3話 決着と呪い
激闘の果て。
静謐の宮は、もはやその名の面影もないほどに破壊し尽くされていた。
神の槍がレオンの肉を削ぎ、血が海水を赤く染める。
だが、レオンは止まらなかった。
「理屈なんて……知るかッ!!」
レオンの放った「逆流」は、もはや技ですらなかった。
それは、正解という檻に閉じ込められた魂が放つ、剥き出しの悲鳴だ。
アストレアが数千年の演算で積み上げた魔法障壁。
その「完璧な計算」という名の壁に、レオンの命を燃料にした無秩序な刃が食い込む。
システムに依存せず、誰の許可も求めず、ただ己が今ここに生きているという証明のためだけに燃える剣。
その切っ先が、ついに――アストレアの薄い胸を貫いた。
時間は、止まった。
アストレアの胸を貫いた刃を、レオンはすぐには引き抜けなかった。
指先が、一度だけ止まる。
それは祈りでも、躊躇でもない。
この刃を抜けば、この女が支えていた数百万の命の重みが、すべて自分の両腕にのしかかってくる。
その「戻れない」という事実を確かめるための、わずかな、しかし永遠のような間だった。
アストレアは、溢れる鮮血すら意に介さず、どこか安堵したように微笑んだ。
「おめでとう、レオン。……あなたは今、この世界を私の檻から解き放ち……同時に、奈落へと突き落としたわ」
彼女の身体が、切っ先から淡い光の粒子となって崩れ始める。
「私が毎秒、三百万の個体を“生かすか殺すか”選別し、眠らせていた七つの噴出孔……。その重石は、もう消えた。忘れないで。自由とは、守る者がいなくなるということ。……海は、自ら選んだ者から先に死ぬわ」
海流を、酸素を、温度を制御していた無数の魔力の糸が、一本、また一本と――悲鳴を上げて千切れていく。
最期の言葉は、泡となって消えた。
管理者は、完全に消滅した。
その瞬間。
世界の「重力」が変わった。
「っ、うわああああッ!!」
宮殿が、天地を覆すような衝撃と共に激しく揺れ始めた。
頭上を滔々と流れていた黄金の海流――エルドラの命脈が、制御を失って暴走し、巨大な蛇のように逆巻き始める。
世界から「秩序」という色が急速に抜け落ちていく。
代わりに、海域の最深部、アストレアが蓋をしていた暗黒の深淵から、どす黒い「淀み」が粘り気を持って這い上がってきた。
それは生命の反応を示さない。
だが、明確な意思を持って“応答”していた。
何かを壊そうとしているのではない。
秩序によって歪められた世界を、本来の「無」へと戻そうとする根源的な力。
「……始まったよ、レオン」
リナが、折れそうな脚を震わせ、崩れゆく壁に背を預けて呟いた。
「あんたが選んだんだ。誰も守ってくれない、誰も生かしてくれない……自由という名の、むせ返るような地獄がね」
海域の底から、聞いたこともない咆哮が響き渡る。
無方向の大渦。海全体を飲み込もうとする「正解のない」胎動――ヴォイドラ。
エルドラの民たちが、今この瞬間に目覚め、酸素を失い、冷たい水圧に押し潰されようとしている。
レオンが救いたかった「意志ある生」は、今や最大の危機に直面していた。
「……ああ、わかってるさ」
レオンは、指の骨が鳴るほどに、震える拳を強く握りしめた。
アストレアを殺した剣の重み。
それは、失われた妹の命よりも、遥かに、気の遠くなるほど重い「全生命」の責任。
だが、レオンの瞳から青い炎は消えていない。
彼は、崩壊する宮殿の瓦礫の隙間から、濁り始めた海を真っ向から見据えた。
「守られるだけの平和は終わったんだ。……これからは、溺れながらでも、自分のヒレで泳いでもらう」
たとえ、その先に待つのが破滅だとしても。
他人の天秤の上で「マシな死」を待つよりは、地獄の中で「生きる理由」を足掻く方がいい。
本当の戦いは――
神を殺した男が、世界の代わりになるところから始まる。




