。
管理された偽りの平和ではなく、不完全で、残酷で、しかし確かに自分の熱量で鼓動を刻んでいる「今日」を生きるために。
誰にも頼らず、誰を導くこともなく、ただ一人の「レオン・エルドラド」という生命として。
その孤独な姿を、後に誰かが「逆流の獅子」と呼んだとしても、レオン自身がその名を知ることは、きっと二度とない。
彼は新しい波を立て、未開の海域へと真っ直ぐに泳ぎ出した。
冷たく澄み切った海の底に。
かつての黄金の輝きよりも、ずっと静かで、ずっと熱い、自由という名の鼓動だけが確かに鳴っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
重く、息苦しい物語だったと思います。
それでも、この海域を泳ぎ切ってくれた方がいたことを、作者として嬉しく思います。
またどこかで、お会いできたら幸いです。




