1話 泥の中の灯火
深く、暗い絶望の底。
かつて光り輝いていたエルドラの都は、いまや色彩を失った墓標の群れと化していた。
瓦礫の陰、わずかに水流が淀んだ場所で、レオンは亀裂の入った大剣を抱えたまま、微動だにせず座り込んでいた。
その瞳からは「逆流の獅子」と呼ばれた鋭い輝きは消え失せ、代わりに、底知れない空虚と、自分自身の選択に対する猛烈な拒絶反応だけが渦巻いている。
ヴォイドラの超低音が、骨の髄まで響く。
それは「もういい、諦めろ」と囁く死神の歌だ。
レオンはその歌に抗う気力さえ失っていた。
自分がアストレアを殺し、扉を開いた。
その結果がこの死体の山なのだとしたら、自分にこれ以上何を語る資格があるというのか。
「……情けない顔。あたしの目も節穴だったね」
不意に、冷たい声が響いた。
リナだ。彼女もまた、魔力の枯渇と負傷で身体を震わせ、今にも倒れそうな状態だった。
だが、彼女の瞳だけは、濁り始めた海水の中でも、呪いのような黒い情熱を灯したままだった。
リナは震える手でレオンの胸元を掴み、無理やりその顔を上げさせた。
泥と血に汚れたレオンの顔。
そこには、神を殺した英雄の面影などどこにもない。
ただ、自分の罪に押し潰された一人の少年がいた。
「自由ってのはさ、青い空を見上げて歌うことじゃないんだよ、レオン」
リナは吐き捨てるように、しかし一文字ずつ刻みつけるように言った。
「自由ってのは……泥水を啜って、自分の内臓を焼くような後悔を抱えて、それでも、まだ足が動くからって理由だけで立つことだ。あんたは世界を檻から出した。誰もが自分たちの
足で泳がなきゃいけない荒野に、強制的に引き摺り出した。
……なら、責任取りなよ。溺れ死ぬ前に、泥水の飲み方くらい教えてから死にな」
「……俺に、何ができる」
レオンの声は、掠れて泡に消えそうだった。
「俺は、みんなを……あの子たちを、殺したんだ。アストレアが言った通りだ。俺がやったのは、ただの虐殺だ……。」
「違うッ!!」
リナが、レオンの頬を鋭く叩いた。
乾いた衝撃が、レオンの意識を強引に現在へと繋ぎ止める。
「あんたは“バグ”なんだよ、レオン・エルドラド!
アストレアが数千年かけて作り上げた、あの完璧で、吐き気のするほど正しい計算式を、たった一振りでぶち壊した唯一の不確定要素だよ!
計算通りに死ぬのが正しいって言うなら、あんたの存在そのものが間違いなんだ。……だったら、最後まで間違い続けなよ!」
リナが、震える指先で瓦礫の彼方を指差した。
そこには、ヴォイドラの虚無に呑み込まれ、意識を失いかけて漂うカイルの姿があった。
白銀の騎士ですら、管理者のいない世界の重圧に耐えかね、魂の火を消そうとしている。
「あいつを見てみなよ。
あいつは、あんたに負けたから絶望してるんじゃない。
……アストレアがいない世界で、『どうやって生きればいいか』を誰も教えてくれなかったから、迷子になってるだけなんだよ。
あんたが壊したんだ。
なら、あんたが新しい道を示せ。
正解じゃなくていい。ただの『抗い方』でいいんだ!」
レオンは、カイルの姿を、そしてその周囲で沈んでいく民たちの姿を、今度は逃げずに凝視した。
彼らは死を望んでいるのではない。
あまりに重い「自由」という選択の権利に、戸惑い、疲れ果てているだけだ。
レオンは、震える手で大剣の柄を握り直した。
掌に伝わる亀裂の感触。
それは、かつて自分が否定した「神の理」の残骸であり、同時に、自分が切り拓いた「地獄」の入り口でもあった。
死を待つ平和、緩やかな全滅を「幸福」と呼んだアストレア。
死の淵に立たされても、泥を啜ってでも、明日を選ぶ「残酷な自由」を叫んだ自分。
どちらが正しいかなんて、もうどうでもいい。
ただ――証明しなければならないのだ。
自由を選ばされた者たちが、虚無に呑み込まれて消えるだけの存在ではないということを。
アストレアの計算を越えて、この絶望の先へ泳ぎ着ける生命であることを。
「……ああ、そうだな。リナ」
レオンは、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。
膝の震えは止まっていない。心臓は悲鳴を上げている。
だが、その瞳には、ヴォイドラの暗黒を射抜くような、瑠璃色の火花が再び宿っていた。
「俺は、英雄になんてなれない。
救世主にも、管理者の代わりにもな。
……俺は、ただのバグだ。計算外のゴミだ。
……だったら、この世界の終わり(バグ)ごと、全部まとめて逆流させてやる」
レオンは大剣を引き抜き、それをヴォイドラの中心へと向けた。
泥の中。
絶望という名のヘドロに塗れたその場所で。
神を殺した少年の意志が、今、再び世界を否定するために輝き始めた。
「カイル! 寝てんじゃねえ! お前が守りたかった連中を、今度は自分の意志で守ってみせろッ!!」
レオンの咆哮が、ヴォイドラの超低音を切り裂いた。
本当の反撃は、ここからだ。




