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ロータス海域戦記  作者: 花竜
第5幕:感覚の守護者
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3話 リナの秘策

 虚無の闇。


 レオンの意識が、セレナの放つ不可視の槍に貫かれようとしたその刹那。


 五感を封じられたレオンの「外側」で、もう一つの戦いが臨界点を迎えていた。


 「レオン、聞きなさい! ……ああもう、聞こえないんだったね、今のあんたには!」


 不協和音の責め苦に喘いでいたリナが、震える手で自身の指先を思い切り噛み切った。


 傷口から溢れ出したのは、鮮血ではない。


 どろりとした、海水の光さえ吸い込むような「黒い泥」——物理法則を拒絶するような、不気味な魔力の奔流だった。


 それは彼女がかつてアストレアの書庫から盗み出し、自身の体内に「呪い」として封印し続けてきた、この世界のことわりに反する禁忌の魔力の一部だ。


 「これでも喰らいな! セレナ! あんたの自慢の『完璧な調和』なんて、あたしの『ノイズ』でぶち壊してやる!」


 リナが咆哮し、黒い飛沫を全方位に撒き散らした。


 泥はエルドラの清浄な海水に混ざり合うことなく、インクを落としたように急速に拡散していく。


 それはアストレアが定義した「美しき秩序」を根底から否定する、純粋な『不調和ノイズ』そのものだった。


 キィィィィィィィン……ッ!?


 完璧に管理されていた「黄金の振動」が、黒い泥に触れた瞬間、醜く歪んだ。


 透き通っていた高周波の音色が、錆びた鉄板を爪で立てたような不快な雑音へと変質していく。


 「……っ!? な、何よ、この不快な魔力は……音が、濁る……! 私の聖なる楽譜が……汚されていく……ッ!!」


 セレナの瞳に、初めて困惑、そして「理解できないもの」への恐怖が宿った。


 調和できない。


 測定できない。


 ——そんな“存在”が、アストレアの計算通りの都にあるはずがなかったのだ。


 リナの魔力が止まった瞬間、彼女の膝がガクリと崩れ落ちた。


 その足元の影が、一瞬だけ彼女の意思とは無関係にドロリと蠢き、彼女自身の肉体を侵食しようとする不穏な予兆を見せたが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。


 「ハッ……、ぁ……ッ!」


 レオンの脳内に、爆音のような静寂が訪れた。


 次の瞬間、遮断されていた「世界」が、濁流のような勢いで彼の中に逆流してきた。


 まず「音」が戻った。セレナの悲鳴、リナの荒い息遣い。


 次に「光」が戻る。真っ黒だった視界が、火花を散らすようなノイズと共に明度を取り戻していく。


 そして最後に「触覚」と「重力」が戻った。


 自分の足が地面を掴んでいる感触、そして——全身に刻まれた、無数の切り傷の熱い痛み。


 「……見える、ぞ……ッ!」


 ぼやけた視界の先。


 優雅だった笑みを消し、顔を醜く歪めて耳を押さえるセレナの姿を、レオンの瞳が確実に捉えた。


 「よくも……よくも私の演奏を台無しにしたわね、出来損ないの影使いがぁッ!」


 セレナの殺気が膨れ上がる。


 音叉をリナへと向けたその動作は、


 もはや「最適化」された神の技ではない。


 焦りと怒りに任せた、ただの暴力へと成り下がっていた。


 「……お前の相手は、俺だ」


 レオンの手にする大剣が、リナの放った黒い泥と共鳴するように、鈍い瑠璃色の光を放ち始める。


 「黙りなさい、ノイズの一部がッ! 狂いなさい、死に絶えなさい!」


 セレナが狂ったように音叉を打ち鳴らす。再びレオンの視界が歪む。


 だが、リナが撒き散らしたノイズが、セレナの干渉を中和する「盾」となっていた。


 感覚が狂い切る前に、レオンの身体はすでに「次の答え」を導き出していた。


 五感を奪われた中で味わった「痛み」は、もはや恐怖の対象ではない。


 それは、偽造された世界の中に残された、唯一の「真実の座標」だ。


 「お前の『音楽』は、もう飽きたんだよ」


 レオンが一歩、踏み出す。


 不規則に波打つ海流を逆に利用し、最短距離でセレナの懐へと肉薄する。


 「なっ……動けるはずがないわ! 感覚を、再調整リチューニング——」


 「遅ぇよ」


 レオンの大剣が、黒い泥を切り裂いて一閃した。


 「逆流」の魔力を乗せた一撃が、セレナの持つ巨大な音叉に正面から叩きつけられる。


 黄金の調べと、瑠璃色の逆流。


 対極にある二つの力が激突し、エルドラの広場に巨大な衝撃波が吹き荒れた。


 だが、その爆光の中心で、ひび割れた音叉が、悲鳴のような共鳴を上げ続けていた。


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