2話 完璧なる秩序
エルドラの広場に足を踏み入れるほどに、レオンの感覚は麻痺していくようだった。
そこにあるのは「生命の躍動」ではなく、「平穏の結晶」だ。
広場の中央、透き通った海流の噴水では、子供たちが手を取り合い、一糸乱れぬリズムで無邪気に遊んでいる。
その笑い声は水中に溶け込み、心地よい和音となって耳に届く。
商店の店先には、かつてレオンが泥を啜るようにして手に入れていた新鮮な餌や、高純度の酸素石が山のように積み上げられていた。
ここでは誰も、飢えを知らない。
「明日、食べるものがない」という恐怖。
その原始的な苦痛を、この都の人々は言葉の意味ごと忘れているようだった。
「……お兄ちゃん、これあげる!」
不意に、小さな魚人の少女がレオンに駆け寄ってきた。
少女は、色鮮やかな真珠の手まりを差し出した。
エルドラの特産品であり、外海では一生かけても手に入らないような宝石に等しい玩具だ。
「え……?」
「巡礼の人でしょ? 遠くからお疲れ様! アストレア様が守ってくれるこの都は、世界で一番安全なんだよ!」
少女の瞳には、一欠片の曇りもなかった。
レオンが戸惑いながら受け取った時、少女の小さな手から、温かく、確かな鼓動が指先に伝わった。
それは紛れもなく、精一杯に今を生きている人間の体温だった。
この少女は、知っているのだろうか。
彼女が踏みしめるこの輝かしい大通りの、遥か真下の海溝で、ヴァルガスの重圧に押し潰されながら生きる同胞がいることを。
自分が今手にしているこの輝きが、誰かの「不自由」という代償の上に構築された、管理者の箱庭であることを。
(――俺はこの笑顔を、壊しに来たのか?)
レオンの脳裏に、ヴァルガスの遺した呪いが反響する。
「救おうとするほどに、お前の手で世界は壊れていく」。
もし、この都の「理」をレオンがその大剣で両断したならば、この少女の笑顔も、この宝石のような日常も、瞬く間に瓦解し、血と泥に塗れることになる。
それこそが、レオンが追い求める「自由」の結末だというのか。
都の至る所に設置された巨大なモニターには、黄金のベールを纏い、優しく微笑むアストレアのホログラムが映し出されている。
「……市民の皆さん、今日という平和を共有できる喜びを。私は常に、皆さんの鼓動を愛しています」
ここでは、管理者の名は「恐怖」ではなく、「愛」そのものとして語られていた。
「レオン、あっちを見て。……あいつが、この平穏の『盾』だよ」
リナの冷ややかな声に導かれ、レオンは広場の北側に位置する衛兵所に目を向けた。
都の防衛を担う白銀の騎士たちが、市民と親しげに談笑している。
その中心に、見覚えのある銀髪の騎士がいた。
カイル・ヴァン・オーシャン。
かつて海域の境界で、レオンに圧倒的な敗北を予感させた騎士。
しかし、今のカイルの姿は、以前見た冷徹な「剣の化身」とは別人のようだった。
彼は歩行が不自由になった老人の腕を優しく支え、泣きじゃくる迷子の頭を撫で、生活の困窮を訴える移住者の言葉に真剣な面持ちで耳を傾けている。
「……信じられない。あいつが、あんな……」
「そう見えるだろうね。でも、あれは演技じゃない。カイルは心底、この秩序を守ることに誇りを感じているんだよ」
カイルの仕草の一つ一つには、一片の淀みもなかった。
そこにあるのは、圧政に苦しむ民を救う英雄の姿ではない。
アストレアという名の「完成されたシステム」の不備を補い、慈しみ、隅々まで磨き上げる……。
世界で最も忠実で、最も模範的な「歯車」としての誇り。
カイルが不意に顔を上げ、視線をレオンたちのいる方向へ巡らせた。
リナの偽装魔法は完璧なはずだったが、その澄んだ視線はレオンという「存在」を通り越し――彼が背負った古びた釣竿、すなわち「大剣が隠されている場所」を、一瞬だけ測るように掠めた。
レオンの心臓が、鋭い痛みを伴って跳ねた。
カイルの瞳は、穏やかで澄んでいた。
だがその奥底には、自分たちの平和を脅かす「不純物」を塵ひとつ残さず排除しようとする、絶対的な意志が透けて見えた。
その瞳の輝きこそが、力によるヴァルガスの支配よりも、何倍も残酷で、何倍も揺るぎない。
人々はアストレアを信じ、騎士たちはアストレアを愛している。
そしてアストレアは、彼らを完全に幸福にしている。
「レオン、惑わされないで。この幸福の裏には、必ず『帳尻』を合わせるための廃棄場がある。この都の酸素がこれほど純白なのは、別の場所で誰かの命を燃やしているからだよ」
リナの言葉が、レオンをかろうじて現実へと繋ぎ止める。
レオンは少女から貰った真珠の手まりを、砕けんばかりに握りしめた。
その硬質な輝きは、もはや宝石ではなく、剥き出しの「世界の重み」となってレオンの両手にのしかかっていた。
俺は、本当にこの正義を斬り伏せられるのか。
この幸せな「箱庭」の外側に、本当の海があると信じて。
レオンは錆びた大剣の柄を、人混みの中で静かに確かめた。
黄金の光が、網膜を刺すように熱い。




