1話 黄金の檻の陥穽
警報がエルドラの静寂を切り裂いたその瞬間、世界の色が塗り替えられた。
先ほどまで都を優しく照らしていた黄金の輝きが、一瞬にして不気味な薄紫色へと変色していく。
それは視覚的な変化に留まらず、海水の「味」や「匂い」さえもが鉄錆のような腐敗臭へと変質した。
「見つかった! レオン、逃げるよ!」
リナが叫び、背後の影を爆発させて逃走経路を確保しようとする。
だが、レオンの一歩が踏み出せなかった。
いや、前に踏み出そうとした足が、まるで自分のものではない他人の肉体であるかのように、あさっての方向へと無様に折れ曲がったのだ。
「……何だ、これ……!? 身体が、勝手に……」
視界が歪む。
上下の感覚が消失し、海底が頭上に、空が足元にあるような強烈な眩暈がレオンを襲った。
右手を動かそうとすれば左足が跳ね、叫ぼうとすれば指先が震える。
脳が発する命令と、肉体が返す反応。
その「因果の糸」が、何者かによって複雑に、残酷に絡め取られていた。
「あら、意外と早かったわね。バグの修正依頼は、特急で届くものなの」
頭上のサンゴのテラス。
黄金の光を遮るように影を落とすその場所に、一人の女性が優雅に腰掛けていた。
薄い絹のような布を纏ったその姿は、一見すれば都の踊り子のようにしなやかだ。
だが、彼女が抱える巨大な**《音叉》**が、異常な威圧感を放っていた。
「……四天王が一人、『感覚』のセレナ。……あなたの『世界との繋がり』、少しだけ調整してあげる」
彼女が音叉の端を、指先で軽く弾いた。
キィィィィィィィン――。
水中に響くはずのない、鼓膜を直接針で刺すような高周波。
音叉の振動が伝わるたび、周囲のサンゴの壁に微細な亀裂が走り、物理的な共鳴が空間を歪ませる。
「ぐ、あああああッ!!」
レオンは耳を押さえてのけぞった。
だが、聞こえているのは「耳」ではない。
音叉が放つ振動は、海水の分子を媒体にして、レオンの神経系そのものをハッキングしていた。
「人間の意識なんて、結局は電気信号の羅列に過ぎないわ」
「アストレア様の庭に紛れ込んだノイズ君……」
「あなたの痛みを快楽に、右を左に、愛を憎しみに書き換える――」
「そんなチューニング、私には造作もないことなのよ」
セレナが再び音叉を鳴らす。
今度は重低音。
ズゥゥン、と腹に響く震動と共に、レオンの視覚から「色」が消え、完全なモノクロームの世界が訪れた。
「ああ……その顔。音が歪む瞬間の脳波、本当に美しいわ。もっと聴かせて、あなたの精神が崩壊していく音を」
セレナの瞳に、加虐的な悦びが宿る。
彼女が音叉を振るたびに、周囲の景色が微かにブレるような「不自然な静寂」が一瞬だけ訪れる。
「レオン、しっかりして! それは幻覚だよ!」
リナが駆け寄ろうとするが、セレナは冷たい視線を彼女に向けた。
「うるさいわね、バックアップの影使い。あなたには、もっと相応しい音をあげましょう」
セレナが音叉をリナに向けて振る。
瞬間、リナは悲鳴を上げてその場に蹲った。
彼女の耳には今、世界中の呪詛をかき集めたような不協和音が、脳を直接削る勢いで流れ込んでいた。
「ハッ……ハハ……」
レオンは、震える手で錆びた大剣の柄を握ろうとした。
だが、指先が柄に触れた瞬間、伝わってきたのは鉄の感触ではなく、灼熱のマグマに触れたような「激痛」だった。
「あ、が……ッ!?」
「いいわね、その顔」
「あなたの脳は今、
『剣を握る=指が焼き切れる』
という情報を、真実だと誤認しているの」
「さあ、どうする?」
「存在もしない火傷の痛みに耐えて――」
「鉄の棒を、握り続ける?」
セレナの言葉通り、レオンの指先からは実際に煙が上がっているようにさえ見えた。
精神が肉体を支配する――その理を利用した、逃げ場のない拷問。
「秩序とは、正しく感じるということよ。私たちが決めた通りに喜び、私たちが定めた通りに恐怖する。それがエルドラの平和を保つための、最も美しい『規律』」
セレナがテラスから静かに飛び降りた。
彼女の足が海底に着地するたびに、音叉が共鳴し、周囲の空間が波打つように歪む。
「……奪える、のは……感じ方、だけだ……ッ!」
レオンは歯を食いしばり、脳が捏造した激痛に全身を震わせながら、無理やり言葉を絞り出した。
「……俺が……進むって、決めた……事実までは……書き換えられねえ……!」
「あら、そう? じゃあ、その意志がいつまで『自分』のものだと言い張れるか、試してみましょうか」
セレナが音叉を大きく振りかぶる。
黄金の都の広場は、今や知覚の狂った悪夢の迷宮へと変貌していた。
レオンの視界は、白黒のノイズに埋め尽くされ、平衡感覚は完全に消失した。
だがその時、瑠璃色の魔力が、レオンの瞳の奥で歪な形で脈打ち始める。
それは、視覚でも聴覚でもない――。
奪われた五感の外側で、書き換えられる情報の先を予測し、「感じる前に、決断する」ための異物が、彼の魂に芽生えようとしていた。
黄金の都の空は、さらに深い、絶望の紫色へと沈んでいった。




