3話 誰がためのヒレか
それは、エルドラの長い歴史の中で、一度として観測されたことのない光景だった。
レオン・エルドラドから放たれた瑠璃色の光は、もはや単なる魔力の放射ではなかった。
それは「逆流」という名の意志の感染。
絶望のヘドロに沈んでいた魚人たちの心臓に、無理やり火を灯し、止まっていた思考を動かさせる「生の衝撃」だった。
青白い光が、暗い海域に波紋のように、どこまでも広がっていく。
一人、また一人と、魚人たちが自らの意志でヒレを動かし始めた。
アストレアに命じられたからではない。
レオンに導かれたからでもない。
ただ、自分の隣で泣いている誰かの手を握るために、あるいは、まだ見ぬ明日の酸素を一口でも多く吸い込むために。
管理者の温室から放り出された「野生の命」たちが、初めて自らの意志で、荒れ狂う海へとその身を乗り出した。
「ハッ……。見てるか、アストレア。あんたが『無理だ』って言った奴らが、今、自分の足で立ち上がってるぜ……!」
レオンは、全身の血管が焼き切れるような魔力の負荷に耐え、不敵に笑った。
目の前には、世界を無へと回帰させようとする絶望の権化、《無方向の大渦・ヴォイドラ》が、その巨大な口を開けて待ち構えている。
「リナ! 『澱み』を全部吐き出せ! 渦の外郭を乱して、道を作れ!」
「言われなくたって……やってやるわよ! あたしたちがバグだって言うなら、この世界の終わりごと、書き換えてやるんだから!!」
リナが両手を広げ、全身からコールタールのような黒い魔力を噴出させた。
それはかつてアストレアの庭園を腐らせた「不純物」。
ヴォイドラの均一な虚無の回転に対し、リナの放つノイズが致命的な摩擦となって食い込む。
規則的だった渦の動きが乱れ、その奥底に、実体なき「核」が、ほんの一瞬だけその姿を現した。
「カイル! 盾を頼む! 衝撃のすべてを受け止めろッ!」
「承知した! 騎士の誇り、今こそ貴公の無謀を支えるために使い果たそう!!」
カイルが折れた剣を構え、全身の魔力を「盾」へと変換した。
ヴォイドラから放たれる、精神を摩耗させる虚無の波動。
そのすべてをカイルの白銀の壁が真っ向から受け止める。
肉が裂け、骨がきしむ音がする。それでも、騎士は一歩も引かなかった。
「今だ、レオン!! 行けッ!!」
二人の声が重なった。
レオンは、亀裂だらけの大剣を両手で握りしめ、水の爆発と共に突進した。
周囲には、レオンの背中を追って必死に泳ぐ民たちの姿があった。
彼らが動かすヒレの一つ一つが、アストレアが否定した「自由」の証。
彼らが吐き出す泡の一つ一つが、管理者が予測できなかった「未来」への呼吸。
管理者なき海。
そこは過酷で、残酷で、誰も救ってくれない地獄だ。
それでも、そこには確かに、誰のものでもない「自分たちの鼓動」が響いていた。
「俺たちの行き先は――お前の腹の中じゃない!!」
レオンは、大剣を上段に構えた。
瑠璃色の光と、リナの漆黒のノイズ、そしてカイルの白銀の誓い。
三つの色が混ざり合い、かつて神を殺した時をさえ凌駕する「逆流航路」が、大剣の身を巨大な光の刃へと変えた。
「これは、俺たちが選んだ『間違い』の証明だッ!!」
咆哮と共に、レオンは大剣をヴォイドラの核へと振り下ろした。
ドォォォォォォォォォン!!
世界が白一色に染まるほどの衝撃が走り、ヴォイドラの虚無を、レオンの「存在の意志」が真っ二つに叩き斬った。
渦が悲鳴を上げ、四散する。
光を吸い込んでいた暗黒が霧散し、海域の底に、数千年ぶりに本物の「外界からの光」が、細く、しかし力強く差し込んできた。
静寂が戻った。
だが、それはアストレアの「管理された静寂」ではない。
荒れ果てた瓦礫の海で、生き残った者たちが互いの体温を確かめ合い、荒い息をつく。
「生きている」という、ただそれだけの、しかし最も困難な事実だけがそこにあった。
レオンの大剣は、その一撃の負荷に耐えきれず、今度こそ砕け散って消えた。
レオン自身も、指一本動かす力も残っていない。
だが、沈みゆく身体を支えたのは、リナとカイルの、泥まみれの手だった。
「……勝った、のか?」
カイルの問いに、レオンは差し込む光を見上げながら、短く答えた。
「いいや。……始まったんだよ、カイル」
管理者のいない、正解のない世界。
自分たちで悩み、自分たちで選び、自分たちで死ぬ場所を決める。
それはアストレアが恐れた地獄かもしれない。
だが、今のレオンには、その不自由な自由が、何よりも美しく見えた。
海は、まだ濁っている。
多くの仲間を失い、家を失い、明日食べる酸素さえも自分たちで作り出さなければならない。
けれど、魚人たちのヒレは、もう誰に教えられなくても、しっかりと前を向いて動き始めていた。
神を殺し、地獄を解き放った少年は、自分を支える二人の温もりを感じながら、初めて穏やかに瞳を閉じた。
逆流の果てに見つけたのは、完璧な楽園ではない。
泥だらけの、不格好な、しかし、自らの意志で泳ぐ者たちだけの――「真実の海」だった。




