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ロータス海域戦記  作者: 花竜
第5幕:感覚の守護者
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2話 五感剥奪

 いつの間に距離を詰めたのか、セレナの気配がすぐそこにあった。


 セレナは、愛おしそうに巨大な音叉の表面を指先でなぞった。


 「脳はね、外の世界を直接見ているわけじゃないのよ。ただ、神経が運んでくる電気信号を信じているだけ。」


一拍、音叉が鳴る。


「……だから、その信号コードを書き換えてあげれば――」


「世界は、簡単に作り直せるの」


 彼女が音叉の端を、弾くように軽く叩いた。


 ――キィィィィィィィン……!!


 水中を伝う、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な高周波の振動。


 その瞬間、レオンの世界からすべての「音」が消失した。


 泡の弾ける音も、海流の唸りも、自分の荒い呼吸音さえも。


 目の前でリナが必死に何かを叫び、口を動かしているのが見える。


 だが、そこからは空気の振動ひとつ伝わってこない。


 まるで、音の存在しない無声映画の中に放り込まれたかのようだった。


 (次は、何だ……!?)


 焦燥がレオンの心臓を叩く。


 だが、恐怖に浸る猶予さえ与えられない。


 急速に、視界が端の方から煤けていった。


 鮮やかだった都の燐光も、不気味な紫色の海水も、すべてが濃密な墨汁をぶちまけたような暗黒に呑み込まれていく。


 さらに、追い打ちをかけるように「触覚」が死んだ。


 全身を包んでいた水の感触、海底を踏みしめていた足裏の硬さ、大剣の柄を握る手の質量。


 それらすべてが、一瞬にして消失した。


 自分が泳いでいるのか、沈んでいるのか。


 あるいは上下逆さまの体勢なのか。


 どこまでが自分の肉体で、どこからが海なのか。


 境界線が溶け、レオンの意識は広大な虚無の宇宙を漂う「ただの点」へと堕とされた。


 「無意味よ、レオン。魚人の『側線そくせん』も、視覚も、平衡感覚も……すべては物理的な振動に過ぎないわ」


 暗闇のどこからか、セレナの声だけが脳内に直接響く。


 「私の音叉は、その振動を完璧に上書きし、あなたを完全な虚無へと突き落とす。今のあなたは、宇宙に捨てられたただの思考の残滓。……ほら、これが今のあなたが感じられる、唯一の『現実』よ」


 ドシュッ!!


 暗闇の中で、レオンの左肩に焼けるような激痛が走った。


 「……っ、が……あッ!!」


 見えない、聞こえない、何が起きたのかさえ分からない。


 ただ、結果としての「破壊」と「痛み」だけが、暴力的な唐突さで訪れる。


 それはセレナが放った、超高圧の水の針だ。


 視覚を奪われたレオンにとって、それは死神の指先が触れたも同然だった。


 (くそっ……! どこだ、どこにいる……!)


 レオンは闇雲に大剣を振り回した。


 だが、目標を失った剣は重い海水を切り裂くだけで、空しく空を切る。


 剣を振るほどに、自分の位置情報を相手に与えている。


 それ以上に――「振れている」という感覚そのものが、すでにセレナに偽造されている可能性がある。


 自分の振るった剣が、今この瞬間、自分自身を切り裂いていないという保証さえ、どこにもなかった。


 レオンは、剣を振るのを止めた。


 虚無の中で、ただ、傷つくことを受け入れるように全身の力を抜く。


 「あら、絶望したのかしら? 美しいわ……その静かな崩壊の音。もっと聴かせて、あなたの精神が歪んでいく最高の調べを」


 セレナはわずかに肩を震わせた。笑っているのだと、レオンは直感した。


 それは声にならない、しかし確かに強烈な「快楽」を含んだ反応だった。


 ズバッ!!


 右足の太ももが深く裂かれた。


 痛覚だけが研ぎ澄まされ、暗黒の中で「どこを斬られたか」だけは嫌というほど鮮明に理解できた。


 その絶望の淵で。


 闇の中から、一瞬だけ右肩に微かな重みを感じた。


 温かな、しかしすぐに消えてしまうような触感。


 それは幻覚でもセレナの罠でもなかった。


 術式を封じられたリナが、必死に伸ばした影の残滓。


 「一人じゃない」


 五感を遮断された闇の中で、その微かな揺らぎだけが、レオンの魂を現実へと繋ぎ止める錨となった。


 皮肉にも、セレナが与える「苦痛」と、リナが遺した「体温」だけが、レオンがまだ生きていることを証明する唯一の座標となっていた。


 (……何も聞こえない。何も見えない。……だが、そこに『何か』が来ていることは分かる)


 「じゃあ、最後に心臓を奏でてあげましょう」


 セレナが音叉を大きく突き出す。


 水の針ではない。


 音波を収束させた、不可視の槍。


 それがレオンの胸を貫こうとしたその瞬間、レオンの瞳の奥で、消えかかっていた瑠璃色の光が「逆流」し始めた。


 それは視覚でも、聴覚でもない。


 奪われたはずの“感覚”とは別の、生物が進化の過程で切り捨てた「純粋な殺意への応答」。


 もっと原始的な生存の直感が、確かに脈打ち始めていた。


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