2話 窒息の静寂
海流が止まってから、永遠とも思える一時間が経過した。
かつて生命の躍動に満ちていたリセ村は、今や巨大な棺桶と化していた。
海流を失った水域は、急激にその鮮度を失っていく。
水はもはや魚人たちの体を支える慈悲深いゆりかごではなく、重く、粘ついた、冷酷な液体へと変質していた。
レオンの視界の中で、かつての「日常」が一人、また一人と物言わぬ肉塊に変わっていく。
広場の隅では、いつも威勢よく魚を捌いていた漁師の男が、愛用の鉤爪を握りしめたまま、砂地に突っ伏していた。
その傍らでは、彼が可愛がっていた小さな観賞用の銀魚が、酸素のない水中で力なく腹を見せ、水面へと浮いていく。
祠の階段では、若い父親が自分のエラを両手で塞ぎ、わずかに残った酸素を窪みに押し込んだ我が子に吸わせようと、必死に息を止めていた。
だが、その献身も虚しく、父親の身体は痙攣を起こし、やがて静かに沈んでいく。
それは「虐殺」ですらなかった。ただの「整理」だ。
そこにあるのは、死の匂いと、圧倒的な「無視」の匂いだ。
自分たちは誰かに殺されているのではない。
単に、計算機の外側に追いやられ、存在を忘却されているのだ。
「……は、ぁ……っ、お兄、ちゃん……」
腕の中のルナが、震える指先でレオンの服を掴んだ。
彼女の美しい銀色の鱗は、もはや光を反射せず、泥のような灰色に濁り始めている。
「ルナ! 目を開けろ、寝るな!」
レオンは叫んだ。
だが、思考の端々で、かつての記憶が不快なほど鮮やかにフラッシュバックする。
黄金海流に守られ、何の疑いもなく笑っていた幼い頃の自分。
アストレアを慈悲深い母のように慕い、「この海に生まれて幸せだね」とルナと語り合った純粋な記憶。
(……ああ、そうか。あれは幸福なんかじゃなかった)
あの輝きは、屠殺場に引かれる家畜に与えられた、最後のご馳走に過ぎなかったのだ。
その時、酸素欠乏で混濁したレオンの意識の奥底に、ある「声」が響いた。
それは水の振動でも、魔法の詠唱でもない。
もっと高次元から、世界の仕組みそのものを読み上げるような、冷徹で、透き通るほどに美しい女性の声。
『――リセ村。廃棄率、99.9%。秩序の維持に支障なし』
心臓が跳ね上がった。
その声には、一片の感情さえも含まれていなかった。
それは、枯れた枝を一本切り落とした庭師の報告であり、あるいは、使い古した道具をゴミ箱へ捨てた管理人の記録に過ぎなかった。
その声の主が誰であるか、レオンは直感的に悟った。
《静謐の宮》で世界の拍動を司る、絶対の管理者――アストレア。
「ふざけるな……!」
レオンの喉から、血の混じった掠れた叫びが漏れる。
「秩序のために……俺たちの命が、支障なしだと……? ルナを、この村を……ただの数字として消すというのか……!」
ルナを掴んでいた手が、力なく解けていく。
彼女の瞳から光が消え、世界が急速に遠のいていく。
その瞬間。
レオンの胸の奥で、何かが爆ぜた。
それは、これまで彼を形作っていた「秩序」への従順さの崩壊だった。
怒りでも、悲しみでもない。
世界そのものへの、根源的な「拒絶」。
「俺の命は、俺のものだ」という、システムに対する致命的なエラーコード(バグ)。
「ああああああああああああああッ!!」
レオンの身体を、青白い微光が駆け巡る。
管理者が定めた「死を待て」という海流の命令。
物理法則という名の絶対的なプログラム。
それが、レオンの意志に触れた瞬間――ガラス細工のように、音もなく粉々に砕け散った。
彼の周囲の水が、ありえない現象を起こし始めた。
止まっていたはずの海水が、レオンの毛穴から噴き出す魔力によって強制的に励起され、渦を巻く。
アストレアの計算式を真っ向から否定する、世界で唯一の、不確定要素の目覚めだった。
その時。
意識の奥底で、アストレアの声が僅かに、本当に僅かに揺れたのをレオンは聞き逃さなかった。
『……? 不確定要素、確認。……(数ミリ秒の沈黙)。……いいえ、あり得ない。計算式を修正します』
完璧な機械のようだった彼女の声に混じった、一瞬のノイズ。
それは驚愕か、あるいは、何千年も待ち望んでいた「崩壊」への安堵か。
レオンは、焦点の合わない瞳で、虚空を睨みつけた。
「……上書きしてやる。お前が作った、その綺麗な地獄を……全部、俺が叩き壊してやる」
青白い光は激しさを増し、澱んだ闇を切り裂いた。
それが、ロータス海域の長い沈黙を破る、反逆の産声だった。




