4話 黄金の綻び
エルドラの朝は、完璧な朝だった。
だが、その完璧さがどれほど残酷な均衡の上に成り立っているかを、レオンは知ることになる。
潜入二日目。都の端、サンゴのビル群が途切れる境界近くの広場で、その「不調和」は唐突に起きた。
都の華やかな喧騒からわずかに外れたその場所で、一人の老いた魚人が、二人の白銀の騎士に詰め寄られていた。
「……アストレア様の再計算が完了しました」
騎士の冷徹な声が、穏やかな潮流を震わせる。
「住民番号7749。あなたの住区における酸素供給優先度は、本日を以て最低ランクに引き下げられました。速やかに、都の外郭にある『再調整区』へ退去を」
「待ってくれ! 何かの間違いだ!」
老人は、震える手で騎士の装甲に縋り付いた。
「私は、この都のために一生を捧げてきた! 一日の欠勤もなく、アストレア様の教えを守り続けてきたんだ! 息子も、先月この都の防衛隊に志願したばかりで――」
「法は、平等に非情です」
騎士は感情を一切交えず、老人の手を冷酷に振り払った。
「あなたの労働生産性、および現時点での生命維持コストは、今の都の『最適解』を損なう要因となっています。エルドラの美しさを保つために、あなたの存在は不要と判断されました」
周囲には、買い出しの最中だった市民たちが足を止め、その光景を眺めていた。
そこには確かに同情の視線があった。
だが、誰一人として声を上げる者はいない。
助ければ、自分たちの「幸福の計算式」が狂う。
老人に分け与える酸素は、自分たちが享受するはずの幸福を削ることと同義だ。
老人を見送る群衆の中で、幼い魚人の子が母の袖を引いた。
「ねえ、あのおじいちゃん、どうして泣いてるの?」
母親は一瞬だけ言葉に詰まり、やがて優しく微笑んで子供の目を覆った。
「大丈夫よ。アストレア様が、あのおじいちゃんを“もっと幸せな場所”へ連れていってくださるから」
老人は、なす術なく連行されていった。
その背中が都の光に溶ける頃には、彼がそこに存在していた痕跡は、記録からも、そして人々の記憶からも、綺麗に消去されていた。
「……リナ、これって」
レオンが低い声で問いかける。隣に立つリナの顔は、苦い泥を噛み潰したように歪んでいた。
「これが『帳尻』だよ。アストレアの愛は、全宇宙への愛じゃない。彼女が描く『完成された絵』に適合するパーツだけを愛しているんだ。絵に合わなくなった古いパーツは、こうしてゴミとして捨てられる」
レオンは、震える手で剣の柄を掴んだ。
昨夜、テラスで感じた迷いは、今、氷のような冷徹な怒りへと変わっていた。
「……やっぱり、間違ってる」
レオンの声から、迷いが消える。
「管理されてる間だけの幸せなんて……。そんなの、生きてるんじゃなくて、生かされてるだけだ。明日には捨てられるかもしれない幸せを握りしめて、隣の誰かを見捨てるのが『楽園』だっていうなら……」
レオンは、偽装を施された釣竿を力強く握りしめた。
「俺は、この都ごと、みんなを檻から出す」
——たとえ、その鍵穴が“世界の理”そのものだとしても。
その魂の叫びに応えるように、錆びた大剣が鞘の中で青白い微光を放った。
隠しきれない殺気――「逆流」の奔流が、一瞬だけエルドラの静謐な理を乱した。
それは人間の感情ではなく、世界の計算式そのものを誤作動させる“ノイズ”だった。
その瞬間。
都は一瞬だけ、完全な静寂に包まれた。
まるで世界そのものが、深く息を吸い込んだかのように。
――直後、都の全域に、聞いたこともないような甲高い警報が鳴り響いた。
『――不確定要素を検知。座標、第4外郭、広場付近』
黄金の空、あらゆる場所から冷徹な合成音声が降り注ぐ。
逃げ惑う市民たち。
整然と並んでいた秩序が、一瞬にして「不純物」を排除するための防衛陣形へと書き換えられていく。
「潜入はここまでみたいだね、レオン!」
リナが身構え、影の触手を全方位に展開する。
『掃討モードへ移行。都の美しさを損なうノイズを、速やかに抹消せよ』
白銀の騎士たちが一斉に抜剣し、レオンたちを包囲した。
「来いよ……アストレア。お前の完璧な絵を、今から俺がメチャクチャにしてやる!」
レオンは大剣を抜き放ち、偽装の釣竿を粉々に砕いた。
現れたのは、美しき都にはおよそ似合わない、無骨で荒々しい錆びた刃。
ここからは、この美しい楽園を維持するためにレオンを殺そうとする、世界の理そのものとの戦いが始まる。
黄金の都の平和が、音を立てて崩れ落ちていく。
レオンは咆哮と共に、黄金の光の壁へと突っ込んだ。




