1話 楽園への潜入
澱んだ海溝を抜けた瞬間、世界は塗り替えられた。
肺を押し潰さんばかりの死の重圧は消え、視界を埋め尽くしたのは透き通った黄金の輝き。
アストレアが直接管理する最大の居住区、《黄金の都・エルドラ》がそこには広がっていた。
「……これが、都か」
眩い光が降り注ぐ。
黄金海流が運ぶ純白の酸素は甘く、色鮮やかなサンゴのビル群は幾何学的な美しさで整然と並んでいる。
「いいかい、レオン。ここからは一歩だって気を抜いちゃだめだよ」
リナが低い声で釘を刺す。
彼女が触れたレオンの背中の大剣が、黒い影に包まれ、みすぼらしい「古びた釣竿」へと変質した。
「あんたの『逆流』はこの完璧な秩序の中じゃ、白紙に落としたインクより目立つから。一瞬でも不純物だと判定されれば、街全体の防衛術式に消去されるよ」
リナは自分たちを「貧しい巡礼者」に偽装し、レオンの手を引いて門をくぐった。
都の中は、レオンがこれまでの人生で一度も見ることのなかった「幸福」が飽和していた。
広場では着飾った若者たちが談笑し、子供たちが飢えの影一つない笑顔で追いかけっこをしている。
そこへ、一人の少年がレオンたちの元へ駆け寄ってきた。
「旅人さん! これ、食べて!」
差し出されたのは、真珠のように透き通った木の実だ。
「巡礼中でしょ? エルドラへようこそ。アストレア様のご加護がありますように!」
屈託のない、汚れなき善意。
レオンが戸惑いながら実を受け取ると、少年は満足そうに笑って走り去っていった。
「……毒、じゃないよね」
レオンが呟くと、リナは静かに首を振った。
「本物の善意だよ。誰も飢えず、奪い合う必要がないから。……正直に言うね。私、一瞬だけ思っちゃった。ここでなら、もう戦わなくて済むのかもしれないって」
リナの瞳が、黄金の光を反射して一瞬だけ揺れた。
(もし……もし俺がこの街で生まれていたら、こんな重い剣を握らずに済んだんだろうか)
一瞬過ったその想いは、レオン自身が「奪われたはずの可能性」を突きつけられたような、鋭い痛みを伴っていた。
だが、生理的な違和感がその甘美な想像を打ち消す。
「リナ……。あの子たちの歌……歩き方や息を吸うタイミングが、合いすぎてないか?」
言われて気づく。
広場に流れる穏やかな音楽に合わせ、街全体の鼓動が一定のリズムを刻んでいる。
それは、ヴァルガスが力ずくで押し付けた「静止」ではない。
住人たちが無意識のうちに最適化され、アストレアという指揮者に合わせて踊らされている「自動演奏」のような秩序。
その時、隣で露店を出していた老人が不意に静止した。
瞳から光が消え、数秒後。
何事もなかったかのように動き出した老人の表情は、先ほどまでとは別人のような、完璧な「笑顔の型」に固定されていた。
「……更新だよ」
リナが震える声で囁いた。
「今、あの人の『役割』が書き換えられたんだ。常に最適な市民であるように」
美しすぎる楽園、エルドラ。
ここは、秩序を斬り裂く刃を持った男が、最も来てはならない場所――そして。
「……行こう、リナ。この光の裏側に、何があるのか確かめなきゃならない」
レオンは偽装された釣竿を握り直し、黄金の雑踏へ踏み出した。
その瞬間、遠く都の中央に座す《静謐の宮》の影が、巨大な眼差しとなってレオンの背中を射抜いた気がした。




