2話 正義の重さ
「百を殺して、十万を救う」
アストレアの声は、深海の底に沈む石のように硬く、冷たかった。
彼女の指先は、今この瞬間も光の糸を弾き、どこかの海域で不足した酸素を、別の海域から掠め取って融通している。
その一挙手一投足が、誰かの生存を確定させ、同時に誰かの死刑執行書に無機質に署名し続けているのだ。
「それが、私の正義。数千年の間、私がこの祈りの座で守り抜いてきた、唯一の真実よ」
アストレアは、感情の欠落した瞳でまっすぐにレオンを見据えた。
「……ねえ、レオン。あなたは私を切り伏せるためにここまで来た。けれど、その剣を振り下ろした瞬間に何が起きるか、理解しているの? 私を殺し、私が維持しているこの薄氷の均衡を破壊して……この海を漂う無数の民を、道連れにする勇気が、あなたにある?」
「……っ……!」
レオンの足が、凍りついたように止まった。
剣を握る右手が、これまでにないほど激しく震える。
カイルや四天王と対峙した時のような、命のやり取りに伴う高揚感は微塵もなかった。
そこにあるのは、自らの一振りが数多の赤子の産声を止め、穏やかな家庭を水圧の藻屑に変えてしまうという、耐えがたい「加害」の予感。
レオンは、理解してしまったのだ。
この女もまた、誰にも代わってもらえない場所で、たった一人でこの地獄を回し続けている。彼女自身が、自分が作り上げた「正解」という名の檻に最も深く繋がれた囚人なのだと。
「……事実さ、レオン」
背後で、自らも満身創痍のリナが、血の混じった唾を吐き捨てて言った。
「この女は、エルドラという巨大な生命維持装置の『心臓』そのものだ。心臓が止まれば、今の“管理された平和”は、文字通り一瞬で瓦礫に変わる。アストレアという演算機が消えれば、海流は淀み、水温は乱高下し、誰もが平等に、惨めに窒息する地獄が始まるわ」
「そう。一度、均衡を崩せば、もう二度と元には戻らない。……私はもう、失敗できないのよ。この完璧な静寂だけが、彼らに与えられる唯一の慈悲なのだから」
アストレアの言葉には、一片の嘘もなかった。
彼女は私欲でこの海を支配しているのではない。
むしろその逆だ。彼女は世界を維持するために、自らの心を殺し、数え切れない怨嗟を背負い、永遠に続く管理作業という名の刑期を務めている。
静謐の宮に、レオンの荒い呼吸だけが響く。
アストレアの正義は、あまりにも巨大で、あまりにも正しかった。
それに抗う自分の言葉は、ただの「わがまま」ではないのか。
妹の仇を討ちたいという個人的な感情のために、無関係な数万の命を危険にさらす。
それは、アストレアがやっている「間引き」よりも、さらに質の悪い独善ではないのか。
「……それでも……ッ!」
レオンは、震える右手に左手を添え、折れかけた大剣を再び握り直した。
俯いていた顔を上げたとき、その瞳には、絶望の淵で燃え上がる青い炎が宿っていた。
「誰かが勝手に決めた天秤の上で、死ぬ順番を待つだけの平和なんて――俺は、認めない!」
絞り出した声は、次第に熱を帯び、神殿の壁を震わせる。
「あんたは『救っている』と言った。だが、その数万の奴らは、自分が死にかけていることさえ知らされず、あんたが差し出す酸素の配給に縋って、ただ生かされているだけだ! それのどこが『生きている』って言えるんだ!」
「知らぬが仏、という言葉もあるわ。絶望の中で喘ぐより、何も知らずに午睡の中で死ぬ方が、幸福だとは思わない?」
「思うわけねえだろッ! 全員に、自分のヒレで泳がせろ! 運命を、他人の計算に預けさせるな! 明日死ぬとしても、今日をどう生きるか選ぶ権利を……奴らから奪うなッ!!」
論理ではない。
それは、システムそのものが最も嫌う「非効率な生命の輝き」だった。
「……傲慢ね、レオン」
アストレアが、初めてわずかに眉を寄せ、悲しげに告げた。
「選ぶことは、死ぬことよりも過酷なのよ。自らの意志で誰かを見捨て、自らの意志で飢えを選ぶ。その重みに、あの民たちが耐えられるとでも? 自由とは、孤独に耐える強者だけに許された贅沢よ」
アストレアの杖が、静かに掲げられた。
「さようなら、レオン。あなたの青臭い志ごと、この深い海の底で、永遠の安らぎを与えてあげる」
瞬間、静謐の宮を満たしていた海水が、巨大な槍となってレオンへと襲いかかる。
海そのものが牙を剥く、圧倒的な絶望。
神の正義という名の水圧が、レオンの全身をきしませる。
槍が放たれた。
不可避の死が、レオンの視界を埋め尽くした。




