1話 未完の海
ヴォイドラが砕け散り、眩い光が海を満たした。
すべてを無に帰そうとした暗黒の渦は、レオンが放った最後の一撃によって霧散し、その残光が雪のように水底へと降り注いでいく。
長く続いた世界の咆哮が消え去り、耳鳴りがするほどの静寂が、傷ついたエルドラを包み込んだ。
――黄金海流は、もう二度と戻らなかった。
数千年の間、都市を優しく運び、酸素を運び、人々を導いていたあの光の奔流は、アストレアの消滅と共に跡形もなく消え去っていた。
かつて人々が「天からの恵み」と信じ、その流れに乗るだけで幸福を約束されていた道は、今やただの水の澱みとなっていた。
残されたのは、透明で、冷たく、容赦のない海。
神の演算によって調整された温室のような快適さはない。
流れが止まったことで、水温は剥き出しの自然の冷たさを取り戻し、水圧はありのままの重さで人々の肩にのしかかっている。
「……終わった、のかな」
リナが、折れそうな身体をレオンに預け、白白とした光の中を漂いながら小さく呟いた。
彼女の指先からは「澱み」の魔力は消え失せ、今はただ、酷使した筋肉の震えだけが伝わってくる。
レオンは言葉を返さず、ただ静かに周囲を見渡した。
瓦礫の山となった都。機能しなくなった魔導具たち。
そこには、かつての文明の残骸しかない。
だが、その瓦礫の間から、一人、また一人と、魚人たちが顔を出し始めていた。
彼らは戸惑っていた。
どこへ泳げばいいのか。誰に従えばいいのか。
けれど、レオンの視線の先で、一人の男が沈んでいた仲間の腕を引き上げた。
一人の女が、怯える子供を背負い、自分の力で濁った水の中を蹴って上を目指し始めた。
そこに、管理された和音はもうない。
バラバラの方向へ、不格好に、必死にヒレを動かす無数の生命の音。
もう、流れが運んではくれない。
進むなら、自分のヒレで、自分の意志で、冷たい水を掻き分けるしかない。
それは、アストレアが最も恐れ、隠蔽し続けた「不自由な生」だ。
苦しくて、残酷で、明日をも知れぬ地獄。
だが――そこに漂う生命の匂いは、黄金海流の中にいた頃よりも、遥かに強く、確かに
「自分たちの海」に満ちていた。
「……ああ。終わったよ、リナ。……そして、始まったんだ」
レオンは、感覚のなくなった自分の手を見つめた。
この手で、妹を救いたかった。
だが、実際に救ったのは「自分の意志で絶望する権利」だったのかもしれない。
それが正しいかどうかの答えは、歴史のどこにも記されていない。
ただ、目の前で必死に生きようとしている者たちの泡だけが、唯一の正解だった。
「レオン」
背後から声をかけたのは、カイルだった。
彼は折れた細剣を鞘に収め、一人の男としてそこに立っていた。
その笑みは、アストレアに仕えていた頃の模範的な微笑よりも、ずっと人間臭い、疲弊に満ちたものだった。
「管理なき海の初日は、あまりにも冷酷だ。これから、食料の確保、避難所の建設、そして新たな秩序の構築……。私たちは、神がやっていたことを、この不完全な自分たちの手でやり直さなければならん」
「わかってる。……俺は、誰かを導く器じゃないが、自分が壊した世界の『後始末』くらいは、最後まで付き合わせてもらうさ」
カイルは、微かに口角を上げた。
「ならば、行くしかあるまい。……逆流を、俺たちの新しい海流に変えるために」
三人は、瓦礫の海を離れ、差し込む光の方へとゆっくりと泳ぎ出した。
かつてレオンが夢見た「自由」。
それは、誰もが手を取り合うような美しい絵空事ではなかった。
これから、人々は食料を奪い合い、新たな境界線を巡って争い、神の不在を嘆く夜を幾度も過ごすだろう。
けれど、レオンは後悔していなかった。
レオンはふと、水底へと沈んでいった黄金の粒子の中に、ルナの面影を見た気がした。
彼女が最期に望んだのは、管理された安全な死ではなく、兄と共に見た、あの不器用な「生の火花」だったのだと、今は確信できる。
海は、どこまでも広く、どこまでも冷たい。
自分たちを導く地図も、安らぎを約束する神の歌もない。
未完の海。
そこを、人々はそれぞれのヒレで泳ぎ続ける。
逆流の獅子と呼ばれた少年の物語は、ここで終わる。
そして、自分たちの物語を始めた、名もなき数百万の命たちの航海が、今、冷たい波間から静かに幕を開けた。




