1話 静謐の宮
四天王という防壁をすべて突破し、たどり着いた世界の最果て。
エルドラ海域の最深部――そこは、すべての海流が収束し、再び世界へと放たれる「世界の心臓部」だった。
リナに支えられ、引きずるような足取りでレオンが踏み込んだのは、管理者アストレアの居城、《静謐の宮》。
そこは、これまでの絢爛豪華な都とは一線を画す、無機質な美しさに満ちた空間だった。
巨大な円形広間を埋め尽くしているのは、無数の「光の糸」だ。
数千万という細い光の線が網の目のように交差し、空間全体が巨大な演算器の内部であることを示している。
その中心。蓮の花を模した玉座に、一人の女性が座していた。
管理者、アストレア。
彼女は目を閉じ、指先をわずかに、ピアノの鍵盤を叩くように動かしていた。
その指先の微動に合わせ、空間を走る光の糸が震える。
世界中の海流を微調整し、数百万の魚人たちの呼吸を維持する「神の演算」――その説明の間も、彼女の指先が止まることは一度としてなかった。
誰かの死を語りながら、同時に別の誰かの命を繋ぐ。
彼女にとって対話とは、演算のバックグラウンドで行われる「ノイズ処理」に過ぎないのだ。
「……来たのね。死ぬべき場所で、死ぬことを拒んだ……不確定要素」
アストレアが静かに顔を上げた。
その瞳に、個人の感情は存在しない。
映っているのは、海全体の生存率という冷徹な「数字」だけだ。
「なぜだ……! なぜなんだ、アストレア!!」
レオンが、肺の奥から絞り出すような叫び声を上げた。
亀裂の入った大剣を抜き、震える手で彼女を指す。
「なぜ、俺たちの村を消した! 秩序だの、均衡だの……そんな言葉一つで、ルナの命を、ゴミみたいに切り捨てたのか!」
「そうよ、レオン」
アストレアは、瞬きもせずに淡々と答えた。
「そこに個人的な悪意は混じっていない。ただの、選択よ」
彼女が杖を振るうと、広間の床に巨大なホログラム海図が展開された。
かつて生命の輝きを放っていたであろう地図は、今や全域が不吉な深紅色に染まり、末期的な酸欠状態にあることを示していた。
「見て。何もしなければ、一年以内にこの海域の九割が腐敗し、すべての生命は窒息して死に絶える。これが、私が直面している現実よ」
アストレアの指が、地図の端をなぞる。
「私は、残りの一割を確実に生かす道を選んだ。」
「そのために、あなたの村を含む『末端』への海流供給を遮断し、中心部に酸素を集中させたのよ。」
「ルナという少女が死んだのではない。私が、彼女の分の酸素を、エルドラで暮らす別の子供へと回した。……それだけのことよ」
レオンの全身から、力が抜けそうになった。
彼は理解してしまったのだ。この女が、一分の嘘も吐いていないことを。
私欲でも狂気でもなく、冷徹なまでの「正解」を積み上げた結果が、妹の死だったのだと。
理解してしまったからこそ、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「……それでも」
アストレアの声に、わずかな陰が差す。
「その一割が、永遠に生きられる保証はない。私はただ、滅びの時間をわずかに遅らせているに過ぎない。この檻は、緩やかな全滅を待つための待合室よ」
「……っ、ふざけるな……!」
レオンの身体が、怒りと絶望で激しく震える。
「それだけのことだと!? 誰が生きて、誰が死ぬか……。それをあんたが勝手に決めるのが、あんたの言う『愛』なのか!」
「そうよ。誰かが汚れ役を引き受けなければ、この海はとっくに墓場になっていた」
アストレアは、玉座からゆっくりと立ち上がった。
彼女が立ち上がると同時に、宮殿内の光の糸が激しく発光し、巨大な圧力となってレオンたちにのしかかる。
「レオン。あなたの怒りは正しい。けれど、あなたの『自由』は、この一割の命さえも道連れにする無責任な暴力だということを、理解しなさい」
神の理屈が、レオンの個人的な悲劇を飲み込んでいく。
それは正論という名の、この世で最も強固な檻だった。




