表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ロータス海域戦記  作者: 花竜
第1幕 バグの目覚め
3/9

3話 逆流の始まり

「……ああ、ああああああああッ!!」


肺が焼ける。脳が沸騰する。


細胞の一つ一つが酸素を求めて悲鳴を上げ、視界は真っ赤なノイズに塗りつぶされている。


本来、酸素のない死の静水域で動ける生命など、この海には存在しない。


それはアストレアが定義した「生物の生存限界」という名の、数学的に証明された絶対的なルールだ。


だが、レオンは泳いだ。

管理者が「死」を命じた場所で。

物理法則が「静止」を強いる空間で。


彼は、己のヒレだけで、泥のように重く粘る海水を切り裂いた。


「お兄……ちゃん……」


腕の中で、ルナが最期の力を振り絞って微笑んだ。


その指先がレオンの頬に触れる。


冷たいはずのその感触が、今のレオンには熱せられた鉄のように熱く感じられた。


(生きて……お兄ちゃんは……自由に……泳いで……)


声にはならなかった。


しかし、彼女の瞳が、唇の動きが、確かにそう告げていた。


それが、彼女がこの世界に残した最期の遺言だった。


レオンの頬を撫でようとした手は力なく垂れ下がり、白銀の鱗から命の残り香が完全に失われた。


その瞬間、村からすべての音が消えた。


悲鳴も、泡の音も、水の揺らぎさえも。


世界から一つの魂が零れ落ちたことへの、あまりにも残酷な静寂。


一瞬前まで通い合っていた温もりが、ただの物体へと変わってしまった重みが、レオンの全身にのしかかる。


「ルナ……? おい、ルナッ! 嘘だろ、目を開けろ!」


返事はない。


レオンは咆哮した。


その声は水中で凄まじい気泡となって弾け、彼の周囲に瑠璃色の稲妻のような魔力が迸る。


悲しむ時間は、管理者によって奪われた。


ならば、その悲しみさえも、世界を壊すための燃料に変えてやる。


レオンは妹の亡骸を、村の奥にある静かな岩陰へそっと安置した。


そこは、幼い二人が「いつかこの窮屈な海域を出て、黄金海流の向こう側にある本当の太陽を見に行こう」と約束した場所だった。


彼は傍らに落ちていた錆びた守り刀を手に取った。


村の平和の象徴として祀られ、一度も抜かれることのなかった鈍色の刃。


今のレオンには、それが神話の聖剣よりも鋭く、頼もしく感じられた。


「……見てろよ、アストレア。お前の『正解』が、どれほど脆いものか教えてやる」


レオンは海底を力強く蹴り、弾丸のような速度で村を包む透明な死の境界線を突き抜けた。


その先には、無慈悲に美しく、暴力的に力強く流れ続ける「黄金海流」の本流が広がっている。


リセ村を切り捨て、何事もなかったかのように命を運び続ける黄金の奔流。


この世界の「正義」を象徴するその輝きが、今のレオンには、弱者の死を糧に肥え太る怪物の内臓のように見えた。


ドォォォォォンッ!!


爆音とともに、レオンは本流へと突っ込んだ。


通常の魚人であれば、この猛烈な圧力に触れた瞬間に肉体は粉砕される。


だが、レオンの肉体から溢れ出す瑠璃色の奔流――《逆流オーバーライト》の権能が、世界の圧力をことごとく無効化し、空間そのものを書き換えていく。


彼は、流されることを拒絶した。


巨大な奔流に向かって、真っ向から、逆向きに錆びた刃を突き立てた。


その瞬間、黄金の海に「異変」が起きた。


本来、一方向へ流れるはずの秩序の中に、巨大な亀裂が走る。


付近を泳いでいた群魚たちは生命の本能で異常を察知し、狂乱したように四方へ逃げ惑う。


サンゴの胞子や微小生物が逆巻き、計算外の渦となって弾ける。


『――不確定要素バグを検知』


再び、アストレアの声が耳の奥に響く。


今度は無機質な報告ではなく、数万年の計算で一度も遭遇したことのない事態に対する、明確な「ノイズ」が混じっていた。


『……リセ村の個体。生存率0%の領域で自己運動を継続。理解不能。物理法則の整合性が消失。計算式にあなたの存在を代入できない』


「計算だと? まだそんなことを言っているのか! 俺たちは数字じゃない、生きているんだッ!」


レオンは海流を足場にさらに加速する。


一掻きごとに世界の理が悲鳴を上げ、因果律が軋む音を立てる。


彼の泳ぐ跡には、本来存在し得ない逆向きの流れが蒼銀の光となって尾を引き、黄金の輝きを塗り潰していく。


『排除を開始。秩序の乱れは世界の腐敗を招く。修正準備中。……? 何、これ……私の権能が拒絶されている……?』


アストレアの放った光の槍を、レオンは錆びた刀で横一文字に振り抜いた。


青い閃光が光の槍を情報の塵へと変えて霧散させる。


彼は一度も振り返らなかった。


かつての穏やかな故郷、動かなくなった妹、守りたかった全て。


それらを魂の深淵に刻み込み、彼はただ光の源流へと突き進む。


彼が逆らって泳ぎだしたその一歩。


それは、数千年に及ぶアストレアの完璧な統治に初めて刻まれた「致命的な亀裂」だった。


「……自由だ。俺は、誰にも縛られず、泳ぐ」


黄金の海流を切り裂き、孤独な「バグ」は加速する。


ロータス海域を揺るがす、過酷で残酷だが、何よりも自由な戦記。


その幕が、今、完全に切って落とされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ