3話 リナの秘策
虚無の闇。
レオンの意識が、セレナの放つ不可視の槍に貫かれようとしたその刹那。
五感を封じられたレオンの「外側」で、もう一つの戦いが臨界点を迎えていた。
「レオン、聞きなさい! ……ああもう、聞こえないんだったね、今のあんたには!」
不協和音の責め苦に喘いでいたリナが、震える手で自身の指先を思い切り噛み切った。
傷口から溢れ出したのは、鮮血ではない。
どろりとした、海水の光さえ吸い込むような「黒い泥」——物理法則を拒絶するような、不気味な魔力の奔流だった。
それは彼女がかつてアストレアの書庫から盗み出し、自身の体内に「呪い」として封印し続けてきた、この世界の理に反する禁忌の魔力の一部だ。
「これでも喰らいな! セレナ! あんたの自慢の『完璧な調和』なんて、あたしの『ノイズ』でぶち壊してやる!」
リナが咆哮し、黒い飛沫を全方位に撒き散らした。
泥はエルドラの清浄な海水に混ざり合うことなく、インクを落としたように急速に拡散していく。
それはアストレアが定義した「美しき秩序」を根底から否定する、純粋な『不調和』そのものだった。
キィィィィィィィン……ッ!?
完璧に管理されていた「黄金の振動」が、黒い泥に触れた瞬間、醜く歪んだ。
透き通っていた高周波の音色が、錆びた鉄板を爪で立てたような不快な雑音へと変質していく。
「……っ!? な、何よ、この不快な魔力は……音が、濁る……! 私の聖なる楽譜が……汚されていく……ッ!!」
セレナの瞳に、初めて困惑、そして「理解できないもの」への恐怖が宿った。
調和できない。
測定できない。
——そんな“存在”が、アストレアの計算通りの都にあるはずがなかったのだ。
リナの魔力が止まった瞬間、彼女の膝がガクリと崩れ落ちた。
その足元の影が、一瞬だけ彼女の意思とは無関係にドロリと蠢き、彼女自身の肉体を侵食しようとする不穏な予兆を見せたが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。
「ハッ……、ぁ……ッ!」
レオンの脳内に、爆音のような静寂が訪れた。
次の瞬間、遮断されていた「世界」が、濁流のような勢いで彼の中に逆流してきた。
まず「音」が戻った。セレナの悲鳴、リナの荒い息遣い。
次に「光」が戻る。真っ黒だった視界が、火花を散らすようなノイズと共に明度を取り戻していく。
そして最後に「触覚」と「重力」が戻った。
自分の足が地面を掴んでいる感触、そして——全身に刻まれた、無数の切り傷の熱い痛み。
「……見える、ぞ……ッ!」
ぼやけた視界の先。
優雅だった笑みを消し、顔を醜く歪めて耳を押さえるセレナの姿を、レオンの瞳が確実に捉えた。
「よくも……よくも私の演奏を台無しにしたわね、出来損ないの影使いがぁッ!」
セレナの殺気が膨れ上がる。
音叉をリナへと向けたその動作は、
もはや「最適化」された神の技ではない。
焦りと怒りに任せた、ただの暴力へと成り下がっていた。
「……お前の相手は、俺だ」
レオンの手にする大剣が、リナの放った黒い泥と共鳴するように、鈍い瑠璃色の光を放ち始める。
「黙りなさい、ノイズの一部がッ! 狂いなさい、死に絶えなさい!」
セレナが狂ったように音叉を打ち鳴らす。再びレオンの視界が歪む。
だが、リナが撒き散らしたノイズが、セレナの干渉を中和する「盾」となっていた。
感覚が狂い切る前に、レオンの身体はすでに「次の答え」を導き出していた。
五感を奪われた中で味わった「痛み」は、もはや恐怖の対象ではない。
それは、偽造された世界の中に残された、唯一の「真実の座標」だ。
「お前の『音楽』は、もう飽きたんだよ」
レオンが一歩、踏み出す。
不規則に波打つ海流を逆に利用し、最短距離でセレナの懐へと肉薄する。
「なっ……動けるはずがないわ! 感覚を、再調整——」
「遅ぇよ」
レオンの大剣が、黒い泥を切り裂いて一閃した。
「逆流」の魔力を乗せた一撃が、セレナの持つ巨大な音叉に正面から叩きつけられる。
黄金の調べと、瑠璃色の逆流。
対極にある二つの力が激突し、エルドラの広場に巨大な衝撃波が吹き荒れた。
だが、その爆光の中心で、ひび割れた音叉が、悲鳴のような共鳴を上げ続けていた。




