2. 二重の絶望
レオンの全身を、冷たい汗とどろりとした鮮血が交互に伝い落ちる。
カイルとの死闘で限界をとうに超えた肉体は、もはや精神の命令を拒絶し始めていた。
大剣の柄を握りしめる右手の感覚はなく、ただ剣の重みだけが「自分はまだ武器を捨てていない」という事実を辛うじて繋ぎ止めている。
一方のリナの状態は、さらに深刻だった。
禁忌の魔力――自らの影を削り、泥を啜るような代償を払った彼女の肌には、呪いのような黒い痣が血管に沿って幾何学模様を描いている。
その瞳は濁り、立っていることさえ奇跡に近い。
その、生命の灯火が消えかけた二人の前で、マーラが不気味に、慈愛に満ちた笑みを深めた。
「ほら、死ぬのが怖いんでしょ? 可哀想に……。でも安心して。私の可愛い子たちが、あなたを『完成』させてあげるわ」
マーラが掲げた黄金の香炉が、大きく、ゆっくりと弧を描いた。
溢れ出した紫の霧――アストレアの管理下で極限まで「生命力」を尖らせた、肉眼では捉えきれないほど微小な生物群の塊が、レオンを包み込む。
「……っ、が……っ!? あ、あああああッ!!」
レオンの絶叫が、海水を震わせる。
傷口から、制御不能な速度で肉芽が、ブクブクと泡を立てて盛り上がっていく。
それは暴力的なまでの「生存」の強要だった。
肉が、骨が、本来あるべき形を無視して自己増殖を開始する。
(止まれ、止まれ……! 俺の身体だ、勝手に動くんじゃない……!)
痛覚は麻痺し、代わりにあるのは、自分の肉体が「自分のものではない異形」へと変質していく、吐き気を催すほどの違和感。
そして、恐ろしいことに「時間の感覚」さえもが狂い始めていた。
肉が膨れ上がるこの数秒が、永遠の苦悶のようにも、あるいはコンマ数秒の出来事のようにも感じられる。
アストレアの庭園は、レオンの認識さえも演算の一部として支配していた。
「あら、喜んで? 腐ることさえ許されない、永遠の命を与えてあげる。アストレア様の庭に咲く、知性のない、ただひたすらに生き続けるだけの『肉のオブジェ』。素敵だと思わない?」
マーラの言葉は、母が子をあやすように優しかった。
だが、その愛は自由を何よりも尊ぶレオンにとって、どんな拷問よりも残酷なものだった。
「リ、リナ……っ!」
レオンは増殖する肉の重みに耐えかね、縋るように隣のリナへ手を伸ばした。
しかし、その指先が彼女に触れることはない。
キィィィィィィィン……ッ!!
耳を劈くような高周波の音と共に、ゼノが短剣を一閃した。
レオンが一歩踏み出したはずのその足元で、空間そのものがゴムのように引き伸ばされる。
リナまではわずか一メートルの距離。
だが、その一メートルが、ゼノの権能によって数メートル、あるいは数万メートルもの「絶対的な距離」へと変質した。
「お前の自由は、他者との完全な断絶によってのみ完成する。独りきりの深淵で、その志ごと朽ち果てろ」
伸ばした指先が、空を切る。
リナの姿が蜃気楼のように遠のいていく。
一方、リナの視点では、レオンの全身が紫の霧に呑まれ、不気味な肉の塊へと膨れ上がっていく様が、音もなく遠ざかっていく。
彼女が叫ぼうとしても、その声はゼノが敷いた「無音の境界」に吸い込まれ、一文字もレオンには届かない。
自分と世界を繋いでいたあらゆる「糸」が、ゼノの冷徹な短剣によって一本ずつ丁寧に、切断されていく。
(ああ、……独りだ)
肉体はマーラの抱擁によって「個」を溶かされ、精神はゼノの境界によって「個」を閉じ込められる。
肥大化した肉の重みに耐えきれず、レオンはゆっくりと、海底へと膝を折った。
膝を打つ衝撃さえもが、数分遅れて脳に届く。
海が、これほどまでに暗く、冷たいものだったのか。
(……ここまで、なのか。……俺、は……)
視界が真っ白に染まっていく。
意識の糸がぷつりと切れる、その直前。
レオンの耳の奥に、かつてどこかで聞いたような「不快な音」が響いた。
それは救いの音色ではない。
硝子にひびが入るような、精密機械が噛み合う隙間に砂利を放り込んだような——。
アストレアの完璧な楽譜を物理的に引き裂く、醜悪で力強い「不協和音」だった。




