3話 自由への迷い
エルドラの夜は、昼よりもいっそう残酷なほどに美しかった。
都の全域を覆う黄金の防壁が、海流の微かな振動を受けて呼吸するように明滅している。
街路樹のサンゴは柔らかな燐光を放ち、昼間と変わらぬ清潔な酸素が、穏やかな眠りを誘うように都を満たしていた。
レオンは宿屋のテラスで、手すりに身を乗り出すようにして眼下の景色を見つめていた。
手の中には、昼間にあの少女から受け取った「真珠の手まり」がある。
その滑らかな表面は、月明かりのような燐光を反射して、どこまでも静かに、完璧に輝いていた。
「……リナ。あの子たちの笑顔は、本物だった」
沈黙を破ったレオンの声は、夜の静寂に吸い込まれるように掠れていた。
背後で、旅の道具を整えていたリナの手が止まる。
彼女は椅子から立ち上がり、レオンの隣へと歩み寄った。
「……そうだね。あれを偽物だと言い切れる人間は、この海にはいないだろうね」
「アストレアを殺せば、この都の光は消える」
レオンは手まりを握りしめた。
指先に残る少女の手の温もりを、振り払うように。
「この酸素も、穏やかな海流も止まる。そうなれば、あの子たちはリセ村と同じように、暗闇の中で窒息することになる。……俺がやろうとしていることは、ただの『破壊』なんじゃないのか。俺は、平和という名の救いを、俺のわがままで『虐殺』に変えようとしているんじゃないのか」
レオンは、偽装を解いた錆びた大剣を引き寄せた。
リセ村の祭壇に祀られ、絶望を斬るために手にしたはずの刃。
だが今のレオンには、その重厚な鉄の塊が、あまりにも悍ましい凶器に見えていた。
ヴァルガスの、最期の微笑みが脳裏にこびりついて離れない。
――救おうとするほどに、お前の手で世界は壊れていく。
「俺がこれまで戦ってきた連中……カイルやヴァルガスは、少なくともこの街の人々にとっては、紛れもない『正義の味方』だった。奴らがいたから、あの子は笑えたんだ。なのに俺は、その盾を奪い、守護者を殺している」
レオンの自問自答は、自分自身の存在意義を根底から揺さぶっていた。
復讐の先に待っているのが、さらなる広大な墓場であるならば、自分は一体何のために泳いできたのか。
「自由っていうのはさ、レオン」
リナが夜の海を見つめたまま、静かに口を開いた。
彼女の横顔は、黄金の灯火に照らされてどこか透き通るような悲哀を帯びていた。
「誰もが等しく、自分の足で立てるようになることじゃない。……誰も傷つかない、完璧な正解を用意してあげることでもない」
彼女はレオンの握る錆びた大剣に、そっと指を触れた。
「誰かが作った『綺麗な檻』の中で、思考を止めて死ぬか。それとも、自分で選んだ『泥濘の道』を、血を吐きながらでも自分の足で進むか。……その『選択権』を持つことなんだよ」
「選択権……?」
「そう。今のエルドラは、最高に居心地のいい揺り籠だ。でもね、レオン。揺り籠の中にいる限り、人は大人になれない。アストレアが用意した『幸せのテンプレート』をなぞるだけの存在は、もはや人間じゃない。それは……ただの、幸福な家畜なんだ」
リナの言葉は、冷徹なまでに鋭かった。
「あんたは、あの子の笑顔を奪おうとしているんじゃない。あの子がいつか『自分の意志で泣き、自分の意志で立ち上がる自由』を、アストレアの手から奪い返そうとしているんだよ」
「……でも、選ぶことさえ知らない奴らから、今の幸せを奪う権利が俺にあるのか?」
レオンの問いに、リナは悲しげに微笑んだ。
「それを決めるのは、アストレアでもあたしでもない」
彼女はレオンの瞳を真っ直ぐに見つめ、その剣の柄を強く握らせた。
「あんたの『剣』だよ。あんたがこの剣を振るうたびに、世界は書き換えられていく。その重みに耐えきれなくなった時、あんたは破壊者になる。でも、その重みを背負ったまま進み続けるなら……いつか、誰も見たことのない『本当の夜明け』が見えるかもしれない」
レオンは、剣の柄から伝わる冷たい鉄の感触に集中した。
リセ村の泥。海溝の叫び。
そして、この都の甘美な光。
それらすべてが、大剣の重みとなってレオンの腕にのしかかる。
「……泥濘の道、か」
レオンは呟き、手にしていた真珠の手まりを、手放すように、しかし名残を断ち切るように、静かに手すりの上へ置いた。
それは少女の善意を「捨てる」のではなく、あの子がいつか「自分の手で選び取る」その日まで、この場所に預けておくような、静寂に満ちた決別だった。
「綺麗すぎて吐き気がする。……ヴァルガスの言う通り、俺の進む道は地獄かもしれない。でも、誰かに決められた天国で死ぬよりは、マシだ」
レオンの瞳に、かつてないほど深く、不気味なまでに静かな瑠璃色の光が宿る。
それは、迷いを消したわけではない。迷いそのものを、力へと変えた者の眼差しだった。
「リナ。明日、都の『中枢』へ向かう。この楽園の維持に、どれだけの命が燃やされているのか……その『帳尻』をこの目で確かめる」
「……わかった。付き合うよ、地獄の果てまでね」
テラスの下では、相変わらず完璧なリズムで都の鼓動が刻まれていた。
だが、その調和を乱す唯一のノイズ――「自由」を求めるバグの少年は、今、自らの剣に全責任を預ける覚悟を決めた。
暗い海路の先に、カイルの銀髪が、そしてアストレアの黄金の双眸が待っている。
レオンは夜の闇を睨みつけ、錆びた剣を力強く鞘に収めた。




