2話 正義の糾弾
瓦礫の山から這い上がるのは、絶望の泡か、それとも死者の呪いか。
崩落した外壁の影から、一人の男が姿を現した。
「――そうだ。すべてはお前の仕業だ、レオン!!」
背後から叩きつけられたのは、物理的な衝撃よりも鋭い、剥き出しの殺気だった。
振り返った先にいたのは、かつての白銀の輝きを完全に失い、血と泥、そして海水に混じる汚泥にまみれた騎士――カイルだった。
かつてレオンの行く手を阻んだ高潔な盾は、今や見る影もない。
鎧はひび割れ、マントはぼろ布のように引き裂かれている。
だが、その瞳に宿る光だけは、昏い怨念を燃料にして、かつてないほどに激しく燃え盛っていた。
カイルの背後には、彼が命を賭して守るはずだった国の、無惨な残骸が広がっている。
「見ろ……この惨状を! お前が『偽物』と呼んで切り捨てた、この世界の成れの果てを!」
カイルは、切っ先の折れた細剣をレオンの喉元に突きつけ、喉が裂けんばかりの叫びを上げた。
その指先は、怒りと、そしてあまりにも巨大な喪失感によって、止まることなく震えている。
「俺たちは……助けられていたんだ。アストレア様の指先一つ、演算の一行に、十万の命が繋ぎ止められていた。」
「それを……お前は……! 自分の不遇を呪うための理由に、『自由』なんて安っぽい言葉を被せて、そのすべてを壊したんだ!」
「違う、俺は――!」
レオンの声は、自分でも驚くほど弱々しく響いた。
反論しようとした言葉が、目の前に横たわる魚人の死骸に遮られる。
「違わないッ!」
カイルの怒声が、濁った海を震わせる。
「管理者の責任も、アストレア様が背負い続けた永遠の孤独も! お前は何一つ知ろうとしなかった!」
「奪われる痛みだけを叫び、奪い返すために破壊を振りまいた……。お前は、破壊の快楽を『選択』と言い換えただけの、ただの略奪者だ!」
――略奪者。
その言葉が、レオンの心臓を直接貫く。
アストレアから世界を奪い、民から平穏を奪い、代わりに誰も望まなかった「自由という名の荒野」を押し付けた。
今の自分に、その糾弾を跳ね除ける権利など、どこにあるというのか。
「うおおおおおッ!!」
カイルが突進する。
それはもはや、規律正しき騎士の剣ではなかった。
洗練された剣技も、流麗な魔力の操作もない。
ただ、目の前の男をバラバラに引き裂くためだけに、自分の全生命を叩きつけるような、執念の刃。
レオンは、亀裂の入った大剣を咄嗟に構え、その一撃を受け止めた。
ガギィィィィィィィン!!
凄まじい火花が、暗い海中に散る。
重い。
カイルの腕力などではない。
彼が背負わされた、死んでいった数万人分の「絶望」が、剣を通じてレオンの両腕を押し潰そうとしている。
「殺せ……! アストレア様を殺したように、ここで私も殺せ! 英雄レオン! 誰もいない死の海で、自分だけが正しいと、そう自由を謳歌すればいい!」
カイルの剣が、レオンの大剣を削りながら肉薄する。
至近距離で合う視線。
カイルの瞳からは、大粒の涙が海水に溶け落ちていた。
彼は、レオンに勝ちたいのではない。
自分が信じ、守り、そして失ってしまった「正解」の代わりに、誰かを恨むことでしか、その場に立っていられなかったのだ。
「……すまない、カイル」
レオンは、噛みしめた唇から血を流しながら、声を絞り出した。
「お前の言う通りだ。俺がやったことは、ただの破壊だ。……だが、あのまま誰も選ばずに、ただ神の計算機の上で死んでいくのを待つのが、本当に『救い』だったのか!? 」
「泥を啜ってでも、誰かを恨んででも、今こうして死に物狂いでお前が俺に剣を向けている……。この『怒り』こそが、俺たちが生きてる証じゃないのか!」
「黙れッ! 死んだ者たちに、その言葉を吐いてみろ! 死者に証などいらん! 必要なのは、今日を生きるための、穏やかな呼吸だったんだ!!」
カイルの細剣が、レオンの肩を浅く切り裂いた。
痛みが走る。
だが、その痛みさえも、眼前で崩壊を続ける世界の痛みと比べれば、あまりにも微細だった。
二人の剣が交差するたび、周囲の瓦礫がさらに砕け、濁流に消えていく。
レオンは気づいていた。
カイルの攻撃には、もはや自身の生存本能が含まれていない。
彼は、レオンを殺すと同時に、自分もこの地獄の中で終わることを望んでいる。
だが。
レオンは、カイルの剣を跳ね除け、彼を突き放した。
「殺さない」
レオンは、折れかけた大剣を、自らの血で汚れた地面に突き立てた。
「俺を恨め。呪ってもいい。……だが、カイル。お前が死ぬのは、俺を殺した後じゃない。この地獄で、一人でも多くの奴らを引きずり上げた後だ」
「……何だと?」
「管理者がいなくなったんだ。これからは、お前のような騎士が、誰の命令でもなく、自分の意志で誰かを守らなきゃいけないんだ。」
「……俺と一緒に地獄を這え、カイル。それが、生き残ってしまった俺たちの、最低限の責任だ」
カイルは、剣を構えたまま凍りついた。
その時、海域の最深部から、ヴォイドラの咆哮が先ほどよりも遥かに大きく、凶暴に響き渡った。
世界が「無」へと還るカウントダウンが、今、最終段階に入ろうとしていた。




